第55話
「だろうな。スポンサー企業の撤退ドミノが始まれば、放送局の屋台骨そのものが揺らぐ。堂島一人へすべての泥を被せ、局の存続を図るしかあるまい」
久我は淡々と続けた。
「……坂巻先生には、予定通り堂島個人への数億円規模の損害賠償訴訟と、刑事告訴の手続きを進めさせろ。見せしめだ。我々に向かって吠えた犬がどうなるのか、この国のすべてのメディアへ骨の髄まで叩き込んでやる必要がある」
久我はグラスを置き、ふう、と短く息を吐いた。
「それにしても……堂島を嵌めた正体不明のネズミ。数日前の佐々木の爆弾騒ぎを利用してマスコミの飢餓感を極限まで煽り、あの傲慢な男が裏取りすら忘れて飛びつくよう、完璧なタイミングで精巧な偽造資料を撒くとはな」
久我の目が細くなる。
「……ただの怨恨や愉快犯のスケールではない。極めて組織的で、悪意に満ちた知能犯だ」
その目が、ルームミラー越しに私を捉えた。
「真下くん。君はどう見る? この一連の騒動を設計した見えない敵は、何を目的としていると思うかね」
試すような視線だった。
私は感情を表に出さず、刑事としての客観的な推測だけを口にした。
「目的が単なる佐々木副大臣の失脚であれば、あのような回りくどい罠を仕掛ける必要はありませんでした。確実な証拠をネットへ流すだけで、十分だったはずです」
そこで一度言葉を切り、さらに踏み込んだ。
「今回の真の標的は、佐々木副大臣ではなく、堂島慎太郎だったのではないでしょうか」
「ほう?」
「数日前の爆弾騒ぎは、マスコミの目を佐々木副大臣へ血眼になって向けさせるための『撒き餌』に過ぎなかった。犯人は意図的に堂島というメディアの象徴を盤上へ引きずり出し、彼自身の正義感と傲慢さを利用して、自ら偽の証拠を全国へ流すよう仕向けたのだと思います」
久我は黙って聞いている。
「権力を批判し、大衆を扇動するキャスターを、その巨大な影響力ごと社会的に抹殺する。それこそが、今回の罠の真の目的だったと推測します」
私の言葉に、久我は小さく喉を鳴らして笑った。
「なるほど。政治家を直接討つのではなく、まずは我々の周囲で騒ぎ立てるメディアの象徴を、自らの思い込みで自滅させたというわけか」
その口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「……悪趣味だが、極めて合理的だ。だが、どれほど精巧な罠を仕掛けようとも、土台となる権力の核が揺るがなければ何も変わらん。ネズミは所詮ネズミだ。明るい場所へ引きずり出し、踏み潰せば終わる」
どのような異常事態が起きようとも、自分こそがこの国の『核』である。
久我の言葉には、そんな絶対的な自負が滲んでいた。
車は静かに右折し、永田町の高級住宅街へ入っていく。
目的地である久我邸は、もうすぐそこだった。
* * *
午後四時。
高い石壁と鬱蒼とした木々に囲まれた久我家の広大な敷地は、外界で堂島慎太郎が転落した狂騒が嘘のように、不気味なほどの静寂に包まれていた。
重厚な鉄門が静かに開き、黒塗りのマイバッハが敷地内へ滑り込んでいく。
車寄せには、すでに屋敷の警備責任者や使用人たちが一列に並び、久我の帰還を恭しく出迎えていた。
だが、その顔には一様に強い緊張が浮かんでいる。
佐々木の爆破騒ぎから続く一連の異常事態によって、この伏魔殿の内部にまで、目に見えない恐怖が浸透し始めている証拠だった。
車が停まり、私は素早く降りて後部座席のドアを開けた。
久我晃一郎は、傘を差しかけようとする使用人を手で制し、冷たい雨に濡れることも厭わず、そのまま屋敷へ足を踏み入れた。
「警備責任者」
エントランスホールへ入るなり、久我は立ち止まることなく声を放った。
初老の警備長が、弾かれたように歩み寄ってくる。
「は、はい! 幹事長!」
「ただちに屋敷の全フロア、および敷地内の隅々まで、盗聴器や隠しカメラなどの物理的スキャンを再実施しろ。通信ネットワークのファイアウォールも、外部の専門業者を呼んで最高レベルまで引き上げろ」
久我は足を止めずに命じた。
「……ネズミが一匹でも入り込んだ形跡があれば、お前たちの首が飛ぶと思え」
「しょ、承知いたしました! 直ちにかかります!」
警備長は青ざめた顔で頭を下げると、部下たちへ大声で指示を飛ばし始めた。
久我が、今度は私へ振り返った。
「真下くん。君は私と共に来い。私のプライベートな書斎と寝室のセキュリティ・チェックは、君に一任する。他の人間は立ち入らせん」
「承知いたしました」
私は深く頷き、久我の背中を追って屋敷の奥へ進んだ。
重厚なマホガニーの階段を上がり、二階の最奥へ向かう。
そこには、久我晃一郎の私室群がある。
限られた身内と、ごく一部の側近しか立ち入ることを許されない、絶対権力者の『聖域』だった。
書斎の重い木製扉の前へ立つと、久我は自らテンキーとカードキーを操作し、さらに網膜認証用のパネルへ目を近づけた。
カチャリ、と重々しい金属音が内部のシリンダーから響き、ようやく扉が開いた。
室内は、壁一面を埋める巨大な本棚と、重厚なアンティークデスク、革張りのソファが置かれた、冷たく整然とした空間だった。
窓には分厚い遮光カーテンが引かれ、昼間だというのに薄暗い。
私は、油断なく室内へ足を踏み入れた。
プロの捜査員としての視線で、部屋の四隅から天井の通気口、デスクの裏側、さらにはコンセントの隙間に至るまで、盗聴器や隠しカメラなどの物理的な異常がないかを徹底的に確認していく。
「……幹事長。物理的な侵入の痕跡、および不審物は一切ありません。完全な密室です」
私が報告すると、久我は無言で頷き、アンティークデスクの奥にある重厚な革張りの椅子へ深く腰を下ろした。
シガーボックスから太い葉巻を一本取り出し、ゆっくりと火を点ける。
紫煙が、薄暗い書斎の空気へ溶け込んでいった。
重苦しい沈黙が、数十秒間続いた。
やがて久我は、葉巻を指に挟んだまま、低く冷え切った声で口を開いた。
「……真下くん。君は、再び聞くが、この一連の騒動をどう分析する」
その目は紫煙の向こう側で、見えない敵の姿を捉えようとするかのように細められていた。




