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第87話

 私はユウを真っ直ぐに見据えた。


「あの現場に残されていた遺体は、細胞の判別もできないほど激しく損壊していたと聞く。……あれは、一体どんなカラクリでやったんだ?」


 私の問いに、ユウは一瞬だけ目を伏せた。

 そして、感情の読めない静かな声で答えた。


「カラクリなんかじゃないよ。……あの現場には、本当に『久我晃生』の遺体があったんだ」

「……なに?」

「彼は、脱獄犯だよ。僕らが裏で手を貸して脱獄させた。そして、骨格が久我晃生に似ている彼を選んで、顔を変えさせたんだ」

「なっ……!」


 耳を疑った。


 次の瞬間には、胸の奥から激しい怒りが一気に噴き上がっていた。

「ふざけるなッ! お前……自分がどれだけ恐ろしいことを言っているか分かっているのか!」


 私はユウへ詰め寄った。

「人の顔を変え、身代わりの駒にするなんて……それじゃあ、久我晃一郎がお前にやったことと全く同じじゃないか!! しかも、なんで殺した!!」


 私の怒号を受け、ユウの表情に僅かな苦痛が走った。

「彼を殺す気はなかったよ……」

「じゃあ、なぜ死んだ!」

「顔を変え、権力の座に就いたことで、彼自身が変わってしまったんだ」


 ユウの声が沈んだ。

「彼はやっぱり、根っからの犯罪者だった。『久我晃生』として特等席の力を手に入れた途端、弱い者を平然と脅し、虐げ始めた。しまいには……その権力を盾にして、俺たちまで脅してきたんだ」


 苦しげに語るユウを見ながら、私は彼自身もすでに深い泥沼の中でもがいているのだと感じた。


「……まだ、引き返せるんじゃないか?」

「はっ! 何言ってんだよ!」

「お前、本当はこんなことやりたくないんだろ!」


 私が叫ぶと、ユウも感情を抑えきれなくなったように声を荒らげた。

「このまま放っておけば、久我晃一郎が総理大臣になる! そうなれば、日本では路頭に迷う人間や、不幸になる人間がさらに増えるんだぞ!」

「だからって、殺していい理由にはならない!」

「兄さんは分かっていない!」


 ユウの声が部屋に響いた。

「久我は周りを完全に固めている。政治だけじゃない。警察、大手企業、マスコミの中にも、久我に力を貸す人間がいる。このまま見て見ぬふりなんてできない!」


 私は悲しさを押し込めるように首を振った。

「分かってるよ、ユウ。だけど、議員全員が悪いわけじゃないだろ。中には、それこそ現総理の神谷みたいに、この国を変えようとしている人間だっている。そして警察庁長官と手を組み、久我の闇を暴こうとしているんだ」

「知っているよ。綾瀬管理官から聞いていたからね」


 ユウは冷たい現実を突きつけるように笑った。

「でも、本当に変えられると思うかい? 神谷総理はもう歳だ。それに、神谷側についている議員たちも、いずれ久我の圧倒的な勢力に押し潰される」


 その目には、もう何度も希望を信じ、何度も裏切られた人間だけが持つ絶望が浮かんでいた。


 私はその表情を見つめながら、静かに問いかけた。


「……お前が、今回の声明文を発信したんだな」

「……気づいていたのか?」


 ユウがはっとして動きを止めた。

 私は、動画で聞いた一節をそのまま口にした。


「『あなたは今、電車の椅子に座っているとしよう。目の前に、身体に障害を持っている人が立った時。あなたは、その人に席を【譲る優しさ】を持てますか?』」


 ユウの表情が僅かに変わった。

「あの『譲る優しさ』という言葉は、風間誠志……俺たちの本当の父さんが、幼かった俺たちに伝えた言葉だ」


「……覚えていたんだね」

「ああ。だけどな、ユウ」


 私は弟を真っ直ぐに見据えた。

「父さんが言ったあの言葉は、ただ席を譲って終わりって話じゃない。もちろん、その優しさを知った人間全員が変わるとは限らない。でも、俺はあの行動には『他人にチャンスを与える』って意味も込められていると思うんだ」


 ユウの目が微かに見開かれた。

「だからこそ、お前があの言葉を声明に使ったなら、分かってほしい。お前がこれからやろうとしていることの先には、何も残らない」

「兄さん……」

「確かに、国民の中にはお前たちへ共感する人間も大勢いるだろう。俺だって、腐った人間なんか消えてしまえばいいと思った瞬間はある」


 私は一度息を吸った。

「でも、実の父さんや、俺を育ててくれた親父(修造)のことを考えると、お前たちのやり方だけは違うって思うんだ」


 ユウは何も言わなかった。

「親父(修造)が言っていたよ。周りには嫌な人間もいる。でも、自分を理解し、共感してくれる人間もいるんだって。……お前が脅した、日下部だよ」


 私は日下部が炎の中へ一人で入ってきた時の姿を思い出した。

「日下部は、俺が命を救ったことで、ちゃんと大事なものが見えるようになった。そういう人間は少ないかもしれない。でも俺たちは、これから来る人間のために、未来を変えるために、今動くんだよ」


 私が言葉を区切ると、ユウは悲痛な顔で視線を逸らした。

「……俺たちの優しさが、あの特等席の連中へ届く日なんて来ない。奴らは怪物なんだよ」

「そんなことはない!」







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