第63話 第八章:十三万人の奴隷
法廷爆破という前代未聞の惨劇から、数時間が経っていた。
東京の街は、恐怖と混乱、そしてどこか不気味な熱狂が入り混じった毒霧の中に沈んでいた。
私は久我幹事長の護衛として、黒塗りのマイバッハの助手席に座り、静まり返った首都高速を走っていた。後部座席では、久我が窓の外を流れていくネオンを眺めたまま、深い沈黙を保っている。
私の脳裏からは、先ほど法廷で目にした黒焦げのクレーターが離れなかった。いや、それ以上に私の心を捉えて放さなかったのは、逃げ惑うマスコミ関係者が落としていった、あの一台の水浸しのスマートフォンだった。
これまでは必ず、標的となった『物理的な椅子の裏』などに、プレートやシールとして密かに仕掛けられていた犯人のメッセージ。
『――あなたは、椅子に座りますか?』
その強烈な違和感の正体が、犯人が最後に口にした『魚料理』と『肉料理』という不気味な比喩と結びつき、消化できない泥のような澱となって胸の奥へ溜まり続けていた。
その夜遅く。
久我邸へ戻り、自室のベッドへ腰掛けていた時、私用端末が震えるように鳴り響いた。
画面に表示された名前は『日下部』。
私は、電話に出た。
「……日下部か。こんな夜更けにどうした」
『真下さん……ッ! 俺は……俺は、取り返しのつかないことをしてしまった……!』
電話の向こうから聞こえてきた日下部の声は、極度の緊張と底知れない恐怖でひどく掠れていた。
『俺のスマホに、あのサイトから直接通知が来たんです。俺だけじゃありません。……あの日、天楽建設の社長が爆殺されたあとに始まった、あのアンケート(処刑選挙)サイトです。俺は……日頃の鬱憤と、恐怖に駆られて、郷田管理官を処刑する「賛成」ボタンを、押してしまっていたんです……!』
私は絶句した。
正義感の強い日下部でさえ、あの狂った大衆の熱狂と、郷田という男への日常的な憎悪に呑まれ、匿名の安全圏に隠れて『死のボタン』を押してしまっていたのだ。
「……何が届いた?」
『投票です。犯人が郷田への投票者だけに送りつけてきた、悪魔のような「究極の二択」でした』
日下部が震える声で読み上げたのは、以下の内容だった。
【選択肢A:郷田を処刑】
【選択肢B:郷田を許す】
「なんだ、その多数決は……」
『一見すると、郷田管理官の命を決めるだけの投票に見えますよね。でも、その下に……犯人から恐ろしい条件が書かれていたんです』
日下部が息を整え、続けた。
『――もし【選択肢A(処刑)】が多数を占めた場合、郷田の命と共に、これまで郷田の処刑に投票ボタンを押した「お前たち全員の個人情報――名前、IPアドレス、勤務先」をネット上に完全公開する。
だが、【選択肢B(許す)】が選ばれた場合、郷田の命は助け、お前たちの個人情報も一切公開しない。ただし、全員が運命共同体となる……と』
「な、なんだと……!?」
思わず声を荒らげた。
犯人は、これまで安全圏から好き勝手に石を投げていた大衆へ、ついに直接刃を突きつけてきたのだ。
他人の死へ一票を投じた報いとして、自分の人生を失うか。それとも、自らの正義を捨て、保身のために郷田を許すか。
『真下さん……俺たちは怖かったんです』
日下部の声が震えた。
『自分が殺人犯の共犯者としてネットに晒され、一生社会から抹殺されるのが……。だから俺も、特捜本部の若手連中も、みんな震える手で……【B】を押したんです。郷田を許すボタンを』
嗚咽混じりの声が、耳へ突き刺さった。
「……そうか。それで?」
『違うんです!』
突然、日下部が叫んだ。
『Bの「郷田を許す」が過半数を超えた瞬間、犯人は俺たち郷田への投票者だけじゃなく、天楽建設の社長が死んだあとからサイトへアクセスしていた【過去のすべての投票者】に向けて、ある絶望的な真実を一斉送信したんです!』
日下部の声が、恐怖で完全に裏返っていた。
『真下さん……あのサイト、徐々に人が増えて「全国で百万人が投票している」と煽られていましたよね?』
「ああ」
『あれが……犯人の仕掛けた最大のブラフだったんです。実際にアクセスして、他人の死へ投票していたのは日本全国の百万人なんかじゃない。東京都内の人間を中心とした、たった【十三万人】だったんです!』
「十三万人……東京都内だけだと?」
『はい! 「全国で百万人」と聞けば、誰もが「自分一人がボタンを押したところで特定されるわけがない」と安心する。犯人は、大衆にその無責任な安心感を与えて、自発的に人殺しのボタンを押させるためだけに、意図的に数字を水増ししていたんです!』
俺は、絶望を感じ目を閉じた。
『それに……あのサイト、投票にはSNSアカウントの連携が必要でしたよね。俺たちも含めて、みんな「重複投票を防ぐため」という犯人の言葉を疑いもせずに連携を許可してしまった。でも、それが命取りだったんです』




