#12
――ルールはとても簡単なのよ。
あの日、広間に集めた臣下たちの前で、女王は軽やかにそう言った。
そして、その頃まだ赤を身に纏っていたエースは、白ウサギの隣に並んで、続く言葉を聞いたのだ。心の底から嬉しそうな白ウサギの微笑みを、狂気に満ちたその表情を見つめながら。
――アリスを差し出しなさい。決して殺すことなく、私に献上するのです。
「アリスを、差し出す?」
言われたことをそっくりそのまま聞き返したソラに、エースは頷いた。
「【Alice Game】のルールはアリスを殺さずに女王に献上すること。それだけだ」
「たった、それだけ?」
エースの表情からもっと過酷な条件を想像していただけに、ソラはすっかり拍子抜けしてしまった。だが、なんだそれだけか、と肩の力を抜いたソラに対して、エースの表情は晴れないままだ。どうかしたのかと様子を窺っていると、ぽつりと掠れた呟きがこぼれ落ちた。
「それだけだから、駄目なんだ」
絞り出すようにそう言ったエースの意図するものがわからず、ソラは眉を寄せる。そんなソラを正面から見つめると、エースはひとつひとつ言い含めるように言葉を継いだ。
「ソラ。ルールがそれだけしかないということは、それ以外を縛るものが何もないということだ」
「ああ。それぐらい俺にもわかる」
「いいや、君はわかってない。この国には……【法】がないんだ」
「法が、ない……?」
「そう、ないんだ。倫理や秩序もね」
重々しく告げられた言葉がソラの頭の中に反響する。エースが嘘を言っていないことは彼の目を見れば明らかで、特別に難しい言葉を使われたわけでもない。だが、その言葉の意味するところは、ソラの理解を、彼の中に息づく常識を超越していた。
「不思議の国にあるのは、絶対の存在である女王と、彼女が始めたゲームのルール。……それだけなんだ」
「じゃあ……アリスを殺さずに差し出しさえすれば、後は何の制約もないってことか?」
ソラが慎重に紡ぎだした問いに、エースは黙って目を伏せた。それを無言の肯定と受け取ったソラは、言いしれぬ感情の波を押さえるようにきつく手のひらを握り込む。
「ソラ、君には何の制約もないってことの意味がわかってるのか?」
「ああ」
「本当に?」
「だからわかって……」
ソラの肩を掴んで重ねて問うエースの腕を払いのけようとして、ソラはその力の強さに驚いた。エースの追いつめられた様子に思わず言葉を失う。
エースは何故こんなにも必死なのだろうか。この問いの答えは、今のソラにはわからない。
「ゲームにはルールがある。そして、勝者がいる」
「勝者……」
「ああ。【Alice Game】の勝者は、女王にアリスを差し出した者だ。そして勝者には褒美が与えられる」
ゲームに勝った者が賞品や報償を得るのはそう珍しいことではない。だからこそエースが言いたいことがわからず、ソラはただエースの次の言葉を待つしかなかった。
「女王は、ゲームの勝者に望みのものを与えると言ったんだ……。それを聞いて多くの者がゲームへの参加を決め、アリスを捜した。必死になってね」
「それのどこがいけないんだ? どこにもおかしなところなんてないだろ」
「そうだね。その通りだ。だけど、このゲームにはルールが少なすぎた。ねえ、ソラ。アリスを殺さなければいいということは……アリスじゃなければ殺してもいい、そういうことなんだよ」
エースが言っていることを理解した瞬間、ソラは自分が今腰掛けている屋根が崩れていくような錯覚にとらわれた。
エースは確かに法も、倫理も秩序も存在しないと言った。この世界にあるのは女王と女王の始めたゲームのルールだけだと。だが、だからと言って殺しあえというのか? ゲームに勝つために、望むものの為にはそれもしょうがないのだと。
何かを変えるために。何かを変えたいのならば。
ぐちゃぐちゃになった頭の中を必死に整理しながら、ソラはベルトに挟んだナイフに触れた。
(白ウサギは俺に餞だと言ってこれを渡した。このナイフで変えて見せろってことなのか……? 俺に、このゲームを勝ち抜いて見せろと?)
そして本当にこの考え方がまかり通るのだとすれば、この国は、この世界は――
――ここは不思議の国。彼女のための狂った世界。
初めて会った時と同じ燃えるような夕焼けの中で、ソラは白ウサギの冷たい笑みを含んだ声を思い出していた。