苦しみとの和解
彼女は長いあいだ、苦しみのない人生を探していた。
苦しまないために勉強した。後悔しないために努力した。人に嫌われないように気を配り、未来の自分が困らないように、今の自分を奮い立たせた。
そうしていれば、いつか安心して生きられる日が来ると思っていた。
けれど、どれだけ頑張っても、苦しみはなくならなかった。
むしろ、苦しまないようにと気を張りつめるほど、彼女の心は疲れていった。
ある日、彼女は立ち止まった。
もう、十分なのではないかと思った。
これ以上、自分を追い立てなくてもいいのではないか。
これ以上、過去の傷をなかったことにしなくてもいいのではないか。
苦しかったことは、苦しかったこととして、そこにあっていい。
そう思えたとき、彼女は初めて、自分の過去を無理に変えようとするのをやめた。
傷ついた記憶は消えないかもしれない。ふとした瞬間に、胸が痛む日もあるだろう。
それでも、毎日その傷を確かめなくてもいい。
痛みがあることと、今も不幸であることは、同じではないのだから。
*
春が来た。
彼女は新しい職場で働いていた。
朝、家を出る。仕事をする。帰宅して、家族と夕飯を食べる。休日には本を読んだり、友人と出かけたりする。
特別なことは何もなかった。
以前の彼女なら、こんな日々に物足りなさを感じたかもしれない。もっと成長しなければ。もっと何かを成し遂げなければ。そう考えて、穏やかな時間の中にも課題を探しただろう。
けれど、今は違った。
夕飯がおいしい。
家族が元気でいる。
職場の人たちが優しい。
夜、安心して眠れる。
それだけで、十分に幸せだった。
苦しみが完全になくなったわけではない。
ときどき、過去の自分を思い出すこともあった。あの頃の自分は、どうしてあんなに苦しかったのだろう。もっと違う生き方ができたのではないか。
そんな問いが浮かぶこともあった。
でも、彼女はもう、答えを出そうと焦らなかった。
わからないことは、わからないままでいい。
過去のすべてに意味を見つけなくてもいい。
ただ、あの頃の自分が必死に生きていたことだけは、わかっていた。
だから、今の自分くらいは、その努力を認めてあげたかった。
*
ある休日、彼女はひとりで山を歩いた。
木々の間から光が差し込み、風が頬を撫でていく。足元には落ち葉が積もり、遠くから鳥の声が聞こえた。
彼女は立ち止まり、深く息を吸った。
人生には、どうしても避けられない苦しみがある。
大切な人との別れ。思いどおりにならないこと。失った時間。取り戻せない過去。
どれだけ気をつけて生きても、すべてを防ぐことはできない。
それならば、苦しみをなくすことだけを目標にしなくてもいいのかもしれない。
苦しいときには、休めばいい。
悲しいときには、悲しんでもいい。
元気なときには、笑えばいい。
どの自分も、自分の人生から追い出さなくていい。
苦しみが訪れたからといって、幸せな日々まで否定する必要はない。
幸せな日々が続いているからといって、過去の苦しみが嘘になるわけでもない。
その両方を抱えながら、人は生きていける。
彼女は再び歩き始めた。
*
帰宅すると、夕飯の支度ができていた。
彼女は手を洗い、食卓についた。
温かい料理をひと口食べる。
おいしい、と思った。
それから、窓の外が少しずつ暗くなっていくのを眺めた。
明日、何か嫌なことがあるかもしれない。
また心が揺れる日も来るかもしれない。
それでも、今は穏やかだった。
未来の苦しみを先回りして心配することも、過去の苦しみを何度も振り返ることもせず、彼女はただ、目の前の夕飯を味わっていた。
苦しみのない人生を手に入れたわけではない。
苦しみがあっても、幸せになれると知ったのだ。
そして、それは彼女にとって、何かを成し遂げることよりも、ずっと大きな変化だった。
人生は、苦しみを克服し続けるためだけにあるのではない。
苦しみながらでも、笑える。
傷ついたままでも、人を愛せる。
過去を抱えたままでも、新しい日々を始められる。
彼女はもう、自分の人生が完全になる日を待ってはいなかった。
不完全なままの今日を、ちゃんと生きていた。
それでいいのだと、今は思えた。




