第45話
久我は、私が『真下修造の息子』であることしか知らない。
私は呼吸を完全にコントロールし、顔から一切の感情を削ぎ落とした。心の内側で吹き荒れる感情とは正反対の、忠実な護衛としての無表情を貼りつける。
「――お気になさらず」
私は極めて事務的な、抑揚のない声で家政婦を制止した。
「私は数時間、身体を休めるためだけに、この部屋を使わせていただくだけです。わざわざ片付けの手間を取らせるまでもありません。気になりませんので、そのままで結構です」
久我は私の顔を数秒間、じっと見つめた。
私は瞬き一つせず、ただの忠実な護衛として無表情を貫き通した。
やがて久我は興味を失ったように、小さく息を吐いた。
「……ふむ。お前が構わないなら好きにしろ。明日は朝七時に出るぞ。」
「承知いたしました」
久我が踵を返し、家政婦と共に部屋を出ていった。
扉が、ガチャン、と音を立てて閉ざされた。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。
私はその場から動かなかった。
一分。
三分。
五分。
誰も戻ってこない。
ようやくその事実を脳が理解した瞬間、顔に張りつけていた仮面が一気に崩れ落ちた。
足から力が抜け、私はデスクの前へ倒れ込むようにして縋りついた。
「……ユウ……っ」
震える指先で、コルクボードに貼られたチーコの絵へそっと触れる。
二十二年という時間を経て、画用紙の端は黄ばみ、クレヨンの色も褪せていた。それでも、描かれた線の一本一本に残る幼い筆圧を見ていると、ユウの息遣いが今にも聞こえてきそうだった。
絵を見つめているうちに、記憶の底から激しい雨音と、風が唸る音が鮮明に蘇ってきた。
まだ実の親父が生きていて、古びたアパートで男三人、肩を寄せ合って暮らしていた頃の記憶だった。
私とユウはある日、公園でカラスに突かれ、死にかけていた一羽の雀を見つけた。
アパートでは動物を飼えなかったため、私たちは公園の植え込みの奥に小さな段ボールの家を作り、毎日二人で餌を運んで世話をした。
それが、チーコだった。
だが、ある夜。
猛烈な台風が街を直撃した。
窓ガラスが割れそうなほどの暴風雨が吹き荒れる中、親父は夜勤で不在だった。
ふと気づいた時、部屋からユウの姿が消えていた。
『ユウ……まさか!』
血の気が引いた私は、傘も差さずに真っ暗な外へ飛び出した。
泥水でぐちゃぐちゃになった公園の奥へ走る。
木々は大きくしなり、大人でも立っていることが難しいほどの暴風雨が吹き荒れていた。
その中で私は、泥だらけになってしゃがみ込んでいる小さな背中を見つけた。
ユウだった。
あいつは、風で吹き飛ばされそうになっている段ボールの家を必死に両手で押さえ、自分の小さな身体を傘代わりにして、震えるチーコを雨風から守っていた。
『ユウ! 何やってんだ馬鹿野郎!!』
私は駆け寄り、ずぶ濡れになった弟の腕を力任せに引っ張り上げた。
『こんな嵐の日に外に出る奴があるか! 飛ばされて死んだらどうするんだ!』
本気で怒鳴りつける私に、ユウは雨と泥でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れている。
『だって、チーコが死んじゃう!』
『鳥一羽くらいで、お前が死んだらどうするんだって言ってんだよ!』
『ちがう! 違うよ、兄ちゃん!』
ユウは私の手を振り払い、小さな両手でチーコをしっかり包み込んだ。
そして、真っ直ぐに私を睨み返した。
『救える命を救わないなんて……そんなの、絶対におかしいでしょ!!』
その瞬間、雷が空を引き裂いた。
私は何も言えなくなった。
ただ、泥だらけの弟と、その手の中で震えている小さな命を、一緒に抱きしめた。
(お前は……この部屋で……ずっと……)
私は、ユウが残したチーコの絵を指先でゆっくりとなぞった。
「ごめんな……」
声が震えた。
「何もできなくて……」
私は額を画用紙へそっと押し当てた。
二十二年前のクレヨンの線が、こぼれ落ちた涙で僅かに滲んだ。
さっきまで、ユウの絵をただの物のように「どけておけ」と言い放っていた久我の無関心な声が、耳の奥で呪いのように響き続けている。
あの男は、ユウの心など微塵も見ていなかったのだ。
この部屋に残された写真も、絵も、ユウが大切にしていた思い出も、久我にとってはただの邪魔な所有物でしかなかったのだろう。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
私は袖で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
『救える命を救わないなんて、おかしいでしょ!』
あの嵐の夜、ユウが必死に叫んだ言葉が、今も鮮明に胸の奥へ残っている。
それは、義理の父である修造から教わった「泥臭い正義」と同じだった。相手が誰であろうと、目の前に救える命があるなら手を伸ばす。その信念こそが、私という刑事の魂の根幹を形作っている。
「……見ていてくれ、ユウ」
私はコルクボードに残された絵へ向かって、低く、誓うように囁いた。
「お前が教えてくれた命の重さを、俺は絶対に忘れない。……俺が必ず、この狂った屋敷の底を暴いてやる。お前を孤独のまま死なせたあの男を、この手で必ず泥水の中へ引きずり下ろしてやる」
声に出した瞬間、その決意は胸の奥へ深く沈み込み、揺るぎないものへと変わっていった。




