第90話
画面を覗き込んだ久我晃一郎の目が、限界まで見開かれた。
そこには、無数のマスコミのカメラに囲まれ、拡声器を構える『死んだはずの息子』の姿が生中継で映し出されていた。
「……馬鹿なッ!」
久我は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。
顔面は怒りと焦燥で土気色に染まっている。彼は周囲のどよめきを完全に無視し、議場を飛び出してエントランスへと向かって猛然と歩き出した。
「久我幹事長! いかがなされましたか!」
議場の隅で警備に当たっていた郷田管理官が異変を察知し、完全武装したSPたちを引き連れて慌ててその後を追う。
分厚いガラス張りのエントランスに辿り着き、外の広場を見下ろした彼らの耳に、絶望的な声が飛び込んできた。
「俺は久我晃生。一連のテロ事件のすべてを、俺一人でやった!」
ユウの声が白日の下へ響き渡った瞬間、包囲していた報道陣から割れんばかりの絶叫が上がった。
死んだはずの次期総理候補のご子息がテロの主犯であったという、国家の根底を覆す異常事態。全国のテレビ画面にその顔がハッキリと映し出される中、ユウは持っていた鞄を高々と掲げた。
「そして、これが久我家が今まで裏で手を染めてきた、すべての汚職、脅迫、そして殺人の証拠だ!!」
ユウが鞄を逆さに振ると、大量の書類とUSBメモリが空へ向かって放り出された。 白い紙片が、まるで真昼に降る雪のように、国会議事堂前の青空を美しく、そして残酷に舞っていく。
「証拠書類だ! 一枚でも多く回収しろ!!」
「カメラ、あの書類の束をズームしろ!!」
群がってきた記者たちが、我先にと地面に散らばった紙の束を拾い集め始めた。
それは、特等席に座り続けてきた権力者たちを社会的に引きずり下ろすために、ユウの最初で最後の告発だった。
「ふざけるなッ! 貴様、何をしている!!」
ガラス越しにその光景を見た久我幹事長は、エントランスの扉を押し開けて外へ転がり出るように飛び出した。
自分たちの隠蔽してきた最大の汚点が公衆の面前に晒され、あろうことか報道陣がその証拠を全国中継のカメラの前で拾い集めている。
すべてが手遅れになりかけていると悟った久我は、蒼白な顔で背後に続く郷田管理官を振り返った。
その狂気と焦燥に満ちた目配せで、何かを伝えた。
郷田は忌々しそうに舌打ちし、凄まじい殺気を放ちながら完全武装のSPたちへ命令を下した。
「対象は凶悪テロリストだ! 直ちに取り押さえろ! マスコミを退かせろ、射線に入る者は共犯と見なす!!」
「下がれ! 撃たれるぞ!!」
命令を受けたSPたちが怒号を上げながら、漆黒のアサルトライフルの銃口を一斉に突きつけ、マスコミの壁を力任せに排除しにかかる。
さらにその中の一人が、群衆を退かせる威嚇のために青空へ向かって発砲した。
パァンッ!! という鼓膜を裂く破裂音が、白日の議事堂前を引き裂く。
「ひぃッ!?」
「本物の銃だ! 逃げろ!!」
さきほどまで特ダネに群がっていた報道陣が、向けられた銃口の異常な殺気を見て、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げて後退し始めた。
命の危険を感じたマスコミの波が大きく割れ、ユウの周囲から人が消えていく。
ものの数秒で、ぽつんと立つユウと、銃を構える武装警察官たちの間に、誰もいない異様な『空白の空間』が作り出された。
カメラのレンズは遠巻きに向けられているものの、もはや誰もユウを庇う位置にはいない。
「構えろ」 郷田が冷酷な笑みを浮かべ、ユウを射殺するために右手を高く振り上げようとした、まさにその時だった。
「そこを通してくださいッ!!」
後退してくるマスコミの波と、殺気を放つ警察の壁を強引に押し退けながら、一人の若い警察官が間一髪で最前線へ飛び出してきた。
日下部だった。
額に汗を浮かべ、息を切らしながら議事堂の地下から駆けつけた彼は、銃口を構えるSPたちとユウの間に、自らの身体を盾にするように強引に割り込んだ。
日下部は油断なく周囲の警察官たちを牽制しながら、背後に立つテロの主犯へと顔を向けた。
「……あなたが、日下部さんか」
「俺が逮捕する! 武器を捨てて両手を挙げろ!」
日下部が叫ぶと、青年は静かに頷き、両手をゆっくりと頭の上へ挙げた。完全な無抵抗と、降伏の意思を示す姿だった。
手の中に武器はなく、何かを操作している様子もない。
その時。日下部は至近距離で、テロの主犯の『目』を見た。
目の前にいるのは、世間から見れば連続テロの首謀者だ。何十人もの命を危険に晒した狂人であり、あの冷酷な久我幹事長の血を引く男。
だが――日下部の心臓が、大きく跳ねた。 その青年の目は、テロリストのそれとは似ても似つかなかったのだ。
不器用なほどに真っ直ぐで、悲しいほどに澄んでおり、何より……痛いほどの『純粋な優しさ』を宿していた。
(この目は……知っている……!)
泥水の中でも決して他人を救うことを諦めなかった、あの真下先輩の眼差しと、瓜二つだったのだ。
日下部は直感した。
この男は悪魔なんかじゃない。真下先輩と同じ、不器用で優しい魂を持った人間なのだと。
日下部は腰から手錠を取り出し、震える手で握り締めながら、ゆっくりとユウへ歩み寄った。 法の下で逮捕する。 裁判で真実を語らせる。
それは、『正しい警察』の姿そのものだった。
しかし、泥水のように濁りきった権力が、それを許すはずはなかった。
ここで投降者を生かしたまま逮捕すれば、法廷ですべてが語られる。久我家も、彼らと癒着してきた警察上層部も、無傷では済まない。
郷田は周囲で無数のカメラが回っていることさえ利用し、瞬時に自分たちを守るための、あまりにも残酷で強引な筋書きを作り上げた。
ユウが、手錠を受け入れるために日下部へ向かって一歩踏み出した。
その瞬間だった。
「右手を確認しろ! ポケットへ動いた!」
郷田の鋭く、明らかに作り物めいた警告の声が飛んだ。
「違います!」
日下部が咄嗟に振り返る。
「彼は丸腰です! 降伏しています!」
「起爆動作の可能性あり! あのままでは何万人も死ぬぞ! 射撃許可! 止めろ!!」
郷田の目は、狂気に満ちた権力の犬そのものだった。
真実などどうでもいい。ただ、目の前の不都合な存在を排除することだけが目的だった。
「待ってください――!」
日下部は反射的にユウの前へ飛び出し、両腕を大きく広げた。 その背中には、自分に正義を教えてくれた先輩と、同じ目をした青年を絶対に守り抜くという確固たる意志があった。
直後、乾いた銃声が立て続けに響いた。
「あ……」
アサルトライフルの無慈悲な弾丸が、日下部の身体を複数発貫いた。
制服が弾け、肩から、腹から、鮮血が噴き出す。
身体が大きく跳ね、血飛沫が太陽の光を浴びて赤くきらめいた。日下部は大量の血を吐き出し、その場で崩れかける。
「日下部さん……ッ!?」
ユウの顔が、この日初めて絶望に染まった。
兄が信じた未来。この世界に、まだ存在していると信じたかった真っ当な警察官。 その希望が、腐った警察自身の放った銃弾によって、自分の目の前で撃ち抜かれていく。
「ああああッ!! 日下部さん!!」
ユウは降伏のポーズを解き、崩れ落ちる日下部の身体を受け止めようと駆け寄り、その身体をしっかりと抱き抱えた。
だが、遠巻きにレンズを向けるマスコミのカメラには、その必死の姿が、皮肉にも『テロリストが警察官を羽交い締めにし、盾にしている』ようにしか映らなかった。
郷田は、その一瞬の視覚的な錯覚を見逃さなかった。冷酷な声が再び議事堂前へ響き渡る。
「テロリストが日下部巡査を盾にした!! 奴はまだ起爆装置を握っているぞ! 被害が拡大する前に制圧しろ!!」
再び銃声が連続した。
日下部を抱き締めたユウの身体が、背中から何発もの弾丸の衝撃を受けて大きく揺れる。 肉を抉り、骨を砕く鈍い音が響く。
「かはっ……!」
肺を撃ち抜かれ、大量の血を吐き出したユウは、日下部と絡み合うようにして、真昼の熱を帯びたコンクリートの地面へ倒れ込んだ。
二人の身体の下へ、おびただしい量の熱い血がゆっくりと広がっていく。
周囲では遠巻きになった報道陣の絶叫が飛び交い、カメラのフラッシュが休むことなく焚かれ続けていた。
それでもユウには、すべてが遠い世界の出来事のように感じられていた。
(……兄さん。ごめん……。やっぱり、この国は……完膚なきまでに、腐りきっていたよ……)
霞んでいく視界の中で、ユウは眩しすぎる青空を見上げた。
思い出したのは、二十二年前のあの嵐の夜だった。
死にかけたチーコを小さな両手で包み込み、泥だらけになった自分を見て、兄はひどく怒っていた。
それでも最後には、震える自分ごと優しく抱き締めてくれた。あの時の兄の匂いと、雨の冷たさと、心臓の音が蘇る。
薄れていく意識の中で、ユウはその温もりだけを思い出しながら、静かに目を閉じた。
彼の瞳から、一筋の涙が血に染まったコンクリートへと滑り落ちた。
その日、白日の下で流された二つの血が何を意味していたのか。
それさえも、圧倒的な権力とメディアの闇によって、数日のうちに『テロリストと殉職した英雄』という全く別の、都合のいい物語へ書き換えられていくことになる。




