第42話 第六章:鳥籠の記憶
特捜本部での状況報告を終えた直後、私は綾瀬管理官から無言の目配せを受けた。
すれ違いざま、誰の耳にも届かないほどの低い声で囁かれる。
「真下。お前の特命連絡官への異動手続きを進める。……後で地下の空調機械室へ来い。誰にも気づかれないようにな」
他の捜査員たちが慌ただしく行き交う本部を抜け出し、私が誰の目も避けて一人で向かったのは、警視庁の地下深くにある『空調機械室』だった。
ゴウン、ゴウン……と巨大な空調ファンが低い重低音を響かせている。薄暗い蛍光灯の下には鉄の匂いと熱気が充満し、むせ返るほどだった。
この轟音の中なら、どれほど高性能な盗聴器を仕掛けられても、ノイズにかき消されてまともに音を拾うことはできないだろう。
私は分厚い防音扉をそっと押し開け、中へ足を踏み入れた。 そこには、すでに私を待っていた綾瀬管理官が一人で立っていた。
彼は私が来たことに気づくまでの数秒間、掌に乗せた銀色の『懐中時計』のひび割れた盤面をじっと見つめていた。
私が足音を立てると、綾瀬管理官はパチンと蓋を閉じ、時計を大切に懐へしまった。
そして、私が背後の分厚い防音扉を重々しく閉めると、綾瀬管理官はゆっくりと私に向き直った。
その表情は、先ほどまで特捜本部で見せていた冷徹なエリート指揮官のものとは違っていた。肩書きという鎧を脱いだ、一人の男の顔だった。
「真下。お前を信じて話す。これから私の口から出る言葉は、絶対に私とお前だけの秘密にとどめてくれ」
その重い口調と物騒な言葉に、私は思わず背筋を正した。
「……はい」
「私は、特捜本部の指揮を執るためだけにここにいるわけではない。警察組織のトップである『警察庁長官』直々の密命を受けて、この本部に潜り込んでいる」
「長官の……密命?」
「ああ。テロの暗躍を止めるのは当然だ。だが、真の目的はもう一つある」
綾瀬は僅かに声を落とした。
「――次期総理候補、久我晃一郎の底知れない『闇』を内側から暴き出し、失脚させることだ」
空調設備の轟音が響き続ける中、その言葉だけが鋭い刃のように私の胸へ突き刺さった。
警察組織のトップが、次期総理の最有力候補である男の首を直接狙っているというのだ。
「……なぜ、長官がそこまで? いくら久我幹事長に黒い噂があるとはいえ、警察が政治に直接介入するなんて……」
「長官個人の独断ではない。クリーンな政治でこの国を立て直そうとしている『現総理・神谷正』の強い意向だ」
「現総理の……!」
「久我という男は、自分の権力と欲望のためなら、他人の命など平気で踏み躙る怪物だ。神谷総理と長官は、あんな男にこの国の舵取りを任せれば、日本は完全に腐り落ちると危惧している。……だからこそ、テロの混乱に乗じてでも、久我の急所を握るための『内偵』が必要だった」
私は息を呑んだ。
だが、それと同時に、強烈な疑問が湧き上がった。
「だとしたら、なぜ俺なんですか。長官の特命なら、綾瀬管理官の息が掛かった本庁の優秀な公安や捜査員を潜り込ませればいいはずです」
私の問いに、綾瀬は苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。
「それができないから、こうして誰もいない地下室でお前に話しているんだ。私はこの本部に来る前から、久我の闇を暴くために数年間動いているが、何せ警察内部には、久我の派閥が大勢いる」
綾瀬は周囲を一度見回してから、さらに声を低くした。
「久我晃一郎という男は、警視庁の上層部と信じられないほど太いパイプで繋がっている。郷田管理官のようなヒラメ幹部だけではない。警視庁のトップである『警視総監』すらも、すでに久我の派閥に取り込まれた犬だ」
「なっ……警視総監が!?」
「今、この本庁の中に久我の息が掛かっていない幹部がどれだけいるのか、私にも見当がつかん。本庁の捜査員を動かせば、必ず総監ルートから久我へ情報が筒抜けになる」
綾瀬はそこで一度言葉を切り、まっすぐに私の目を見据えた。
「だからこそ私は、警察上層部のしがらみが一切なく、命を懸けてでも『真の正義』を貫ける、絶対に信頼できる人間を探していたんだ」
「……それが、俺だと?」
「長官は、お前が久我の目にとまり、一番近く――特命連絡官として配置されると聞いた時、ひどく驚いておられた。……そして、大いに期待を寄せていたよ」
「俺に、期待を……? 警察庁長官が、所轄のヒラ刑事にですか?」
「『真下』という苗字を聞いて、すぐに納得したよ、お前の義理の父親……真下修造の息子だと知ってな」
親父の名前が出た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
「長官がまだ現場を知らない若手キャリアだった頃、あの泥臭いオヤジさんに現場の最前線で『刑事の魂』を叩き込まれたそうだ。長官にとって、真下修造は今でも最も信頼する戦友であり、恩師なんだよ。……私にとってもな」
「綾瀬管理官も……親父に?」
「ああ。私が現場に配属されたばかりの新人だった頃だ」
綾瀬の冷たい瞳の奥に、かつての熱い記憶を思い出すような光が揺れた。
「当時の私は、ただ出世を望み、上層部の顔色ばかり窺う鼻持ちならないエリートだった。ある事件で、上からの評価を気にするあまり、被害者の保護よりも組織の面子を優先しようとした私を……オヤジさんは、周囲の目も気にせず力任せに胸ぐらを掴んで、こう怒鳴りつけたんだ」
綾瀬は、あの太く温かい親父の声を懐かしむように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『いいか綾瀬。上層部の顔色ばっかり気にして、上を向いて歩いてるうちはな……足元で踏み潰されてる小さな命に、一生気づけねえぞ』
「……!」
『デカの正義ってのは、会議室の綺麗な机の上にはねえんだ。誰かの命を守るために泥水をすすって、みっともなく這いつくばって……それでも必死に伸ばした、その汚え両手にだけ本物の正義は宿るもんだ。綾瀬! バッジの重さにふんぞり返るな!』
その言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
間違いない。
土砂降りの雨の中、交番で義父に救われた。あの不器用で、誰よりも温かい魂の言葉だった。




