第57話
思わず、驚愕の声が漏れた。
久我が怪訝そうに眉をひそめる。
「どうした、真下」
「……特捜本部からです。警視庁のサイバー課が、犯人の特設サイトのサーバーを海外で特定し、ドメインの差し押さえに成功したとのことです。現在、犯人のサイトは完全にダウンしているそうです」
私は事実だけを伝えた。
「郷田管理官が間もなく、『警察がサイバーテロリストに勝利した』という内容で、マスコミ向けに緊急会見を開くそうです」
久我は一瞬、きょとんとした表情を見せた。
次の瞬間。
「ククッ……ハハハハハッ!」
腹の底から湧き上がるような、低い笑い声を響かせた。
「傑作だ! あの無能な警察が、サイバーテロリストに勝利しただと?」
久我は葉巻を咥えたまま、歓喜よりも遥かに強い嘲笑を肩に滲ませていた。
「あの郷田という小男は、本当に滑稽なピエロだな。自分が英雄になれるチャンスだと飛びつき、日本中へ向けて勝利宣言までやるつもりか」
「……幹事長?」
「真下くん。君はどう思う?」
久我は笑みを消さぬまま、私を見た。
「あれだけすべてを先読みし、完璧な盤面を作り上げてきた怪物が、警察のサイバー課ごときへ、やすやすとメインサーバーの尻尾を掴ませるような杜撰なヘマをすると思うかね?」
その言葉を聞いた瞬間、全身から一気に血の気が引いた。
(……そうだ。あり得ない)
脳裏に、深夜、地下のハッカー部屋で『カラス』が忌々しそうに語っていた言葉が、強烈な警鐘となって蘇った。
『あのサイトの構造自体が、物理的に止められないように出来ているんだ。……ブロックチェーンのP2P技術を応用した、完全な分散型ネットワークだ。サイトにアクセスしている数十万人の大衆のスマホそのものが、サイトを維持する極小のサーバーになっている』
カラスは明確に言っていた。
どこか一つの巨大な海外サーバーを落とせば解決するような、そんな単純な構造ではない。
それなのに。
サイバー犯罪対策課は、『海外のメインサーバーを特定し、差し押さえた』と言っている。
そんな馬鹿な話があるはずがない。
だとすれば。
今、警察が差し押さえたあのサーバーは、一体何なのか。
答えは一つしかなかった。
犯人が、警察のサイバー課を誘い込むために意図的に用意した『ダミーの標的』。
ハニーポットだ。
「……幹事長」
私は端末を強く握り締め、紫煙の向こうで冷笑を浮かべる久我へ声を絞り出した。
「一度、警視庁の特捜本部へ戻らせてください。郷田管理官の会見は、警察組織の首を絞めるために用意された決定的な罠です。今すぐ本部へ行き、あの勝利宣言を止めさせなければ、犯人の思う壺になります」
大義名分だった。
もちろん、郷田の暴走を止めたいという思いは本物だ。
だが、私の本音は別のところにもあった。
私は今、この伏魔殿のような屋敷へ『久我の盾』として完全に囲い込まれつつある。
このままでは、あの地下ボイラー室で綾瀬管理官から託された密命――『久我晃一郎の底知れない闇を内側から暴き出す』という任務のために、外部との連絡を取ることさえ難しくなってしまう。
一度本庁へ戻り、私がこの屋敷で感じた異常な空気と、久我の過去の話を綾瀬へ報告しておかなければならなかった。
しかし、久我はゆっくりと首を横へ振った。
「却下だ。お前はどこへも行かん」
氷のように冷たく、一切の反論を許さない声だった。
久我はデスクの上へ葉巻の灰を落とし、私を無機質な目で見据えた。
「お前は今、私の特命連絡官であり、私の盾だ。警察という泥舟の沈没を防ぐために、お前という優秀な駒を盤上から離す理由がどこにある?」
その声には、何の迷いもなかった。
「郷田が自ら罠へ飛び込むというのなら、勝手に死なせておけばいい」
「しかし、幹事長! 警察の信用が完全に失墜すれば、この国の治安の根幹が揺らぎます。それは結果として、あなたの足元をも脅かすことになるはずです!」
私が必死に食い下がると、久我はふっと鼻で笑った。
「真下くん。君はまだ、物事の『真の価値』を理解していないようだ」
久我はゆっくりと立ち上がった。
「……古い家を建て直す時、一番手っ取り早い方法を知っているか?」
窓際まで歩き、分厚い遮光カーテンを僅かに開ける。
「それは、中途半端な補修を重ねることではない。一度、土台ごと完全に破壊してしまうことだ」
私は久我の背中を見つめた。
「無能な警察が国民の前で大嘘をつき、自滅する。【……当然、その無能な組織を管理しきれなかった任命責任と、治安崩壊の矢面には、現政権が立たされることになる。】素晴らしいじゃないか」
久我は窓の向こうに広がる東京を、自分の所有物でも見るように見下ろしていた。
「【テロを防げない弱腰の現政権に対し、】国民の不満と恐怖が頂点に達した時こそ、私が『強力な新体制』を掲げて現総理を蹴落とし、この国の全権を握る絶好の口実になる」
背筋が凍りついた。
「犯人が作り出すパニックは、私が王座へ就くための最高のレッドカーペットなのだよ」
この男は、姿なきテロリストの脅威すら、自らの権力を拡大するための『利用価値のある舞台装置』としてしか見ていない。
国民の命も。
部下の命も。
警察という組織すらも。
すべて、自分が頂点へ君臨するための踏み台なのだ。
「お前はここに残れ。そして、私の城壁を内側から守り抜け」
久我がゆっくりと振り返った。
「……それがお前の『正義』だろう?」
私は奥歯を強く噛み締めた。
ここで命令を無視し、強引に屋敷を出れば、久我から得た信用を完全に失う。
そうなれば、綾瀬管理官から託された密命を果たすことは、二度とできなくなるかもしれない。
私は拳を白くなるほど握り締めながら、沈黙によって久我の命令を受け入れるしかなかった。




