#14
クロさんに手伝われてなんとか着替えをすませ、再びドレスの波をかき分けて入り口近くに戻ると、ソラに気づいたエースが部屋を片づけていた手を止めて満面の笑みを見せた。
「お帰りソラ。さすがクロさんの見立てだね。似合ってるよ」
本心から言ったことなのだろう、その言葉には呆れるほどに何の嫌みも含まれていない。素直な賛辞だとわかってはいるものの何となく納得することができず、ソラは改めて自分の格好に目を落とした。
生地が違うとはいえ白いシャツを着ていることは制服のときと変わらないが、ブレザーとネクタイは丈の短い前開きのベストに替わり、無地で地味だった制服のズボンはくすんだ緑と青を基調にしたタータンチェックのものになっている。端切れを巻いただけだったナイフは、腰のベルトに取り付けたホルダーの中にすっきりと収まっていた。
これだけであれば、たいして複雑な造りでもないため一人でも十分に着替えられたのだが、そうはいかないものがひとつだけある。
(これのせいで一気にファンタジー感が増したというかなんというか……)
そんなことを考えつつソラが視線を移したのは、ローファーに替わって足下を覆っている革製のブーツだった。
足にピッタリとフィットしたブーツは、ものがいいのだろう、柔らかく履き心地がいい。それだけならば何の不満もないのだが、問題はこのブーツを身につける方法にあった。よく考えればわかることだが、この世界にファスナーなんてものがあるはずもなく、膝まで丈のあるブーツは当然のように編み上げ式になっていたのだ。
今回はクロさんが手伝ってくれたからいいようなものの、今後このブーツを脱ぐ機会があれば次は独力で長い靴紐と格闘しなければならない。それを思うと、ソラの口からは独りでにため息が漏れた。
「似合ってるかどうかはともかくとして、そろそろどうして着替える必要があったのか教えてくれるか?」
エースに視線を移しつつ、ソラが先ほど聞きそびれていたことを尋ねると、エースはひとつ頷いた。
「森で出会ったときにも言ったけど、俺を含め、不思議の国の住人たちは、さっきまで君が身につけていた服を見ただけで君が余所者だとわかってしまうんだ」
淡々とそう言ったエースの顔からはすっかり笑みが消えている。だが、ソラにはその理由がさっぱりわからなかった。
「それのどこがいけないんだ? あんたに俺が余所者だってバレたところで、なんともなかったじゃないか」
「それは相手が俺だったからだよ。もしあそこで出会った相手が俺じゃなければ、君はきっと危ない目に遭っていた……相手が悪ければ、命を狙われていたかもしれない」
「……何だって?」
不穏な言葉に思わず声を上擦らせたソラに対して、エースはあくまでも真剣だった。
「不思議の国に迷い込む人々――俺たちは【客人】って呼んでるんだけど、ソラみたいな客人にはみんな共通点がある」
「共通点?」
「ああ。客人は、一人の例外もなく【Alice Game】の参加者なんだ」
「アリスゲームの参加者ってことはつまり……」
途中で言葉を飲み込んだソラに対して静かに頷くと、エースはソラが考えていたことをそのまま口にした。
「客人が【Alice Game】の参加者だということはつまり、客人は……ソラは他の参加者にとっての敵で、邪魔ならば殺してしまっても問題がない相手。そういうことなんだよ」
いくら予想していたと言っても、改めてエースの口から聞かされたその事実は、ソラを打ちのめすのに十分すぎるほどの狂気をはらんでいた。
「ゲームの参加者は客人以外にもたくさんいるけど、この世界に不慣れな相手から排除しようってやつも少なくはない……」
「……だからあんたは、俺の安全のために着替えた方がいいって言ったんだな」
なんとか声を絞り出してソラがそう言うと、エースは困ったように弱々しく微笑んだ。
「ああ。その服を着ていれば、遠目から見たぐらいで客人だとバレることはないと思う」
そう言ったエースの瞳に暗い色を見た気がして、ソラは僅かに眉を顰めた。
どうしてかはわからないが、不思議の国や【Alice Game】について話すとき、エースはいつもどこか苦しげなのだ。
(俺の身を案じてるだけ……ってことはないよな)
いくらエースがお節介で気のいいやつだといっても、見ず知らずの、しかも危険しか呼び込まないとわかっている余所者に対して、ここまで親切になれるものだろうか。エースに限って裏があるとも思えないが、だからといって納得できるわけでもなかった。
「なあ……どうしてあんたは、余所者の俺に対してこんなに親身になってくれるんだ?」
気がつくと、ソラの口から疑問がこぼれ落ちていた。真っ直ぐなソラの言葉に僅かに目を見開いたエースは、次いで悲しげで自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「罪滅ぼししたいから、かな」
今にも雪のように溶けて消えてしまいそうなその呟きは、何かを悔いるようでいて、同時に自分への戒めのようでもある。これ以上踏み込んではいけないような気がして、ソラが何も言えずにいると、さっきまでとは一転した強い口調でエースが言った。
「ソラ、君はここに来るべきじゃなかった」
「なっ、いきなり何を言い出すんだよ。そもそも俺はここに無理矢理連れてこられて……」
あまりに理不尽な言いように反論しようとしたソラだったが、エースの複雑な色を湛えた瞳を見てしまえば口を噤むしかなかった。
「この世界は狂ってる……人の命を奪うことが仕事の騎士だった俺の目から見てもね」
「騎士、だった? あんたは今でも騎士なんだろ?」
エースの言い方に引っかかりを覚えて聞き返すと、曖昧な微笑みが返ってくる。
「そうだね。確かに俺は女王の騎士だ。でも――」
何かを言いかけたエースは不意に言葉を止めると、突然窓の向こうに視線を向けた。
「エース?」
その視線を追うようにしてソラが窓の向こう、薄暗くなり始めた森の中に佇む影を見たのと、エースが仕立屋から飛び出したのはほぼ同時だった。
「おい、待てよ!」
そう叫びつつ慌てて家を飛び出すと、エースの背中はすでにかなり遠くなっている。
「エース!」
その背に向かって声を張り上げると「ソラはそこにいるんだ!」とエースの声だけが返ってきた。紺色の軍服はすでに夕闇に紛れている。
エースが血相を変えて飛び出す直前、窓の外に立っていた誰か。ほんの一瞬しか見えなかったものの、妙に印象に残っているのはきっと、
「髪が白かったから……」
白い髪を持つ人物など、ソラはたった一人しか知らない。そう、白ウサギしか。
「くそっ」
そう吐き捨てると、ソラはエースが消えた方角へと走り出した。