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苦しみとの和解

作者: ごはん
掲載日:2026/10/18

彼女は長いあいだ、苦しみのない人生を探していた。

 苦しまないために勉強した。後悔しないために努力した。人に嫌われないように気を配り、未来の自分が困らないように、今の自分を奮い立たせた。

 そうしていれば、いつか安心して生きられる日が来ると思っていた。

 けれど、どれだけ頑張っても、苦しみはなくならなかった。

 むしろ、苦しまないようにと気を張りつめるほど、彼女の心は疲れていった。

 ある日、彼女は立ち止まった。

 もう、十分なのではないかと思った。

これ以上、自分を追い立てなくてもいいのではないか。

 これ以上、過去の傷をなかったことにしなくてもいいのではないか。

 苦しかったことは、苦しかったこととして、そこにあっていい。

 そう思えたとき、彼女は初めて、自分の過去を無理に変えようとするのをやめた。

 傷ついた記憶は消えないかもしれない。ふとした瞬間に、胸が痛む日もあるだろう。

 それでも、毎日その傷を確かめなくてもいい。

 痛みがあることと、今も不幸であることは、同じではないのだから。

     *

 春が来た。

 彼女は新しい職場で働いていた。

 朝、家を出る。仕事をする。帰宅して、家族と夕飯を食べる。休日には本を読んだり、友人と出かけたりする。

 特別なことは何もなかった。

 以前の彼女なら、こんな日々に物足りなさを感じたかもしれない。もっと成長しなければ。もっと何かを成し遂げなければ。そう考えて、穏やかな時間の中にも課題を探しただろう。

 けれど、今は違った。

夕飯がおいしい。

 家族が元気でいる。

 職場の人たちが優しい。

 夜、安心して眠れる。

 それだけで、十分に幸せだった。

 苦しみが完全になくなったわけではない。

 ときどき、過去の自分を思い出すこともあった。あの頃の自分は、どうしてあんなに苦しかったのだろう。もっと違う生き方ができたのではないか。

 そんな問いが浮かぶこともあった。

 でも、彼女はもう、答えを出そうと焦らなかった。

 わからないことは、わからないままでいい。

 過去のすべてに意味を見つけなくてもいい。

 ただ、あの頃の自分が必死に生きていたことだけは、わかっていた。

 だから、今の自分くらいは、その努力を認めてあげたかった。

     *

 ある休日、彼女はひとりで山を歩いた。

 木々の間から光が差し込み、風が頬を撫でていく。足元には落ち葉が積もり、遠くから鳥の声が聞こえた。

 彼女は立ち止まり、深く息を吸った。

 人生には、どうしても避けられない苦しみがある。

 大切な人との別れ。思いどおりにならないこと。失った時間。取り戻せない過去。

 どれだけ気をつけて生きても、すべてを防ぐことはできない。

 それならば、苦しみをなくすことだけを目標にしなくてもいいのかもしれない。

苦しいときには、休めばいい。

 悲しいときには、悲しんでもいい。

 元気なときには、笑えばいい。

 どの自分も、自分の人生から追い出さなくていい。

 苦しみが訪れたからといって、幸せな日々まで否定する必要はない。

 幸せな日々が続いているからといって、過去の苦しみが嘘になるわけでもない。

 その両方を抱えながら、人は生きていける。

 彼女は再び歩き始めた。

     *

 帰宅すると、夕飯の支度ができていた。

 彼女は手を洗い、食卓についた。

 温かい料理をひと口食べる。

 おいしい、と思った。

 それから、窓の外が少しずつ暗くなっていくのを眺めた。

明日、何か嫌なことがあるかもしれない。

 また心が揺れる日も来るかもしれない。

 それでも、今は穏やかだった。

 未来の苦しみを先回りして心配することも、過去の苦しみを何度も振り返ることもせず、彼女はただ、目の前の夕飯を味わっていた。

 苦しみのない人生を手に入れたわけではない。

 苦しみがあっても、幸せになれると知ったのだ。

 そして、それは彼女にとって、何かを成し遂げることよりも、ずっと大きな変化だった。

 人生は、苦しみを克服し続けるためだけにあるのではない。

苦しみながらでも、笑える。

 傷ついたままでも、人を愛せる。

 過去を抱えたままでも、新しい日々を始められる。

 彼女はもう、自分の人生が完全になる日を待ってはいなかった。

 不完全なままの今日を、ちゃんと生きていた。

 それでいいのだと、今は思えた。

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