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第85話

* * *


「綾瀬さんが、裏切った……!?」


 思わず息を呑んだ。


「俺たち五人が決めていたルールは、あくまで標的である『特等席の罪人』だけをピンポイントで排除することだった。だが、綾瀬さんは違った。娘を奪った大鳥官房長官への憎悪があまりにも深すぎて……復讐という暗い感情に、魂を完全に喰い殺されてしまったんだ」


 ユウの瞳に深い悔恨が滲んだ。


「俺たちが脅してあのタワーへ送り込んでいた市民たちに与えていた本来の任務は、あくまで『指定されたタイミングでスマホの起爆ボタンを押す』ことだけだった。彼らはあのサイトで『処刑賛成』に投票した弱みを握られ、俺たちの指示に従うしかなかった哀れな奴隷だ」


 ユウは奥歯を噛み締めた。

「だが、綾瀬さんは俺たちの指示を無視した。彼は警視庁の管理官という立場を悪用し、最新鋭のセキュリティをすり抜け、あらかじめ大量の拳銃をタワー内部へ持ち込んでいた。そして俺たちの計画の駒として動いていた市民たちに、本来の任務にはない『拳銃』を無理やり握らせて、暴徒化させたんだ。大鳥を確実に密室で殺すために、周囲の市民がどうなろうと構わず、爆弾を起爆させるタイミングまで大幅に早めてしまった」


 その説明を聞いた瞬間、私の頭の中で、あの日の不可解だった場面が激しい音を立てて繋がった。


 銃を乱射しながら、「撃ちたくない!」「許してくれ!」と泣き叫んでいた素人たち。彼らもまた、あのサイトで軽い気持ちでボタンを押してしまったがゆえに、テロリストと警察幹部の両方から弱みを握られ、家族を守るために銃を持たされた哀れな『奴隷』だったのだ。


「俺は最初、あのタワーへ行く予定なんてなかったんだ。暗殺は遠隔で完遂されるはずだった。だが……監視カメラをハッキングして会場の映像を見張っていたカラスから、綾瀬さんの信じられない行動を知らされた」


「信じられない行動……?」


「ああ。カラスが警備の死角になるトイレ付近のカメラ映像を追っていた時……綾瀬さんが、スマホを押すためだけに待機していた市民たちを呼び止め、密かに『拳銃』を渡している決定的な場面を見たんだ。警察幹部の権限を悪用して、あらかじめ個室にでも隠していたんだろうな」


 その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、あの親父【修造】が叫んだ推理が鮮明に蘇った。


『警備の中枢にいる人間が、警察の権限を使って事前の機材搬入に紛れ込ませ、トイレの個室にでも隠して連中に拾わせたんだよ!』

親父の刑事としての眼力は、完璧に真実を射抜いていたのだ。


「スマホのボタンを押させるのが俺たちの計画なのに、なぜ直接的な武器なんて渡しているんだ……そう気づいた瞬間、最悪の予感がした。俺は急遽、清掃員に変装してタワーへ潜り込んだ」


 ユウは両手で顔を覆い、苦しげに息を吐き出した。


「でも……俺が現場へ着いて、暴走した綾瀬さんを物理的に止めようとした時には、もうあの爆発が起きてしまった。だから、大鳥の暗殺なんて放り出して、巻き込まれた市民や、兄さんたちを逃がすために動くしかなかったんだ」


 ユウの声に深い悔恨が滲んだ。

「俺がもっと早く、綾瀬さんの狂気に気づいていれば……親父さんを死なせることはなかった。本当に……すまなかった」


 重く、痛切な沈黙が部屋を支配した。


 私は答えなかった。


 仮に綾瀬が独断で暴走したのだとしても、もともと彼を計画に引き入れたのはユウたちだ。その責任まで消えるわけではない。


「……皮肉な話だよ」

ユウはゆっくり顔を上げ、自嘲するように薄く笑った。

「俺たち自身だって、完璧な正義の執行者なんかじゃない。どれほど立派な大義名分を掲げても、一歩間違えれば自分の憎しみに呑まれ、ただの怪物へ堕ちてしまう。……綾瀬さんが、そうだったようにね」


 ユウはしばらく私を見つめたあと、今度は静かでありながらも熱を帯びた声で告げた。


「だからこそ……俺たちのこの『七つの大罪』の計画には、兄さんという最後のピースが必要なんだ」

「……俺が?」

「ああ。俺たち五人、そして綾瀬さんを含めれば六人になる。俺たちはもう、復讐の泥水にどっぷり浸かりすぎた。自分たちを止めることも、本当の意味で正しい方向へ導くことも、もう俺たち自身にはできないんだよ。……できるのは、どんな泥水の中にいても、絶対に『誰かを救う』という芯を曲げなかった、兄さんだけだ」


 ユウの眼差しには、哀願にも似た切実さと、最後の希望を託すような思いが宿っていた。


 しかし、私が口を開くより早く、ユウは隣に立つカラスへ小さく頷いた。

「……これを聞いてくれ。兄さんが信じてきた組織の、本当の姿だ」


 カラスが無言で手元の端末を操作する。

 直後、薄暗い部屋のスピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れ始めた。

 警察内部の極秘無線通信をハッキングし、録音したデータだった。

『――こちら郷田! 大鳥官房長官、久我幹事長をはじめとする重鎮の方々、および避難した市民の救出を完了しました!』


 聞き間違えようのない、郷田管理官の声だった。焦燥と興奮の入り混じったその声は、あのタワーが炎に包まれ、崩壊しかけていた時のものだった。

『ですが……真下と、その父である修造、それとあと数人の市民がまだ取り残されています!』


 スピーカーの向こうで、ほんの僅かな沈黙が流れた。

 続いて聞こえてきたのは、高山本部長の冷徹な声だった。

『……これ以上、被害を大きくするわけにはいかん。救出には向かうな。見捨てろ』

『しかし、本部長!』

『二次災害で警察官の犠牲を増やす気か! VIPの安全が確保されたなら、それで十分だ。これ以上被害を増やしたくない。……繰り返す、救出は放棄しろ』

『……かしこまりました』


 そこで通信は切れた。

 私は奥歯を強く噛み締めた。


 炎が渦巻くタワーの中に何十人もの警察官がいたにもかかわらず、なぜ後輩の日下部だけが、たった一人で私を背負って現れたのか。


 その理由を、私は今、完全に理解した。


 特等席に座る権力者の安全と、自分たちの保身しか頭にない警察上層部は、部下である私や親父、そして逃げ遅れた市民たちを、躊躇なく『見殺し』にしたのだ。


 それでも親父は、自分たちを見捨てた組織の制服を着たまま、見ず知らずの市民を助けるために炎の中へ戻り、自分の命を削り切った。


 胸の奥で、黒い怒りがマグマのように沸き上がっていく。

 その沈黙へ入り込むように、ユウが静かに口を開いた。


「……これを聞けば、分かるだろ、兄さん。自分がどれだけ泥水をすすって正義を貫こうとしても、組織そのものが腐っていれば、すべて無意味になる。そして……この国全体が、もう末期的に腐っている」


ユウの声は、怒りを通り越した氷のような冷たさを帯びていた。

「だから……数日後だ。久我幹事長をはじめ、この国の腐敗の元凶である錚々たる議員たちが一堂に会する『国会議事堂』での会議。……あの最大の特等席を、議事堂ごとすべて爆破して消し去る」


 相田たちが息を呑む中、ユウの瞳だけが悲壮な決意を宿していた。

「そこで初めて、俺たちの大罪は終わるんだ」


 ユウはそう告げると、私へ向かってゆっくりと手を差し出した。

 カラスも、相田も、門別も、深川も、私がここまでの真実を知れば、必ず自分たちの側へ来ると信じているようだった。


 だが、私の脳裏に浮かんでいたのは、親父の遺書に綴られていた、不器用で力強い文字だった。


『絶望して立ち止まれば、心は腐る。憎しみに囚われて自分を閉じ込めれば、魂は濁る。だから、流れを止めるな、ジョウ! 泥水の中でもがきながら、前へ進み続けろ!』


 親父が言った『泥水』とは、復讐へ身を沈めることではない。

 どれほど組織が腐り、どれほど絶望的な状況へ追い込まれても、『目の前の命を救う』という刑事の魂だけは捨てないことだ。


「……断る」


 静かな部屋の中で、私の口から出たその一言が、空気を完全に凍らせた。

 ユウが差し出していた手が止まる。


「……なんだと?」


 その意味を理解した瞬間、鋭い金属音が立て続けに響いた。

 カラスが拳銃を抜き、相田と深川もほぼ同時に銃口を私へ向けた。さらに、先ほど私へ拳銃を奪われた門別も、取り戻していた銃を握り直し、怒りに震える銃口をこちらへ突きつける。


 ユウを除く四人全員が、一斉に殺気立った。


「みんな、落ち着け!」

ユウが鋭く制止したが、四つの銃口は下がらなかった。


「ふざけるな、ユウ!!」

門別が血走った目で私を睨みつけ、怒鳴った。

「ここまで全部知られて、断られたんだぞ! 俺たちの計画をすべて知られた以上、生かしておけるわけがないだろう!」


「真下刑事、考えを改めるんだ!」

カラスも悲痛な声を上げた。




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