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第79話


 ただ、その紙の束から漂ってくる得体の知れない『執念』のようなものが、私の背筋へ冷たい汗を伝わせた。


 私は資料を折り畳み、自分のコートのポケットへ深くねじ込んだ。

 誰もいない隠れ家の中で、パソコンの青白い光だけが静かに灯り続けていた。


 秋葉原の隠れ家を出た私は、ひどい疲労感と喉の渇きを覚え、近くのコンビニへ立ち寄った。


 レジで缶コーヒーの会計をしていると、背後から親子の会話が聞こえてきた。

「ママー、公園! ブランコ行く!」

「さっきまで遊んでたじゃない。……もう、諦めないわね。これ買ったら行くわよ」


 何気ない親子の会話だった。

 それなのに、なぜか耳に残った。


 車へ戻り、運転席で缶コーヒーのプルタブを開けた。

 ふと窓の外を見る。

 コンビニの隣にある小さな公園へ向かって、先ほどの男の子が猛ダッシュしていく姿が見えた。


 その視線の先には、ブランコを目指して小走りしている別の子供がいる。

 どうやら、自分が先にブランコへ乗ろうと必死に走っているらしい。


(……ユウも、ブランコが好きだったな)


 男の子は結局、一足遅くブランコを取られてしまった。

 その場で、わあっと泣き出す。


 追いついてきた母親がしゃがみ込み、

「順番、待っていようね」

 と優しく宥めていた。


 ただそれだけの、ごく普通の日常だった。

 だが、私はその光景から、どうしても目を離すことができなかった。


 気がつけばエンジンをかけ、無意識のうちに車を走らせていた。

 向かったのは、実の父親と、幼いユウと、三人でよく遊んだ思い出の公園だった。


 * * *


 到着した公園には誰の姿もなく、どんよりとした曇り空の下、静寂だけが広がって

いた。


 色褪せたベンチへ腰を下ろす。

 目の前では、錆びついたブランコが風に揺れ、かすかな金属音を立てている。


 私は目を閉じた。


 胸の奥底へ封じ込めていた、遠い昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。

 あれは、私がまだ幼かった頃だった。


 ユウがブランコへ乗り、父が後ろから背中を押してやっていた。

 ユウの楽しそうな笑い声が、公園いっぱいに響いている。


 そこへ、一人の小さな子供がやってきた。


 父はその子に気づくとブランコの揺れを止め、ユウを抱き上げて地面へ降ろしてやった。


 空いたブランコへ、待っていた子供が嬉しそうに乗り始める。

 だが、まだ遊びたかったユウは、不満そうに顔を歪め、泣き出してしまった。


 私も心配になって駆け寄った。


 父は泣きじゃくるユウと私を両腕へ引き寄せ、優しい声で言った。

『いいか、ジョウ、ユウ。遊具で遊ぶのが楽しいのはよく分かる。でもな、他にも遊びたい子がいるんだから、代わってあげて、また後で遊べばいいじゃないか』


 当時の私は納得できず、唇を尖らせて言い返した。


『でも、僕たちが遊んでて、譲ってくれる子供なんていないよ! ずっと占領しちゃうんだよ!』


 父は怒らなかった。

 優しく笑いながら私の頭を撫でた。


『そうだろうな。でも、お前たちはどうだ? それをやられて嫌じゃないか? 嫌だよな』


 私がこくりと頷くと、父は私とユウの顔を交互に見つめ、少しだけ真剣な表情になった。


『人として大事なことはな、ブランコに限った話じゃない。自分が楽しいことや嬉しいことを、人に譲ってやれる優しさなんだぞ』


 風間譲(カザマ ジョウ)

 風間優(カザマ ユウ)

 

 それが、養護施設へ預けられる前の、私たち兄弟の本当の名前だ。


 目を開けると、誰もいない公園の景色が、涙でひどく滲んでいた。

 自分が楽しいことを、他人へ譲る優しさ。


 あの運命の日、駅のホームで『優先席』を巡って大人たちが揉めていた時、父は迷うことなく、自分が教えてきたその言葉の通り、争いの間へ入ったのだろ。


 そして、大人たちのちっぽけなエゴに突き飛ばされ、命を落とした。

 父の優しさを、理不尽に踏みにじった社会。

 その後も真実を見ようとせず、面倒事を避けるために『病死』として片付けようとした大人たち。


 誰よりも優しさを知っていたはずのユウは、その醜い事勿れ主義の中で心を傷つけられ、やがて数年後、絶望の中で死んでいった。


(父さん、ユウ……俺は……)


 私は両手で顔を覆い、胸の底へ溜まった泥を吐き出すように、深いため息を漏らした。


 その時だった。


 ――ブブッ、ブブッ。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 登録しているSNSから届いたプッシュ通知だった。

 私は無造作にスマートフォンを取り出し、画面を開いた。

 その瞬間、表示された文字へ目が釘付けになった。


 一つではない。

 二つでもない。


 次々と通知が飛び込み、瞬く間に画面全体を埋め尽くしていく。

『テロ主犯格から日本中へ声明動画が配信開始』


 全身の血の気が引いていった。


 私は震える指で、通知に添付されていたリンクをタップした。

 強制的に動画が再生される。


 画面には不気味なシンボルマークが映し出され、【椅子に座りますか】先ほど地下駐車場のモニター越しに聞いたカラスの地声ではなく、これまで何度も聞かされてきた、あの冷酷な機械音声が響き渡った。


『――日本国民の皆さんに告ぐ。これより、特等席に座る者たちを清算する、最大のプロジェクトを開始する。日本中の皆さん、あなた達は今、幸せですか?』


 動画から流れた第一声に、私は微かな違和感を覚えた。


 以前の声明や、私へ直接語りかけてきた時のカラスは、もっと人間を小馬鹿にしたような、ゲームそのものを楽しむようなシニカルな口調だった。


 だが、今流れている機械音声の奥には、それとは違う何かがある。

 ひどく静かで、張り詰めた感情。

 押し殺された悲しみのようなものが、言葉の底に漂っていた。


『幸せだと思ったあなたに伝えたい。あなたが幸せと感じている今この時も、苦しんでいる人がいることを。

 今の時代、物価は上がり、会社が潰れ、働くことすらできない人がいる。


 家族にご飯を食べさせるために、物を盗んで生きる者すらいる。それを知っても、あなたは幸せですか?


 昔はよかった。物価も安く、物も買えた。それが今どうですか。買いたいものも買えず、苦しむ人が多くなっている。……なぜ、こんな時代になった?』


 私は息を呑んだ。

 ただのテロリストの狂言とは思えなかった。


 飢えた者。

 社会から見捨てられた弱者。


 自分ではどうにもならない事情によって生活を壊された人間たち。

 その者たちへ向けられた、悲痛なほどの同情と悲しみが、声明の根底を流れている。


『私は思う。例えば……あなたは今、電車の椅子に座っているとしよう。

 目の前に、身体に障害を持っている人が立った時。あなたは、その人に席を【譲る優しさ】を持てますか?』



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