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第26話

 背筋を、強烈な悪寒が走った。


 最初の電車、グランドホテル東京。

 そして今回すべて同じ犯人の『署名』だった。

 私はシールを凝視した。


 頭の中へあの理知的で、冷たい笑い声が蘇る。

 これは、ただの自己顕示欲ではない。

 犯人は隠しカメラの向こうから久我を、そして、事件後にここへやってくる警察をこのシール越しに笑っている。


 他人の犠牲の上で生き罪悪感もなく。


 特権階級として当然のように、一番立派な椅子へ座る。

 郷田が、記者会見の『特等席』へ座るのか。

 それとも久我晃生が、この控室の『椅子』へ座るのか。

 二人とも何の疑いもなく、自分のために用意された席を選んだ。


 そして深く腰を下ろした。


 犯人はカメラ越しに、その瞬間を見ていた。

(自分の意志で、処刑台へ座った)

 そう嘲笑うようにこの一枚のシールは、警察をそして世界の「特等席」へ座る大人たちを容赦なく挑発している。


「柴田さん、ありがとうございます」

 私はクレーターから顔を上げた。

「このシールが今回も残されていたこと、本部に共有します」

「ああ」


 焦げ臭い空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す。

 孤独な戦いは、もう始まっている。

 私は柴田さんへ深く一礼した。

 証拠写真を端末へ収め、市民ホールを後にした。

 

*  *  *

 

 特捜本部へ戻った私は、離れた席でふんぞり返る郷田の目を避けるようにして、綾瀬管理官のデスクへ向かった。


「綾瀬管理官」

「どうした」

「久我晃生の現場でも、これが残されていました」


 私は端末を差し出した。

 鑑識写真。


『椅子に座りますか』


 綾瀬はしばらく無言で文字を見つめ、やがて目を細めた。

「……やはりな」

「やはり?」

「単なる自己顕示欲による悪戯ではない」


 綾瀬は静かに言った。

「犯人の行動には、一貫した規則がある。歪んではいるが、極めて強固な『システム』としての規則性だ」


 そして。


 周囲を一度見回した。

 捜査員たちは皆、慌ただしく動き回っている。

 綾瀬は、その誰にも聞こえないほど声を落とした。

「真下」

「はい」

「君に、特捜本部全体の捜査とは別に、単独で動いてもらいたい案件がある」

「……私に?」


 綾瀬はデスクの引き出しを開けた。


 そこから、黒い縁取りが施された、一枚の『関係者用パス』を取り出した。

 表面は金文字、久我家を示す紋章。

 裏面には、警視庁警備部が今回のテロ警戒のために発行した、特殊なセキュリティコードが刻まれている。


「今夜、港区の青山葬儀所で、久我晃生議員の通夜が執り行われる」

「……」

「当然、爆殺テロの翌日だ。会場はSPと機動隊による超厳戒態勢が敷かれる。一般の弔問客もマスコミも、完全にシャットアウトされる」


 綾瀬がパスを私へ差し出した。


「事前に身元確認を受け、このパスを支給された限られた関係者しか、敷地内へ入ることはできない」


 私は黒いパスを受け取った。


「君も知っている通り、父親の久我晃一郎氏は、与党幹事長だ」


 次期総理の座に、最も近い男。

 政界の『怪物』。


「彼の影響力は計り知れない。我々警察は威信を懸けてテロリストを排除し、久我一族を守らなければならない」

 綾瀬の言葉には、確かな重みがあった。


 少なくとも、郷田のように、自分の出世や保身だけを考えて口にしているようには聞こえない。


 国家にとって重要な人物を守る。警察官僚としての、強い使命感、そんなものが滲んでいた。


「本来なら、警察上層部の人間が何人も顔を出す場所だ。だが、今は連続テロの最中でもある。迂闊に動けば、こちらまで犯人に狙われかねない」


 綾瀬が私を見る。


「……そこで、君だ」

「私が、このパスで入るのですか」

「そうだ」


 短く答えたあと綾瀬は、私が最も聞きたくなかった話へ踏み込んだ。


「本庁の権限で、君の戸籍を調べさせてもらった」

「……」

「君には、かつて児童養護施設で生き別れになり、その後、久我家へ特別養子縁組で引き取られた実の弟がいたそうだな」


 ドクン。


 心臓が、嫌な音を立てた。


 そこまで調べているのか、綾瀬は、郷田から吹き込まれた「極秘の裏捜査」などという話を、ただ鵜呑みにしているわけではない。

 私の過去まで洗った上であえて、この仕事を任せようとしている。


「……ユウのことですか」

「ああ」

「二十二年前の話です」


 私は答えた。

「ユウは久我家へ引き取られて……わずか三年後。十歳の時、海外で不慮の死を遂げました」


「君にとって」

 綾瀬は静かに続けた。

「久我家は、弟が最期の時を過ごした場所だ」

「……」

「私的な感情を持ち込めとは言わない。ただ」


 探るような目。


「君なら、あの場所に流れる空気の変化を感じ取れるかもしれない」


 綾瀬はデスクの上で指を組んだ。


「犯人が久我晃生を『暴食』として狙い撃ちにした以上、そこには必ず、我々がまだ把握していない理由がある」

「理由……」

「君にしか見えないものがあるかもしれん」


 その目が真っ直ぐ、私を射抜く。


「参列者の中へ紛れ込んでいる不審な人物。あるいは、警察内部から情報を流している『内通者』と接触する者がいないか、その目で確かめてこい」


 一拍。


「……これは、私からの特命だ」

「……承知しました」


 私は黒いパスを握り、深く頭を下げた。


 久我晃生が、なぜ『暴食』と呼ばれたのか、今の私には、まだ何も分からない。

 だが。

 弟の命が消えたあの一族に、ついに自分から足を踏み入れる時が来た。





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