第1章:地獄の特等席
人の肉と肉が軋む音が聞こえる。酸欠寸前の熱気と、生乾きの服の匂い、そして不機嫌な誰かの舌打ち。午前七時四十五分。新宿へ向かう埼京線の車内は、今日も変わらず「地獄」だった。
窓ガラスは乗客の顔や肩で押し潰され、吐息の結露で白く濁っている。私、真下は吊り革に掴まることすらできず、見知らぬサラリーマンの背中と、分厚いコートを着た老人の間に挟まれたまま、ただ波のように揺れるしかなかった。足を踏まれても文句を言う余裕など誰にもない。誰もが液晶画面や虚空を見つめ、心を無にしてこの耐え難い苦痛が過ぎ去るのを待っている。
だが、この圧倒的な不平等の中で、たった一つだけ「特等席」が存在する。椅子だ。 私の視線の先、七人掛けのシートと、その横の優先席。そこには、この過酷な圧縮空間とは無縁の、選ばれた者たちが鎮座している。
優先席。本来ならば高齢者や身体の不自由な者、あるいは内部疾患を抱える人や妊婦、乳幼児連れの乗客が最優先で座るべきその場所に陣取っているのは、お世辞にも身体が不自由とは思えない、三十代半ばの男だった。
彼は足を浅く組み、ワイヤレスイヤホンで耳を塞ぎながら、スマートフォンで動画を見ている。時折、ニヤリと口角を上げるその顔には、本来その席を必要としているはずの、目の前で苦しそうに顔を歪める妊婦や、手すりにしがみつく老人の姿など一切映っていない。
『俺は座れた。お前らは立って苦労しろ』 決して声に出したわけではない。だが、その勝ち誇ったような横顔にはありありとそう書いてあった。
満員電車という異常空間において、その傲慢さは何よりも醜く、私の神経を深く逆撫でした。 ……かつて、私の父はこの狂気のような混雑の中で命を落とした。助けを求めても、誰一人として手を差し伸べる余裕などなかった。
それなのに、彼らは。
ドスッ、と鈍い音がした。揺れに耐えきれなくなった老人が、優先席の男の靴に足を踏み入れてしまったのだ。男は顔をしかめ、あからさまな舌打ちをした。そして、靴の汚れを払うように足を組み直し、さらに深く座席に沈み込んだ。
その直後だった。 鼓膜を突き破るような轟音。爆風は車内全体に拡散することなく、男が座っていた優先席の下から、真上に向かって一直線に噴出した。悲鳴を上げる間すらない。指向性を持った凄まじい爆発エネルギーが、優先席に座っていた男の臀部から上半身を鋭い刃物のように貫き、男の身体は原型を留めない赤い飛沫となって天井に弾け飛んだ。
周囲の乗客たちは衝撃波でドミノのように薙ぎ倒されたが、不思議と致命傷を負った者はいなかった。ただ、頭から全身にかけて、先ほどまで男だったものの温かい血と肉片を、土砂降りの雨のように浴びただけだ。
急ブレーキの甲高い摩擦音が鳴り響き、車内は完全な暗闇に包まれた。非常灯の赤い光だけが、地獄絵図と化した車内を不気味に照らし出している。
床に叩きつけられた私は、べっとりと顔に張り付いた血糊を拭いながら、這いつくばるような姿勢で焼け焦げた優先席を見つめていた。
そこにはもう、ふんぞり返っていた男の姿はない。黒い煙を上げる椅子の残骸と、男が持っていた鞄の切れ端が散乱しているだけだ。
ふと、床スレスレの視線の先――ひしゃげた座席の下の床面に、一枚のシールが貼られているのが見えた。
爆風の死角になったのか、煤けた床の上で、そのシールだけが異様なほど綺麗に残っている。そこには、白い文字で不気味なほど無機質に、こう印字されていた。
『椅子に座りますか』
無差別テロなんかじゃない。焼け焦げた優先席を見つめながら、私の本能が激しく警鐘を鳴らしていた。これは明確な「憎悪」と「ルール」を持った、悍ましい処刑の始まりなのだと。
「……動かないでください! 警察です!」
私は喉の奥から血の味のする唾を吐き捨て、胸ポケットから警察手帳を引き抜いた。ひび割れた声が、自分でも驚くほど遠く聞こえる。耳鳴りが酷かった。
無傷だった乗客たちがパニックを起こし、非常用ドアコックをこじ開けようと殺到している。私はふらつく足で立ち上がり、生存者の誘導と現場の保存に奔走した。だが、網膜にこびりついた『椅子に座りますか』というあの文字だけが、どうしても頭から離れなかった。
* * *
数時間後。 新宿署の一室に急遽設けられた特別捜査本部の「中核会議」は、かつてないほどの重苦しい焦燥感に包まれていた。
集まっているのは二十名ほど。警視庁捜査一課の管理官をはじめ、テロを管轄する公安部のトップ、サイバー犯罪対策課の班長、そして新宿署の署長クラスなど、いずれも今回の初動捜査を牽引するエリート幹部たちばかりだ。
私はシャワーで全身の返り血を洗い流し、真新しいワイシャツに着替えて、部屋の最後尾――パイプ椅子すら用意されていない扉のすぐ脇に、一人ポツンと立っていた。鼻の奥にはまだ、あの悍ましい鉄と血の匂いがこびりついている。
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