第9話「揺れる報告線」
朝の光は、まだ薄かった。
時層ギルド支部の窓から差し込むそれは、昨日の疲れを完全に洗い流すには弱すぎて、紙束の山や木の机に淡い色を落とすだけだった。夜の冷えが残った空気は少しひんやりしていて、古びた床板を踏むたびに、乾いた軋みが耳に残る。
瞬は、受付カウンターの前で小さな工具箱を開けていた。ミナトが整備に使う計測器の予備部品――細かいネジや金属片を、分類ごとに仕切りのある箱へ戻していく単純作業だ。指先は慣れたもので、ほとんど無意識に動いている。
だが、心は別のところにあった。
(過去を、変えるな……)
昨夜、ガイルに言われた言葉が、まだ胸の奥でくすぶっている。あの低い声と、いつもよりずっと強い視線。メリルの沈黙。全てが、ただの注意や規則以上の何かを物語っていた。
ネジのひとつが指から滑り落ち、机の上を転がっていく。瞬は慌てて手を伸ばした。金属が木に当たって鳴らす小さな音が、なぜかやけに響く。
「おっと」
すぐそばに、すっと影が差し込んだ。メリルが素早く手を伸ばし、床に落ちる前にネジを指先でつまみ取る。
「はい、キャッチ。集中力、まだ夢の中?」
「あ、すみません。ぼーっとしてました」
「見てれば分かるよ〜。さっきから三回は同じネジ出したり戻したりしてるし」
メリルは苦笑しながらネジを箱に戻した。彼女は今日は受付カウンターの中ではなく、外に出て書類の束を抱えている。腰にはペンを何本も差し込んだ革のベルト。いつもの仕事モードだが、その動きにはどこか落ち着きのなさが混じっていた。
「昨日のガイルさんの話、響いちゃった感じ?」
「……まぁ、はい」
曖昧に笑うと、メリルは「だよね」と小さくため息を吐いた。
「瞬くん、真面目だからなあ。全部正面から受け止めちゃうタイプ」
「そんなこと……」
否定しかけて、言葉が続かない。少なくとも、昨日の話を軽く流せるような気分ではなかった。
「でもさ」
メリルは周囲にちらりと視線を走らせた。まだ朝早いせいか、ギルド内には人影もまばらだ。奥の机でミナトが工具を整えている音と、遠くの倉庫から木箱のきしむ音くらいしか聞こえない。
それを確認してから、彼女は声を少し落とした。
「あの人が“重要な話をするモード”のときって、だいたい――」
と言いかけたところで、ぴたりと口を閉じる。眉がわずかに寄せられ、代わりに笑みを作り直した。
「――ま、今は気にしすぎないこと! 仕事してれば、そのうち気が紛れるよ」
「そう、ですかね」
「そうそう。それに――」
メリルは書類の束を胸に抱え直すと、入口の方へちらりと視線を飛ばした。
「今日はなんか、別の意味でもバタバタしそうな予感がするし」
「別の意味?」
瞬もつられて入口へ目を向ける。厚い木の扉は閉じられたままだ。特に変わった様子はない。だが、メリルの言葉と合わせて意識してみると、扉の向こう側に、何かじっとした気配がたまっているような錯覚が生まれる。
ほんのわずかだが、空気が重い。
「なんか来るんですか?」
「さあね。……でも、ガイルさん、朝から妙に書類チェックしてたし」
メリルは肩をすくめた。瞬が視線を奥へ向けると、確かに、支部長室の半開きの扉の向こうで、ガイルが分厚い紙束をめくっている姿が見えた。眉間には深いシワ。ペンを走らせる手は早いが、その動きはどこか落ち着かない。
「そろそろ“上”からも、うちの支部を覗きに来たくなる頃合いなのかもね〜」
「“上”、ですか……?」
「時政院とかさ」
さらりと口にされたその名前に、瞬の背筋がわずかに冷えた。
時政院。時層世界全体の時間秩序を監視し、各地のギルドや国家に指示を出す機関。教本の中でしか見たことのない固い文字が、頭の中に浮かぶ。普通の見習いにとって、ほとんど縁のない、遠い遠い存在。
「冗談、かもしれないけどね〜」
と、メリルは言葉の最後を柔らかく誤魔化した。しかし、抱えた書類を急ぎ足で整理用の机へ運び、そこから一部を引き抜いて別の棚の奥へ滑り込ませる手つきは、冗談だけでは済まない現実味を帯びている。
「瞬くん、そこ。机の上、もうちょっとすっきりさせとこっか。見習い感は残しつつ、散らかりすぎは減点だから」
「減点って……誰にですか?」
「お偉いさんに決まってるじゃん」
そう言いながら、メリルは瞬の前の工具箱を覗き込み、不要なガラクタをさりげなく別の箱に移していく。
その時だった。
ギルドの入口の扉が、ぎい、と低い音を立てて震えた。
風のせいではない。明らかに、何者かが外から押している重さだ。室内の空気が一瞬ぴん、と張りつめる。ミナトの工具の音が止まり、誰かのペンが紙の上で止まる気配が伝わってくる。
扉が開く前の、その一瞬。
瞬の胸に、説明のつかない不安が、ひやりと広がった。
扉が開いた。
外から流れ込んできたのは、冷えた風と、見慣れない硬質な気配だった。
黒い外套。深いフードは下ろされているが、その代わりに、首元までぴっちりと留められた襟が、着る者の隙のなさを強調している。肩には時政院の紋章が縫い付けられた銀のパッチが光を反射していた。
男は一歩、二歩とギルドの中へ足を踏み入れる。靴底が床板を打つ音が、妙に規則正しい。まるで軍楽のリズムの一部のように、寸分の狂いもなく刻まれていた。
瞬は、思わず姿勢を正した。
その男の顔立ちは、特別に怖いわけではない。年は三十代半ばほどか。短く刈り込まれた髪、細い縁の眼鏡。その目は冷静で、どこか機械的な印象すらある。
だが、纏っている“空気”が違った。
ギルドに出入りする依頼人や商人、時には兵士や役人。今まで出会ってきたどの大人とも違う種類の硬さ。目の前の風景を、全て“対象”として見ているような視線。そこには情はなく、ただ情報を評価する冷たい秤だけがある。
(これが……時政院)
教本に載っていた紋章が、目の前の外套で実体を持つ。瞬は喉の奥がひりつくのを感じた。背中に、汗が薄くにじむ。
「時層監察院よりの通達を携えてきた」
男の声はよく通るが、抑揚はほとんどない。朗読のような、事務的な響き。
「当支部の責任者は?」
「俺だ」
奥の部屋から、ガイルが姿を現した。さきほどまでの書類仕事の姿ではなく、腰には簡易の装備を付け直している。コートの襟を少しだけ正し、男の前で立ち止まった。
その顔には、いつものような不機嫌さが残っている。しかし、その裏側で、何かを測っているような鋭さが一段階増していた。まるで剣を抜かずに構えた状態の戦士のように、全身がわずかに緊張している。
「時層ギルド第七支部支部長、ガイル・ロッシュだ。通達を聞こう」
形式張った名乗り。瞬は初めて聞くその言葉に、ギルドという組織の“公式な顔”を垣間見た気がした。
時政院の男は、ほとんど表情を変えないまま頷き、肩から提げていた細長い革ケースを開いた。中から、紺色の封蝋で閉じられた書簡が一通、取り出される。
「これが本部からの文書だ。内容の確認を」
書簡がガイルへ差し出される。ガイルは眉をひとつ動かしただけで、それを受け取った。封蝋に押された紋章を一瞥し、無言のまま親指の腹で封を割る。
パキ、と小さな音。瞬の背中を、微かな寒気が走った。
紙が広げられる。ガイルの視線が文字の上を滑っていく。横からそれを覗き込むわけにもいかず、瞬はただ遠くからその様子を見守るしかない。
メリルは、受付カウンターの中にさっと戻り、いつも以上にきっちりとした姿勢で立っていた。顔には営業用の笑みを貼り付けているが、指先は僅かに書類の端をいじっている。緊張を誤魔化す癖だ。
「ふむ」
読み進めていたガイルの喉が、低く鳴った。
表情は大きく変わらない。だが、瞳の奥で何かがじわりと動いたのを、瞬は見逃さなかった。それは驚きではない。予想していたものを、改めて紙面で突きつけられたときの、重い確認の色だった。
「分かった。内容は確認した」
ガイルは書簡を丁寧に折り畳むと、机の上の所定の位置に置いた。視線だけを男に向ける。
「で、わざわざ使者が来たってことは、口頭での補足もあるってことだろう?」
「了解が早くて助かる」
男はわずかに顎を引いた。褒め言葉のつもりなのか、ただの事実確認なのかも分からない、乾いた口調。
「文書の通り、近々この支部に監察官を一人派遣する予定だ。時層事故の増加に伴い、各支部の活動状況と人員の質を直接確認する必要がある」
瞬の胸が、どく、と大きく跳ねた。
監察官。時政院直属の、監視役。ギルドの活動が規定通り行われているか、法に触れるような干渉をしていないか。そういったことを見張るために派遣される、と教本には書いてあった。
まさに、“上から覗きに来る”人間だ。
「また面倒な肩書きが増えるな」
ガイルはぼそりと呟いた。だが、その声に露骨な苛立ちは含まれていない。ただ、覚悟を新たにするような重さがある。
「それと、もうひとつ」
男の視線が、ふと瞬の方へ向いた。
本当に、ほんの一瞬だけ。しかし、その一瞬で、瞬は体の中身をすべて見透かされたような気分になった。喉の奥が乾き、呼吸が浅くなる。
「本部は、この支部に所属する一部人員について、追加の報告を求めている」
「……一部人員?」
「見習い、時層適性不明、名は――」
男は書類を確認することもなく、淡々と続けた。
「一ノ瀬瞬」
名前を呼ばれた瞬間、瞬は反射的に背筋を伸ばした。胸の鼓動が一段と早まる。メリルの視線が、横からさっとこちらへ滑ってくるのが分かる。
「現在、時層共鳴の片鱗を見せているとの報告が一件、上がっている」
誰が、いつ、どういう経路で。それを考える暇もないうちに、男は続けた。
「その詳細と、支部長としての見解を、今ここで確認させてもらいたい」
空気が、さらに固まった。
紙の白さが、やけに目に痛かった。
ガイルは机の上の書簡を指先で軽く押さえたまま、しばし沈黙した。視線は紙から動かない。だが、男が追加で開いた別の書類の方へちらりとも向けないその態度が、かえって緊張感を高める。
瞬は、喉の奥に石を押し込まれたような感覚で立ち尽くしていた。
(僕の……体質のこと……)
あの綻びを塞いだミッション。リュカが事細かにメモを取っていた姿が頭をよぎる。彼は研究者だ。本部への報告書も、細かく書くに違いない。そこに“瞬の時素感応”が記されていないはずがない。
ガイルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……見習いの能力にまで、監察院が興味を持つとはな」
「時層事故が増えている。潜在的な危険因子は早期に把握しておく必要がある」
男の返答は、棘のない分だけ冷たかった。そこに善意も悪意もない。ただ“管理”の思想だけがある。
「危険因子ねぇ」
ガイルは短く息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、その境界線上の音。
「一ノ瀬瞬。時層ギルド見習い。基礎訓練課程は終了、現場経験はまだ少ない。時層共鳴と思しき反応が、一件」
「詳細を」
男の目が細くなる。ガイルは片方の眉をゆるく持ち上げた。
「……お前のところには、すでに報告が上がってるんだろう」
「報告と、現場責任者の肉声は別物だ」
男の声に、初めてわずかな圧が混ざった。室内の空気がきし、と鳴るような錯覚。メリルがカウンターの中で息を呑む気配が伝わってきた。
ガイルはその圧を真正面から受け止めたまま、ほんの少しだけ口元をゆがめた。
「なら、こう言っておこう」
彼は、机から手を離し、腕を組んだ。肘で自分の体の前に壁を作るような姿勢。
「一ノ瀬瞬の時層適性は、現時点では不安定だ。共鳴の片鱗は見せているが、自覚的に制御できているとは言い難い。訓練段階ってやつだな」
「それは報告書に記載されている内容と矛盾はない。問題は――」
男はそこで一拍置いた。その視線が、今度は瞬の背後の空間を刺すように通り過ぎる。見ていない振りをして、“見ている”。
「“特筆すべき異常はない”と記されている点だ」
「その通りだ」
ガイルの返答は早かった。何の迷いもなく、言い切る。
「現場で見ている限り、こいつは“普通の見習い”だ。少し勘が良くて、少し無茶したがる。どこにでもいる新人だよ」
瞬は、思わずガイルを見た。その横顔は、いつものように不機嫌そうで、どこか投げやりで――だがその目の奥に、何か固いものが宿っている。
あえて“普通”と断じることで、何かを守ろうとしているような、そんな硬さ。
「“少し無茶をした”結果、時層の綻びを安定させた、とも報告されている」
「運が良かっただけだ」
ガイルは肩をすくめた。
「綻びの規模も小さかったしな。別の見習いでも、あの場にいたら同じくらいのことはできただろう」
「具体的な数値データも提出されている。脳波反応、時素濃度、負荷――」
「データがどう言おうと、俺は現場の責任者だ」
ガイルの声が、わずかに低くなった。
「数字だけ見て判断されちゃ困る。こいつはまだ、“危険因子”なんて呼ぶ段階じゃない」
男とガイルの視線が正面からぶつかる。両者とも声を荒げない。ただ、言葉の密度だけがじわじわと高まっていく。
瞬は、その間に挟まれて立つ自分の足元が、じわりと汗ばんでいくのを感じていた。自分の名前が話題になっているのに、何も言えない。言うべきことも、言っていいことも、分からない。
「念のため、直接対象に質問をすることも可能だが」
男の視線が、もう一度こちらへ向かう。そのなめらかな移動に、瞬の心臓が跳ねる。
口を開こうとした瞬間――。
「必要ない」
ガイルが、きっぱりと言葉を挟んだ。
「こいつに何を聞いたところで、“まだよく分かりません”としか言えん。訓練も始まったばかりだ。今ここで質問攻めにしたところで、出てくるのはノイズだけだろう」
男は瞬を見たまま、わずかに眉をひそめた。評価の値を微妙に調整するような視線。
「……支部長として、それを保証するか」
「ああ」
即答だった。
「支部長として、こいつの管理は俺が責任を持ってやる。異常事態が発生した場合は、規定通り速やかに報告する。――それで、不服か?」
挑発ではない。だが、引く気はないと示すには十分な言い方だった。
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
男は、ゆっくりと視線をガイルから書簡へ戻す。紙を一度確認し、軽く息を吐いた。
「……分かった」
その言葉は、納得とまではいかないが、表向きの了承を示す音だった。
「現時点では、支部長の判断を尊重する。ただし、監察官が到着した際には、改めて対象の観察を行う」
「好きにしろ」
ガイルは肩をすくめる。男は軽く頷き、革ケースを閉じた。
「では、本日のところは以上だ」
くるりと踵を返し、入口へ向かう。その背中には、来たときと同じ、冷たい規律の空気が纏わりついている。
扉が再び軋みを上げて開く。外の光が一瞬だけ室内を照らし、次の瞬間、その光とともに男の影も外へ消えた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
扉が閉じた直後、ギルドの空気が一気に変わった。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れたように。誰かが長く息を吐く音があちこちで聞こえ、さっきまで止まっていたペン先や工具の音が、少しずつ戻り始める。
瞬も、無意識に肩から力を抜いていた。緊張で硬くなっていた背筋が、じわじわと痛みを訴え始める。
「はぁ〜……」
受付カウンターの中で、メリルが大げさなくらいのため息をついた。
「やっぱり、ろくでもないほうの来客だったね〜」
「メリル」
ガイルが低く名を呼ぶ。だが、その声にはさっきまでの硬さは少し薄れていた。
「いやだってさぁ」
メリルはカウンターから顔を出し、机の上に肘をついた。口調はふざけているが、目つきは真剣だ。
「“危険因子”って。人のことをなんだと思ってるんだか」
危険因子。聞き慣れない言葉が、じわりと胸に染み込んでくる。
瞬は、自分の胸元を無意識に押さえた。さっき、男の視線が通り過ぎた場所。そこに何か印を押されてしまったような気がする。
「……僕、そんなに危険なんでしょうか」
ぽつりと漏れた言葉に、メリルの視線がすぐに向けられた。彼女は眉を下げ、小さく首を振る。
「それは違うよ」
即座に否定されたことに、瞬は少し驚いた。
「危険なのは、“使い方”の方。瞬くん自身は、危険なんかじゃない」
「……」
言葉を飲み込んだ瞬の横を、ゆっくりとガイルが通り過ぎる。彼は書簡を手に取り、支部長室の奥へと戻そうとしていた。
その背中に、思わず声をかけてしまう。
「あの!」
ガイルの足が止まる。少しだけ振り返る。
「さっき……どうして、誤魔化したんですか」
自分でも“誤魔化した”という単語を使ったことに、瞬は少しだけ焦る。だが、ガイルはそれに眉をひそめることはなかった。
「誤魔化しじゃない。あれが“今の事実”だ」
淡々とした声。だが、その裏には固い意思がある。
「お前はまだ、“特別扱いされる段階”じゃない。上の連中に、好き勝手にラベルを貼らせるわけにはいかねぇ」
「でも、僕の体質が原因で、何か……」
「原因になるかどうかは、俺が見極める」
ガイルの声が、わずかに強くなった。
「上の連中は、遠くから数字と報告書だけ見て判断する。現場で何が起きてるかなんて、知りもしないでな。――だからこそ、現場にいる俺たちが、守らなきゃいけない」
“守る”という言葉が出た瞬間、メリルが目を伏せた。口元に、寂しそうな笑みが浮かぶ。
「……全部守れるわけじゃない、ってことも、知ってるけどね」
小さく付け加えられたその一言は、ガイルに向けて言ったのか、瞬に向けて言ったのか、あるいは自分自身に向けて言ったのか分からない。
ガイルは何も返さなかった。ただ、少しだけ視線を床へ落とし、それから瞬に向き直る。
「とにかく、今お前が気にする必要があるのは」
彼は言葉を選んでいるようだった。
「自分ができることを増やすこと。それだけだ。“上”がどう言おうと、お前が現場で誰かを助けられるかどうかは、お前自身次第だ」
「でも、監察官が来るって……」
「来るさ」
あっさりと言われて、瞬は逆に言葉を失う。
「来て、見て、好きに評価するだろう。そのために“上”はいる。俺たちは、俺たちの仕事をするだけだ」
その言い方には、諦めとも達観とも取れる響きがあった。どうあがいても変えられないものに対して、必要以上に抵抗しない代わりに、守れる範囲を見極めようとする現場の人間の声。
「……怖いです」
瞬は、正直に言った。胸の奥に溜まっていたものが、言葉になって飛び出す。
「自分のことなのに、自分でよく分かってなくて。それなのに、誰かが勝手に“危ないかもしれない”って決めて、監察されるのって……」
「そりゃ、怖いだろうな」
ガイルは否定しなかった。
「怖くていい。怖がらない奴の方が、よっぽど危ねぇ」
それは、昨夜の「過去を変えるな」という言葉とも、どこか響き合う諦観だった。
「怖いと思いながら、それでも目の前のことをやる。……それができるかどうかなんだよ」
瞬は視線を落とした。自分の手のひら。綻びに触れたときの感覚が、まだじんわりと残っている気がする。
メリルが、そっと彼の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。……少なくとも、うちの支部長は“部下売るタイプ”じゃないから」
「メリル」
「ほんとのことでしょ?」
彼女は笑ってみせる。その笑みは、いつもの軽さを取り戻しつつあった。
「ほら、瞬くん。今日はもう、余計なこと考えすぎない。監察官が来るのは、すぐじゃないよ。準備する時間くらいは、ちゃんとある」
「準備、ですか」
「心の準備も、仕事の準備もね」
メリルはウインクして見せると、机の上の書類をぱん、と叩いた。
「さ、仕事仕事。上がどうこう言おうが、現場は回さないといけないんだから」
その言葉に、瞬は小さく笑った。まだ不安は消えない。だが、メリルのいつもの調子に引き戻されるように、足元の感覚が少しだけ戻ってくる。
ガイルも、書簡を手にしたまま、短く「そういうことだ」とだけ呟いて支部長室へ戻っていった。その背中は重く、それでいて、どこか“覚悟”を背負っているように見えた。
その日の仕事が一段落する頃には、外はすっかり夕方の色に染まっていた。
窓の外の空には、淡い橙と群青が混ざり合い、遠くの時層線が細く光っている。大陸のどこか別の時間帯が、その線の向こうで揺れているのだろう。目を凝らせば、その揺らぎの中に別の空の色や雲の形が見えるような気がする。
ギルドの中は、昼間の緊張を引きずったまま、いつもより少し静かだった。誰も、さっきの時政院使者のことを口には出さない。だが、誰もがその影を意識している。
瞬は、終業の鐘が鳴った後、ひとりギルドの外へ出た。
夕風が頬をなでる。日中の熱を少しだけ残した石畳の匂いと、遠くの屋台から漂ってくる香辛料の香りが混ざり合う。街のざわめきは、いつもと変わらない。子どもの笑い声、商人の呼び込み、車輪が軋む音。
さっきまでギルドの中で感じていた重い空気が、この外の世界と薄く境界を作っているように思えた。
門の近くの石段に腰を下ろし、夜空へと変わりつつある空を見上げる。
(俺は、何なんだろう)
自然と、そんな言葉が心に浮かぶ。
時層共鳴の片鱗。危険因子。特筆すべき異常はない。訓練段階。様々な言葉が頭の中をぐるぐると回る。
自分の体の中に、他の人にはない“何か”があることは、もう否定できない。綻びの前で感じたざわめき。時素の流れ。ノワールの影を見たときの、時間そのものに触れられそうな感覚。
それは、ただの才能なのか。それとも、世界にとっての“危険”なのか。
(ガイルさんは、“今は普通だ”って言ってくれた)
守るように。隠すように。
そのことが、嬉しいと同時に、怖かった。守られているということは、自分が守られなければならないほどの存在だと認識されているということだ。
胸元の布を、瞬はぎゅっと握りしめた。
「……僕は」
誰もいない路地に、小さな声がこぼれる。
「僕は、ただの見習いでいたいですけどね……」
その願いが、もう叶わないことくらい、うすうす分かっている。
農村の止まった畑。消えた家族。ノワールの視線。綻びを塞いだときの感応。ガイルの「過去を変えるな」という呪いのような警告。そして今日の、時政院の使者。
全てが一本の線になり、その線が、じわじわと瞬を“ただの見習い”の外側へ引っ張り出そうとしている。
風が吹いた。
空の高みにうっすらと光る時層線が、その風に合わせて微かに揺らぐ。別の時間の光と影が、その薄膜の向こうで重なり合っているように見えた。
(報告、監察、監視……)
今日の出来事を思い返す。
ガイルは“必要なことだけ”を上に伝えた。本当はもっと詳しく知っているのに。瞬の体質も、感じている危うさも。それでも、言葉にしなかった情報がたくさんある。その“揺れ”の上に、自分は立っている。
その揺れが、いつか誰かに見抜かれてしまったら――。
不安が、胸の奥で膨らむ。
だが、それと同じ場所で、小さな火種のような感情も生まれつつあった。
(知りたい)
自分が何者なのか。自分の中にある“何か”が、世界にとってどんな意味を持つのか。本当に危険なのか。それとも、何かを救えるものなのか。
怖い。だが、知らないまま監察され、評価されるのは、もっと怖い。
瞬はゆっくりと立ち上がった。足元の石畳は、昼間より少し冷たくなっている。
「……負けたくないな」
誰に、とは言わなかった。時政院か、運命か、あるいは自分の弱さか。そのどれにも、という曖昧な決意。
ギルドの建物を振り返る。窓のひとつに灯りが灯り、誰かの影が動くのが見えた。ガイルか、メリルか、あるいは他のギルド員か。そこには、まだ自分の居場所がある。
時政院の監察官が来るまでに、自分はどれだけ変われるのだろうか。
瞬は胸に手を当てた。鼓動は、まだ少し速い。だが、その速度の中に、恐怖だけでなく、ほんのわずかな高揚も混ざり始めているのを感じた。
空の時層線は、相変わらず細く揺れている。
その揺れは、報告書の行間で揺らぐ“情報の線”にも見えた。上に何を伝えるか、何を伏せるか。その選択ひとつで、誰かの未来が変わる。
自分がその線の上を歩くことになるなら――。
瞬は小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……やるだけ、やってみるか」
誰にも聞こえない決意を胸に、彼は再びギルドの扉へ向かって歩き出した。扉の向こうには、次の仕事の日常と、その日常を揺らしに来る“監察の影”が、静かに待っている。




