#9
白と黒の大理石を交互にあしらった廊下を抜けた先の広間。その奥の一段高くなった玉座に、一人の少女が腰掛けていた。
緩く波打つ淡い金色の髪に、深紅のドレス。ふんだんに使われた布地やレースの間から覗く肌は雪のように白く美しい。長いまつげに縁取られた薄青の大きな瞳にバラ色の頬が愛らしい彼女は、瞬きさえしなければ職人が精魂込めて作り上げた人形のようだった。
「女王陛下」
不意に聞こえてきた男の声に、それまで愁いを帯びた瞳で虚空を見つめていた少女――ハートの女王は顔を上げた。
「あの方がお見えになりました」
側に控えた男がそう告げた瞬間、女王の憂いがさっと晴れ、まるで大輪の花のような瑞々しい笑顔が広がった。
「やっと会いに来てくれたのね……。早くここへ通してちょうだい」
女王は広間の入り口を見やって小さく呟くと、玉座から身を乗り出すようにして男に命じた。
「御意」
男は女王に一礼すると、広間の入り口に待機させていた城の衛兵に向かって片手を上げた。合図を受けた衛兵が扉の向こうへ姿を消す。
ほどなくして戻った衛兵は、傍らに白ウサギを連れていた。
まったく臆することなく女王の前へ進み出た白ウサギは、つかみ所のない微笑みを浮かべたまま玉座の前に膝を折った。
「ご無沙汰しておりましたことをお許しください、女王陛下」
普段の彼からは考えられないほど甘く優しい声でそう言うと、白ウサギは女王の手を取りそっと口づけた。
「貴方はいつもそればかり。心ない言葉しかくれないのね」
「おや、これは手厳しい」
不満げな女王の言葉をさして気にした風もなくそう言うと、白ウサギは女王から少し距離を取って向かい合った。女王の側近くに控える男にちらりと視線を投げかけると、改まった調子で口を開く。
「陛下、今日はご報告したいことがあって参りました」
先ほどの少し砕けた雰囲気から一転して畏まった白ウサギに、女王は悲しげに眉を顰めた。
女王に対して恭しい態度をとる白ウサギだが、彼は女王の臣下というわけではなく、女王の賓客という立場に身を置いていた。
彼女が白ウサギと初めて会ったのは、もう随分と昔のことになる。突然白ウサギが目の前に現れた日の記憶は、今でもまるで昨日のことのように鮮明だった。あの頃のことを思えば、随分と親しげに言葉を交わせるようにはなったものの、これまで一度として白ウサギが女王に心を開いたことはない。それが、彼女の憂いだった。
何とか白ウサギを繋ぎ止めようと城に部屋を与えてみても、彼はふらりとどこかへ出かけてしまうことが多く、女王が訪ねる部屋はいつだってからっぽ。だから女王は彼が自分から会いに来るのを待つしかない。そして、彼が会いに来るときはいつだって「不思議の国の女王」に用があるときなのだ。それを思うと、いつだって心が冷たく凍えるようだった。
それでも、女王は待ち続けるのだ。悲しく冷たい玉座の前に、彼がひざまずくその時を。自分と白ウサギを結ぶ細い糸を自らの手で断ち切る訳にはいかなかった。
だから女王は受け入れる。この国に君臨するハートの女王として、
「……わかりました。聞きましょう」
白ウサギと向き合うのだ。
女王の言葉にひとつ頷くと、白ウサギは静かに切り出した。
「先ほど、新たな客人を連れて参りました」
その言葉に、女王は大きな目をさらに見開く。
「ではその者が……!」
「いえ、残念ながら」
叫ぶような勢いの女王の言葉を、白ウサギは静かに否定した。
「……そう」
落胆とも安心ともとれる呟きを漏らして、女王は白ウサギに尋ねる。
「それでは、引き続き【Alice Game】を続けましょう。それでいいのね?」
「ええ」
満足そうに微笑むと、白ウサギは再び膝を折った。
「それでは、陛下。私はこれで」
「もう行ってしまうの? まだ会ったばかりだというのに」
言葉以上に気持ちを語る女王の瞳を微笑みでかわすと、
「またすぐに参りましょう」
そう残して、白ウサギは広間を後にした。
「また、行ってしまったわ……」
切なげな呟きに答える声はない。
女王は溢れそうになる感情に蓋をして心の奥底に押し込めると、黙って側に控えている男の名を呼んだ。
「ジャック」
そう呼ばれた男――女王の側近中の側近である騎士、ハートのジャックは、「は」と短く返答をして女王の前に片膝をついた。
赤と白を基調とした軍服を身に纏い、腰には柄にハートの意匠が彫られた長剣。夜空を思わせる深い藍色の髪はうなじの辺りでひとつにまとめられており、前髪の隙間からのぞく切れ長の目には何の感情も映されていない。
玉座の上からジャックの姿を一瞥すると、女王は静かながらも力強い口調で告げた。
「新しい客人について調べてちょうだい。あの方の言葉を疑うわけではないけれど……なんとしても、あの方より先に見つけなければならないの……」
白ウサギの背中を追うかの様に広間の入り口を見つめる女王の横顔には、どこか思い詰めたような焦りが見える。
「もう手段を選んではいられないわ。ここに、イモムシを呼びなさい」
「仰せのままに」
凛とした声で命じた女王に、ジャックはいっそう深く頭を垂れた。
一礼して広間を辞したジャックを見送ると、広大な広間に女王だけが残される。
「どうして貴方の心は手に入らないの?」
小さな小さな呟きは、誰の元へも届かず消えた。