――カイ――
【――壊――】
Ⅰ 聖夜。冷え切った煉瓦の道を、あたしは一人歩いていた。街には笑い声と雪と、甘い香りが漂って、どこか夢のような心地よさを感じる。遙か後方の闇夜の中、丘を越えた先には、かつてあたしが住んでいた邸が建っている、はずだ。錆びついた街灯が、小さな火で道を照らし、負けじと星々が瞬いて、家や店からは音が漏れ出ていた。それはとても幸せに見えた。
Ⅱ あたしの平穏は突如として、硝子のように崩れ去り、身近に存在したすべてが壊れた。突如天に召した母。行方の知れない父。その後は、他愛ない日々を兄と過ごしていた。けれど、それすらも世界は許してくれなかった。四年後、兄は牢獄での暮らしを強いられるようになった。あたしを取り巻くすべてが、あたしから遠ざかるように、粉々に壊れ、儚く散った。
Ⅲ 暖色に照らされた赤煉瓦の道、立ち並ぶ緑青の街灯。白に淡い黄色に、橙の壁。煙突から揺らめいて昇る薄い煙。暗い碧色の夜空。瞬く星。白。橙。黄。水。白。冷たい風が首を撫でて、巻きつけた翠の襟巻が軽く揺れる。羽織った外套は硬く、そう簡単にはあたしの体に風を触れさせない。再び道へと視線が戻って、あたしは大通りを一人、歩き始めた。
Ⅳ あの夜、邸の大きな窓から差し込んだ、幾筋かの蛍光が今も脳内に燻っては消えていく。鋭い青が、盛る赤が、鳴り響く、耳鳴りのような音が、記憶の奥を裂くようにして貼りついている。刻をきざむ針の音が、その秒間が果てしなく長く続いて、人のものと思えない咆哮が夜の空に纏わりつく。長く凍えたあの時間が、四年経った今もなお、忘れられずにいる。
Ⅴ 大通りを抜け、街の賑わいが煩い広間に出る。一層眩しくなった暖色の光と、喧騒を増した人々の声。漏れ出る喘ぎ声。胸が騒がしくて、何か変なものに憑かれてしまいそうで、でもなぜか、あたしの体は離れようとしなかった。声が落ちるその家に近づいて、窓を覗き込む。駄目なことをしているという背徳感と、相手のしている行為が相まって、あたしの鼓動は早まるばかりだった。
Ⅵ いつだっただろうか。あたしがまだ、十三も満たないころだっただろうか。兄が邸へ連れてきたその女性の、嫌悪に塗れた表情を、今でも思い出せた。兄は強引にその腕を引いて、自室へと籠った。好奇心の塊であるあたしは、兄の部屋を覗こうとして、でも鍵がかかってたから、扉に耳を当てて、音だけを拾っていた。何かを打ち付けるような音だけが扉を震わせた。
Ⅶ あの頃のような音に惹かれたのか。正体を、見たかったのか。自分に問う、答えは返ってこない。窓の奥に見えた景色は、寝室だった。女性は寝床に転がって、男性が覆いかぶさる。息が荒くなる。どうにか、理性があたしに怒鳴る。まだ見ていたい気持ちもあったけれど、襲い来る下半身の疼きと、罪悪感が拭えず、あたしは窓を離れて、大通り脇の路地へと入り込んだ。
Ⅷ 薄暗く、微かに腐敗臭の漂う路地裏は、けれど、喧騒とはかけ離れていて落ち着いていた。足元を鼠が這い、捨てられた果実の芯が転がり、大きな黒い袋が並び、いつまで歩いても、下半身は疲れるばかりで、疼きが収まることはなかった。水溜まりが乾ききっていない。湿った道をただ歩む。硬い外套が邪魔で、でも脱ぎたくなくて、結局暑さを孕んだままに歩き続けた。
Ⅸ 再び開けた景色を目にしたとき、そこはもう、聖夜を楽しむ街ではなかった。草花が生い茂り、遠くには月明かりに照らされた高楼群が並んでいた。今通った汚れた道を、また歩くのは嫌だったから、都市へと向かうのはやめた。回り込んで、広間に戻る。談笑、喧騒、道標。眠い。外套を脱いで、木製の長椅子に敷く。寝転がって、やっぱりかけるものが欲しくて、外套を体の上に纏う。
Ⅹ 翌朝。響く鳥の囀りと、酔いから醒めた人々の話し声が耳に残る。外套はそこになく、けれど、他に盗まれたものは何もなかった。周りには何の痕跡も落ちていなくて、あたしは結局諦めることしか許されなかった。行先のない怒りを抱えたまま、朝の香りが漂う街を歩く。空は曇っていて、早く安心できる場所が欲しかった。昨日歩いたあの路地裏は、昨日以上に暗く感じた。
Ⅺ 暫く歩いた末、淡く色とりどりな、大きな煉瓦の建物が見えた。扉は軽く開いていて、鍵は壊れていた。中に入ろうと扉を押し込んだけれど、少し軋んだだけで、微塵も動く気配がなかった。少しずれる度、塵埃が舞って、黴の臭いが鼻を突く。隙間から体を通して、暗がりの中に歩みを進める。壁一面に伝う植物の蔓と天井に纏う蜘蛛の糸。
Ⅻ 一階部分には、上へ延びる螺旋階段と、暗い地下へと延びる道、それから、埃塗れになって綻びた布製の長椅子、そして割れた食器だけが散乱していた。気味が悪かった。上に続く階段は、壊れて抜け落ちていたから、上層階に昇ることはできなかった。下層階に降りて、辺りを軽く見渡して、明かりをつける。どうにか、電気だけは残っているようだった。
【――骸――】
Ⅰ 形骸化した、凄惨な地下の光景。細長い骨が幾本か転がって、それら全てが黄ばんで汚れていた。あまりの埃の量に咳が出て、肺が痛んだ。喉は呼吸を拒絶し、足は震えて、指先は凍ったように冷たかった。頭は真っ白で、声に為らない叫び声をあげて、入口へと走った。気づけば、どう移動したのか、二階部分に座り込んでいた。
Ⅱ 上下する肩。吐き出される二酸化炭素。震える脚。背筋は冷たく、けれど、血液の熱が通っていく。腐って欠けた木材の床が、あたしが軽く動く度に不穏な音を立てて軋む。普段よりも早い呼吸が、吐息が足に降る。不気味な空気を抱えたまま、あたしは後ろを向いた。このまま座っていては、階段の穴に落ちてしまいそうだった。それがただ、とても怖かった。
Ⅲ 元の色が分からない、褪せた本棚の中に、埃と蜘蛛の巣を纏った本が、数冊だけ置かれていた。上には割れて、微かに土が残った花瓶と、枯れ朽ちた花、だったものが萎れていた。凄然としたその風景と、窓から見えた地上の景色が、十二月も終わり際だというのに、異国の秋仮装宴のような景色に見えた。不意に、甘いものが欲しくなった。
Ⅳ 未だ晴れる兆しのない空模様。それどころか、薄く広がっていた月明かりですらも見えなくなっていた。暗雲。いつか読んだ、母の日記を思い返す。暗雲。裂かれる。青白い光。轟音。稲妻。雷鳴。豪雨。水滴。窓。滴る水。窓。叩きつけられる。窓。鍵は閉まっていない。風に煽られては音を立てて勢い良く動く。奥に広がった南瓜畑が、あたしに笑みを向ける。
Ⅴ 何かが揺れる音に気付く。耳を澄ませど、それが窓から発せられる音でないことだけはわかった。もう一度、この部屋を見渡す。さっきには気づかなかった、米国漫画風の人形が数体横たわっていた。怪しげな札が壁に貼られていた。床には、俗に云う”魔法陣”が描かれていた。天井には緑色に光る蝋燭が吊るされていた。
Ⅵ 腐りきって穴の開いた階段を横から見つめる。もし落ちたら、きっと、大怪我では済まないだろうと思う。そんな恐怖が頭の中に渦を巻いて、でも、目を逸らすことはなかった。深呼吸を一つ、二つ、三つ。気が和らぐ。空腹を感じる。恐る恐る、階段へと向かう。息が、荒くなる。足が、震える。それでも、一歩を踏み出す。歪んだ音を立てて、でも崩れることはなかった。
Ⅶ 穴を超え、歪な階段から、床へと降り立つ。そこには、入口に敷いてあった絨毯などなく、殺風景な石造りの、円形の空間だった。壁は低い。円の淵に、起伏を成して敷かれた灰色の煉瓦が、どこか西洋の城の尖塔のようで、不思議な心地であった。振り返っても、降りてきたはずの階段はない。見渡しても、降りるための道はない。
Ⅷ 漠然と広がる雲をも見下ろせるほどの、謎の場所。高い。寒い。飄々と凪ぐ風が、肌を震わす。遥か下層、雲を超えた先、南瓜畑の中に見た、青緑の光。ただ純粋な、雷の紫が、黒く染まった雲を彩っている。そっと、片足を、やがては両足を外に出す。腰は互い違いな煉瓦の隙間に収まって、落ちる気配はなかった。完璧に嵌った大きさが、ただ心地よかった。
Ⅸ 脊髄を、冷たい何かが走る。百足が這うような、優しく撫でるような。寒気がする。早く建物に戻りたかった。死にたいわけじゃないけれど、他に策は思いつかず、けれど決行することはできずにいた。天高く聳える摩天楼、今あたしがいるこの場所から、飛び降りる――。それしか、できることはなかった。辺り一面、この場所以外の地面はなく、壁も起伏がなかった。
Ⅹ 腕から力を抜いて、後ろに倒れこむ。息を吸って、吐く。再び起き上がって、相変わらず不気味な景色を一望し、降りる。意外にも簡単に抜けてしまって、その驚きすらも、瞬く間に流れていく景色には及ばなかった。風が体に打ち付けられて、雲を抜けたとき、そこは見知らぬ世界のようで、下には川が流れていたけれど、到底届かない。
Ⅺ あたしの体が地に墜ちる、直前。そこは、あの建物の、入口だった。痛みはない、けれど、体を取り巻く怠さは強く纏う。襟巻は、天井に絡まりついて、飛び降りたことが夢ではないのかもしれないと思う。極度の混乱と恐怖で、あたしの脚は言うことを聞かず、暫く真面に歩くことができずにいた。窓の外に見えた南瓜が、あたしを嗤っている。
Ⅻ 寝床に付着した埃を、布団をとって、只管に掃除し続けた。せめて、今日寝る場所は確保したかった。何時間、こんなことをしていただろう。南瓜畑の光が強くなって、霧が辺りを包む。夜。地下室に入り、電機は付けず、転がる骸を通り過ぎた。持ち手の錆びた箒を取り出して、急ぎ足で戻る。生まれて初めて経験する掃除に、少しの期待が高まったのを感じる。
【――階――】
Ⅰ 翌朝、あたしは二階部分にも階段があるのを見つけた。螺旋状に伸びているその階段は、昨日にはなかったような気がする。二階へと昇る階段は腐った木材だったけれど、二階部分から延びるそれは、邸で見慣れた、白く艶が輝く石で出来ていた。名も知らぬその素材が、でも、この場所にそぐわないことだけは確かだった。
Ⅱ 恐怖。それは確かにあたしの心を侵食した。それ以上に、好奇心が強かった。穴の開いた階段は、やっぱり怖かったけれど、それでも上った。不気味な人形と割れた花瓶を無視して、ただひたすら進んだ。外の景色は、一歩踏む度に変化した。霧が覆い隠したり、雨が降ったり、満開の桜が見えたり、星空が煌めいたり。裸足で踏みしめる階段は、只管に冷たいままだった。
Ⅲ 明らかに高くなっていく天井。埃を踏んだ足は、三階の床の冷たさを直に感じている。窓の外の風景は、油絵の具を振りまいたような、色彩が暴れたような、微睡のなか見えた世界のような、綺麗とは程遠く、色の着いたヘドロともいえるような世界であった。邸に劣らぬほど整えられたこの階層に、家具は一つもなく、あの人形だけが転がっていた。
Ⅳ 窓の外、景色を画材のようにして染め上げていた、ヘドロのような濁流の光が、白一色の床を、微かに、確かに染め上げている。斑に侵食されていく白色の床が穢れてゆく度に、それが芸術のようで、不思議と恐怖心は抱かなかった。佇み、転がり、吊るされた人形たちは毒々しい絵の具に染まりきっていて、きっと、あたしの服も穢れたんだろうなと思った。
Ⅴ 床の淵、大理石を紙のようにして汚していた、油絵の具のような幾千の光が、夢見心地なあたしの脳を、僅かに、きっと染め上げている。点々と犯されていく純潔の精神が壊れてゆく度に、それが気持ちよくて、不思議と恐怖心は抱かなかった。焦点の合わない人形たちを毒々しく染まった光の中見つめる。あたしの服は、まだ何色にも染まっていなかった。
Ⅵ 再び延びていく階段を見つめる。どんなふうに歪んでいくのか、少し楽しみにしている自分がいる。不自然なほどに自分のことが他人のように思え、でもそれも気のせいだったかもしれない。空には麗しい満月が浮かぶ。星々は暗く闇に潰えて、薄く広がった霧のような朧雲が月を暈す。狼が吠える。鎖が靡く。七回の金管楽器。黙示録。終末。
Ⅶ 四階。空には蜜柑のような、暖かな橙が広がっている。時計の針があたしを指す。雲はない。少し早い三日月が、薄く太陽の向こうに佇む。壊れている。■回目の金管の音。神々の黄昏。曇。雨。月。陽。陰。風。雷。大地が揺れる。地震、そんな言葉が浮かぶ。建物は動かない。鎖が振られる。人形が倒れる。鐘がなる。二度、三度、五度鳴って、止まる。
Ⅷ 抜け出せない。深海に沈んだ檻のような空気のないような息苦しさの中胸に詰まった苦しみを分かち合える相手がいるはずもなく人形たちはただそこにいて外は歪んで下に降りる階段は消えただ只管に上へ上ることしか許されずそれが示すのはきっと死あるのみだと本能が悟ったけれどもう降りるには手遅れで到底不可能であった。
Ⅸ 階段を一つ一つ踏みしめる度、足の裏には小さな傷ができて、微かな紅い痕を残した。息が荒くなっていく。けれど止まろうとは思わなかった。夜は来ない。狡猾の悪戯のように、一日が歪んでいる。窓の外にはもう何もない。ただひたすらに広がる暗黒の空間と幾らかの白い点、そして、ただ独りの純白。”彼”は神だ、そう確信した。
Ⅹ 地震さえも何事もなかったかのように耐えていたこの建物の、決壊を感じ取り始めていた。そして、もうすぐ頂上であることも。開けた空が見たくて、あの時見降ろしたような景色を忘れられなくて。再び、心に熱が灯ったのを感じる。蝋翼のように飛べたなら。そう思った。でも彼は墜ちたのだから、地道に登るのもいいか、そう思った。
Ⅺ 空の涼しさを肌で感じるほどに、頂上はすぐそこにまで迫っている。脚は言うことを聞かない。肩は常に上下している。吐き出される熱の塊、吐息。音。久しぶりに感じる、音。息の音。心臓、鼓動。血液が流れる。雷が鳴響く。天空は語る。天使の円環。舞う白羽。神々しく燃える朝日。魂の浄化。調和した光が、あたしを包む。
Ⅻ ようやくその景色を見て、あたしがすでに魂であることに気付いた。けれど後悔はなかった。あたしも、”次元”に辿り着きたかったのだから。母の日記を見て、思っていた。神は存在し、故に悪魔は嗤うと。人生は双六で、悪魔は賽子を振る。人は只其れに従うことしかできぬが、その”次元”に辿り着いた魂は”神”と呼ばれ、双六を脱する。
【――魁――】
Ⅰ 己の心から沸々と湧き上がるこの感情を、溶岩の如く粘着質なこの闇を、人でいる間に感じることはできるのだろうか。あたしは、再び肉体を得た。”神”となった故、人間のような姿はもうないけれど、殆どの部位にはあたしの面影が残っていた。一番の違いは、背に生えた大きな翼であろうか。神への先駆けを成して、それでも、心には穴が開いていた。
Ⅱ 零。無。虚。闇。連なる星々と、柄杓の魁星。ただ純粋な闇の中に転がった星は、あの人形のように、虚ろな空気を醸し出していた。虚空には数多の球体が、半透明の泡のように浮かんでいた。その中には蛍光の高楼や、高く聳える都市や、雪に覆われた町などが見えた。それぞれがきっと、別の世界でありながらも、この空間を介して繋がっているのだろう。
Ⅲ 泡々に包まれた世界たちは、それも甘く、けれど確実に崩壊へと向かっていた。碧では電子の罪を抱き、桃では自ら破滅を選ぶ少年がいて、黄では甘さに委ねた先の崩壊。きっと、周りに浮かんでいるほかの世界もそうなのだろう。神となったあたしなら、彼らの双六を壊せたのだろうか。巨魁となれば、救うことができたのだろうか。
Ⅳ 征く当てもなく、ただ広大なこの宇宙を独り彷徨っていた。あの時に見えた彼の姿は何処にもなくて、無垢な虚空が広がるのみであった。果てのない零の奥に、彼の姿が見たいだけだったのに、運命とは残酷なもので、あたしの思うようには動かなかった。果たしてそれは、双六から脱したと言えるのだろうか。悪魔とは離れられたのか。
Ⅴ どれほどの間、闇を揺蕩っただろう。疲れはなく、少し精神が消耗されて、蕩けてゆくような感覚であった。あたりに浮かび上がる些細な星々と崩れた遺跡が、あたしを導く数少ない存在で、向かう先が合っているのか、解は誰にも導けない。進めば進むほど、あたしの纏う衣装が、あたしのもので無くなっていくことだけが確かだった。
Ⅵ ようやく、紫紺に満ちた空間に純白を見た時、あたしの衣類は花魁の如く和服となっていて、背の翼と相待って、異国の怪物に近い雰囲気を感じた。彼はそっと振り向いて、何かを口走る。それは聞き取れず、けれど、神としての言葉であって、ここがあたしのいるべき場所でない、と伝えたのだと悟る。心に空いた穴は、ただ広がるばかりであった。
Ⅴ ”僕”は、この虚無へと迷い込んだ”彼女”に声をかけた。つもりだった。音の存在意義が定義されていないこの空間に、聴覚は必要なく、故に音は存在しなかった。だがそれでも。魂はここに存在して、だから、僕の意思は彼女に通じたのだと思う。彼女は何かに驚いたように目を見開き、直後、どこか哀し気な、残念そうな表情を浮かべた。
Ⅵ 彼から離れ、けれど、その鮮明な純白と、秀麗な黄金と、透過した紫紺が、あの日見た赤と青の光のように、絵の具を振りまいたような色とりどりなヘドロのように、脳内にこびりついては浮かび、燻っている。人ならざる者となって、孤独となった。あたしたちは、そんな共通点を持っていたけれど、関係は築けないのだ。それが、世界に干渉してしまうから。
Ⅶ ふと、あたしは”そこ”にあった世界の前で足を止めた。どこかで見たことがあるような気がした。少しだけ、少しだけなら。そう思って、中を覗く。『風が吹けば、数枚葉が舞って、幻想的な風景を描く。陽光は菁い影を地に生みだして、枯れ墜ちた葉が、枝が、殺風景な地面を彩った。』そう、記録が書かれていた。その奥には、深い森が茂っていた。
Ⅷ 見覚えはあったけれど身に覚えはなくて、強烈な不快感が脊髄を伝う。足元にあったはずの影が消えていて、この空間が、少しずつ壊れているのを感じた。見えぬ空は裂けていて、新たに生まれる世界は、その頻度が減っている。内容が重なっている。そして、崩壊までが早い。名も知らぬこの空間が、ここですら、一つの世界なのかもしれないと、そう感じる。
Ⅸ やがて、空間を確かに彩っていた、微かな薄紫の雲も消え、完全なる闇、漆黒へと為った。自分の魂ごと偽って、それで、何がしたかったのか。自分でもわからなくなって、自暴自棄、そんな言葉がよぎった。でもそれはもう、遅かった。混乱に陥ったあたしは、遥かな闇の先、確かに光る白を目指して、ひたすらに走り続けた。不気味な、あの人形ですら恋しかった。
Ⅹ 裂け目。そう言い表すべきだろうか。硝子を鈍器で殴ったときのような亀裂が、空間に浮かんでいる。足が竦む。かつて、階段を上ったときのように。半ば投げやりのように、あたしは亀裂へと飛び込んだ。視界が奪われる。けれどそれは、眩しさ故の強奪。痛いような、けれどそんなこともなく、ただ、体が宙を浮いていることだけが分かる。
Ⅺ 勢いよく放り出され、目を開くとそこは、不気味なあの地下室だった。転がる骨、朽ちた柱、灯らぬ蝋燭。薄暗い空間で、ついさっきまであたしを照らしていた閃光とは程遠く、視界が慣れていくまでに時間がかかった。冷気が漂う地下室に、あの空間で目にした幻想的な雲が、まだ蔓延っているような気がした。それはきっと、夢であった。
Ⅻ まだ浮ついた頭が、綿菓子のような柔さのままだった。覚束ない足取りで、未だに埃の被っていない寝床へと飛び込んだ。もう何日も彷徨っていたような気もするし、一瞬だったから汚れていないとも思う。目を瞑れば、瞼の裏には鋭い眼光があたしを睨んでいる。飢えた獣のような眼差しが、きっと、彼からの戒めなんだろうと思った。




