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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第8話「触れてはならぬ時」

 夕陽が傾ききる少し前、ギルドの窓から差し込む光は、紙束と木の机に長い影を落としていた。


 ミッションから戻ったばかりの瞬は、背負い袋を下ろし、受付カウンターの脇に置かれた木箱の上にそっと腰を下ろしていた。足の裏にはまだ土の感触が残っている気がするし、体の芯には、時素を使ったあとの妙なだるさがまとわりついている。


 ギルドの中は、夕方特有の疲れたざわめきに満ちていた。誰かが書類をめくる音、遠くの机でペン先が紙をひっかく音、奥の倉庫で木箱を引きずる鈍い音。埃っぽい紙とインク、油の混じった匂い。いつもと変わらない――はずの光景。


「いや〜、おかえり、瞬くん」


 受付カウンターの向こうから、メリルが顔を出した。髪を後ろでざっくり結んだまま、片手には書類の束、片手にはマグカップ。口元には、いつものように軽い笑みが浮かんでいる。


「顔、真っ白だったって聞いたよ? リュカから。倒れたって?」


「倒れてないです。ちょっと、へたり込んだだけで」


「それを世間一般では倒れたって言うんだよ〜」


 メリルはカウンターから身を乗り出して、瞬の顔を覗き込んだ。視線が合うと、じっと観察するように目を細める。


「でもまあ、生きてるならよし。……ほんと、生きて帰ってきてくれてよかった」


 最後の一言だけ、わずかに声の温度が違った。からかい半分の調子のままなのに、その奥に本物の安堵が見え隠れする。


「すみません、心配かけて」


「謝るのは、危険手当をもうちょっと上乗せしてからにしてほしいかな〜。ね、支部長?」


 メリルの視線が、瞬の背後をかすめる。


 重い足音が、事務所の奥からゆっくりと近づいてきた。床板が、一歩ごとに低く軋む。瞬は反射的に背筋を伸ばし、振り返る。


 ドアの陰から現れたガイルは、いつも通り大きな体躯で部屋を満たした。肩幅の広さと、年季の入った皮のコート。片手には書類が挟まれたクリップボード。顔には、眠そうとも、機嫌が悪そうとも取れる不愛想な皺。


 ――なのに、今日の彼のまとっている空気は、どこかいつもと違っていた。


 ただ疲れているだけ、と片付けるには重すぎる気配。肩に乗った見えない何かが、いつも以上に彼を押し下げているように見える。


「……瞬」


 短く名前を呼ばれただけで、胸の奥がきゅっと硬くなる。瞬は思わず立ち上がった。木箱がわずかにきしんだ。


「は、はい」


「少し、話がある。こっちに来い」


 それだけ言って、ガイルは踵を返した。事務所奥の、壁一面に地図が貼られている部屋――支部長の簡易執務スペースへ向かう廊下の暗がりへと歩き出す。


 怒られる。瞬の頭に、その言葉が真っ先に浮かんだ。


 綻び塞ぎのミッションで、どこかで判断を間違えたのだろうか。無理をしたことが、もうリュカ経由で報告されているのかもしれない。あるいは、そもそも見習いが時素なんて触るべきじゃなかったのか――。


 そんな不安が一気に押し寄せる。


「あー、出た。“説教タイム”の声」


 メリルが肩をすくめるようにして笑った。だが、すぐに瞬の方を見て、口角だけで苦笑をつくる。


「冗談、冗談。……うん、半分くらいはね」


「半分……」


「でもさ」


 メリルは、書類の束をカウンターに置き、両手を空けてから、瞬の肩をぽん、と軽く叩いた。手のひらの重さは、慰めとも、励ましとも取れる曖昧な加減だった。


「何言われても、泣くなよ? あの人、不器用だから、ちょっと言い方キツくなるだけで」


「泣きませんよ」


「ほんと〜? 前、重い箱落として足の指ぶつけただけで涙目になってたくせに」


「あれは、その……」


 言い訳を探す間もなく、メリルは目を丸くしてふっと顔を近づける。瞳の奥には、からかい以上の色があった。


「大事な話だと思うから、ちゃんと聞いてあげて。……あの人が“話そう”って顔してるときは、だいたい、簡単な話じゃないからさ」


 冗談まじりにそう告げてから、メリルはすっと瞬から手を離した。


 夕陽は少しずつ傾きを増し、窓枠の影が床の上を長く這っている。奥の部屋へ続く廊下の先は、外とは別の、じっとりした暗さをたたえていた。


 瞬は一度だけ息を深く吸い込み、その暗がりへ足を踏み入れた。


 ガイルの執務スペースは、ギルドの中でもひときわ薄暗かった。


 窓はあるが、そこから差し込む夕陽は棚や地図に遮られ、部屋全体を明るくするには足りない。壁には大陸全土の時層地図が貼られ、ところどころに赤や青のピンが刺さっている。同じく壁際には、古びた帳簿や報告書がびっしり詰まった棚。紙と革と、古い木の匂いが混ざり合い、独特の重たい空気を作っていた。


 中央の机の上には、ランプが一つだけ灯っている。オレンジ色の火がガラス越しに揺れ、その光に地図の一部が照らされていた。そこには、今日の綻びの場所を示す小さな印がついている。


「座れ」


 ガイルが顎で示したのは、机の前に置かれた簡素な椅子だった。瞬は少し緊張しながら腰を下ろす。木の脚がきゅ、と軋み、背もたれが肌寒い。


 ガイルは机の向こう側に立ったまま、クリップボードを机に置いた。腕を組み、しばらく何も言わずに瞬と向かい合う。


 沈黙が重く伸びていく。その間、外からかすかに聞こえるギルドの喧噪が、逆に遠ざかっていくように感じられた。ここだけ、別の時間の層に切り離されているような感覚。


「……今回のミッション」


 ようやく、ガイルが口を開いた。声は低く、抑えられているが、いつもより少しざらついている。


「報告は全部聞いた。リュカからも、カスミからも」


「はい」


「綻びの感応に成功したそうだな」


 瞬は一瞬息を詰め、それから小さく頷いた。


「たまたま、です。二人が支えてくれたからで……」


「たまたま、で、綻びが塞げるなら苦労はしねぇよ」


 短く切り捨てるような言葉。しかし、その口調には苛立ちだけでなく、妙なリアリティが混じっていた。


 ガイルはランプの光の中で、地図に視線を落とす。その指がゆっくりと地図の上を滑り、小さな印の一つを軽く叩いた。コツ、と鈍い音がした。


「ここだ。今日の綻び。――こういう“小さな穴”はな、世界中にいくつもある。お前が今日塞いだのは、そのうちのほんの一つだ」


「はい」


「それでも」


 ガイルは地図から視線を上げ、瞬をまっすぐ見た。ランプの光が、彼の瞳に小さな炎を映している。


「一つ塞げば、一つぶんだけ、誰かの時間が正常に流れる。お前がやったことは、ちゃんと意味がある。……まず、それは覚えておけ」


 意外な言葉だった。てっきり、無茶をしたことを責められるのかと思っていた瞬は、返す言葉を一瞬失う。


「ありがとうございます」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


 ガイルは軽く鼻を鳴らすと、腕を組み直した。


「――で、だ」


 と、そこで言葉の調子を少し変える。机の端に片手を置き、その硬い指先で木の縁をとん、と軽く叩く。


「綻びを塞ぐことと、“過去に手を突っ込む”ことは、似て非なる行為だ」


「……過去、ですか」


「そうだ。時層の仕事をしていると、いずれは嫌でも向き合うことになる」


 ガイルはゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。声のトーンは淡々としているのに、その奥には何か硬いものが混ざっている。


「時層世界じゃ、過去改変は最も重いタブーだ。これは、時政院が勝手に決めたルールってわけじゃない。――“やらかした奴ら”が、命と街を賭けて学んだ教訓だ」


 やらかした奴ら、という言い方に、瞬は喉の奥がひやりと冷えるのを感じた。


「過去をいじるってのはな、一秒だろうが一分だろうが、“そこから先の全部”をいじるってことだ。誰かが一歩足を踏み出す位置を変えたら、その先でぶつからないはずだった相手とぶつかる。拾わないはずだった落とし物を拾う。言わないはずだった一言を言う」


 ガイルは地図から視線を外し、空中の一点を見るように目を細める。


「そうやって変わった“ちょっとした選択”が、別の誰かの人生を丸ごと変える。……時間ってのは、そういう連鎖でできてる」


「連鎖……」


 瞬は、自分の村の畑を思い出す。昨日のまま止まっていた畑と、今日の痕跡だけ残して家族が消えた家。あれも、どこかで“連鎖”が切れてしまった結果なのかもしれない。


「普通の人間は、その連鎖を意識しねぇで生きてる。それでいい。むしろその方が幸せだ」


 ガイルの声に、かすかな苦さが混ざる。


「だが、お前みたいに、時層に直接触れられる奴は違う。“どこをいじれば何が変わるか”を、他の誰よりも肌で分かる立場になる。……だからこそ、いちばんやっちゃいけねぇことがある」


 メリルは部屋の入り口の近くに立ち、黙ってその話を聞いていた。カウンターからこちらに来ていたらしい。いつものように軽口を挟むことなく、唇をきゅっと結んでいる。


「――それが、“過去を変える”こと、ですか」


 瞬は、ようやく言葉にした。


 ガイルは短く頷く。その頷きは、重い石を落とすような感じがした。


「そうだ。過去改変は、やりたくてやる奴なんていねぇ」


 ガイルは、机の角を握る指に力を込めた。関節が白く浮き出る。


「みんな、“誰かを救いたくて”やるんだ。死んだ奴を、失くしたものを、取り戻したくてな」


 その瞬間、彼の声の奥に、はっきりとした痛みが滲んだように感じられた。


 瞬は思わず息を呑む。胸の奥がきゅうっと締めつけられる。ガイルの言っている“誰か”が誰なのか、瞬には分からない。ただ、その言葉があまりにも具体的で、あまりにも生々しくて、とても“教本の一節”には聞こえなかった。


 メリルが、ほんの一瞬だけ視線を落とす。机の端を見つめる横顔は、いつもの陽気さを完全に失っていた。


「――でも、救えなかったんですね」


 気づけば、言葉が口からこぼれていた。自分が何を言っているのか、その重さを理解する前に。


 ガイルの眉がぴくりと動く。


 それは怒りとも悲しみとも取れる微細な反応で、そのどちらでもあるようにも見えた。


「そうだな」


 しばらく沈黙が落ちた後、ガイルは低く答えた。


「救えなかった。救えなかったどころか、その先のいくつもの時間を、道連れに壊した」


 机の木目に落ちる影が、ランプの揺れに合わせて微かに震える。それが、彼の拳の震えなのか、炎のせいなのか、瞬には分からない。


「だから――」


 ガイルは顔を上げ、瞬を鋭く見た。今まで抑え込まれていた感情が、瞳の奥で一瞬だけ炎のように燃え上がる。


「いいか、瞬。絶対に――過去を変えようなんて思うな」


 その言葉は、叩きつけるというより、絞り出すような口調だった。怒鳴り声ではない。だが、静かであるがゆえに、余計に重く響いた。


 瞬の背筋を、冷たいものが駆け上がっていく。喉の奥がきゅっと詰まり、返事が出てこない。


「たとえ目の前で誰かが死んでも。たとえ、自分のせいだと感じても。“あの瞬間に戻れれば”なんて考えるな」


 ガイルの声は、ますます低くなる。地の底から響いてくるような、重い音色。


「戻ろうとした瞬間に、そこから先の全部が壊れる。壊れないように計算できるほど、俺たちは賢くねぇ」


「ガイルさん――」


 メリルが、小さく彼の名を呼んだ。彼女の声には、制止と心配と、どうにもならない諦めが混ざっていた。


「分かったか、瞬」


 ガイルの視線が、瞬の胸を貫く。答えを求めるというより、念押しするような、逃げ場のない眼差し。


「……はい」


 ようやく声が出た。瞬は自分でも驚くほど素直に頷いていた。反射的に、相手の怒りを鎮めようとする返事ではない。理解は追いついていないのに、ガイルの言葉の重さだけは、痛いほど分かってしまったのだ。


 “過去を変えるな”。


 その命令は、単なる規則ではなく、呪いに近い響きを持っていた。


 それでも――と、胸の奥で小さな声がささやいた。


(それでも、もしも、目の前で誰かが……)


 ハルトの家族のことが頭をよぎる。昨日のまま止まった畑と、今日まで生きていた痕跡だけを残して消えた家族。あのとき、瞬は“どうにかできないか”と本気で思った。過去に戻るなんて発想はなかったが、“もしそんなことができるなら”と想像してしまったのも事実だ。


 その“もしも”を、今、ガイルに真正面から否定された。


「でも――」


 気づけば、言葉が口をついて出ていた。自分でも止められなかった。


「でも……もし、過去を変えなかったことで、誰かが確実に不幸になるって分かっていたら……それでも、何もしちゃいけないんですか」


 ガイルの眉がわずかに動く。メリルがはっと瞬を見た。


 部屋の空気が、さらに一段階冷えたように感じた。窓の外の夕焼けはほとんど色を失い、代わりに群青がじわじわと空を侵食している。ランプの火だけが、室内の色をかろうじて保っていた。


 ガイルはしばらく何も言わなかった。視線を瞬から外し、窓の方へ向ける。窓ガラスに映るのは、薄く伸びた自分の影。


「……それでもだ」


 ようやく、彼は静かに口を開いた。


「“不幸にならない未来”なんて、誰にも証明できねぇ」


 その声には、先ほどのような剣呑さはなかった。代わりにあるのは、深く沈んだ諦念だ。


「お前が“救える”と思ってる未来は、お前の頭の中で都合よく組み上げた幻に過ぎねぇ。実際の時間は、そいつの思惑なんか聞きゃしない。ひとつ辻褄を合わせても、別のところでひずみが出る」


 ガイルは、机の上に広げられた時層地図の一点を見つめたまま続ける。


「俺も、昔はそう思ってた。“あの瞬間だけやり直せば、全部うまくいく”ってな。――結果は、お前に話す必要はねぇ」


 “話す必要はない”と言いながら、その言葉の裏には“話せない”という意味が透けて見える。


 メリルが、机の端で拳を握りしめていた。 knuckles が白く浮かび、唇を噛む様子が横顔に表れている。彼女はガイルの過去を知っているのだろう。だからこそ、今は何も言えない。


「救えると思うな」


 ガイルは再び瞬を見た。今度の視線は、先ほどのように刺すようなものではなく、重いものを差し出すような、どこか哀願にも近い色をしていた。


「過去の誰かを救おうとするな。お前が救えるのは、“今ここにいる奴ら”だけだ。それを間違えると、今も、過去も、両方失う」


 瞬は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。


 頭の中では反論が渦巻いている。“それでも”という言葉が、喉の奥で何度も膨らんでは潰れていく。誰かが目の前で泣いていたら。死にそうになっていたら。それが過去の光景だと知っていても、何もしないでいられるのか。


 答えは出ない。


 出ないからこそ、今ここで軽々しく「それでも」と言うのは、何か違う気がした。ガイルの言葉の向こうにある“何か”を、完全に知らないまま否定するのは、卑怯にも思えた。


「……分かりません」


 絞り出すように、瞬は言った。自分でも意外なほど正直な答えだった。


「今、すぐには、分からないです。でも――」


 拳を握る。膝の上で、指先が爪を食い込ませる。


「誰かを助けたいって気持ちまで、消せる自信もありません」


 ガイルは、ほんの一瞬だけ目を細めた。その表情は、怒りとも笑いとも取れない、複雑なゆがみを含んでいる。


「それでいい」


 出てきた言葉は、予想よりずっと柔らかかった。


「助けたいと思うこと自体は、悪いことじゃねぇ。それがなきゃ、この仕事なんて続かない」


 ガイルは腕を組み直し、壁の時計をちらりと見た。古い針が、ひとつカチリと音を立てて進む。


「だからこそ、“触れていい場所”と“触れちゃいけねぇ場所”を、きっちり頭に叩き込んでおけ。……それができねぇ奴は、早晩どっかで取り返しのつかねぇことをやらかす」


 その言い方には、自分自身への嫌悪も混ざっているように聞こえた。


「瞬くん」


 メリルが、そっと瞬の横に歩み寄った。肩に軽く手を置く。その指先は、さっきカウンターで叩いたときよりずっと優しい。


「難しい話だよね。今すぐ全部分かれって言われても、無理だと思う。……でも、ガイルさんがこんな話をするのってね、めったにないの」


「メリル」


「だってそうでしょ」


 メリルはガイルを見た。目だけで短くやりとりをしているような表情。だが最終的に、彼女は瞬の方を向いた。


「昔、あの人にも、いろいろあったんだよ。だから、今は“脅かすみたいな言い方”しかできないだけで、本当はね」


 言いかけて、言葉を飲み込む。瞳が一瞬揺れた。


「……とにかく。瞬くんがどんな選択をしても、そのときまでに、ちゃんと考えたうえで選べる人でいてほしいってこと。たぶん」


 それは、ガイルの代わりにメリルが通訳した“本音”のようにも聞こえた。


 ガイルはそれに何も言わなかった。ただ、肩をわずかに落とし、深く息を吐く。


 窓の外は、いつの間にか夜になっていた。群青は黒に近づき、遠くの屋根の上には、白い月が顔を出し始めている。ランプの炎が、部屋の中の影をさらに濃くした。


「……今日はもう休め」


 ガイルが短く告げる。


「疲れているときに考え事をしても、ろくな結論は出ねぇ。頭の隅に、今の話だけ置いとけ。いつか、必要になる」


「必要に……」


 瞬はその言葉を繰り返した。必要になる、という断言。つまり、いずれ自分も、“過去に触れたくなる瞬間”に出会うのだと、遠回しに告げられている。


 想像したくない未来の景色が、ぼんやりと頭に浮かぶ。


「……分かりました」


 それでも、今はそれしか言えなかった。


 椅子から立ち上がると、膝が少しだけ笑った。昼間の疲労が、まだ体に残っている。時素を使った代償と、今日の会話の重さ。その両方が、体の芯に鉛のように沈んでいる。


 メリルの手が、もう一度瞬の肩を軽く叩いた。


「ほんとに、気にしすぎないでね。あの人、自分の言い方のせいで余計に怖がらせてるの、気づいてないからさ」


 その言葉は、瞬だけでなくガイルにも向けられているように聞こえた。


「メリル」


 ガイルが低く名を呼ぶ。眉間に皺が寄っているが、それ以上は何も言わない。


「はいはい、分かってますよ、支部長」


 メリルは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。


「とりあえず、今日はもう仕事はなし。瞬くん、部屋戻って顔洗って、ちゃんと寝る。いいね?」


「……はい」


 促されるまま、瞬は扉の方へ向かう。背後で、ランプの火がふっと揺れた。振り返ると、ガイルが机の脇で拳を握ったまま、深く俯いているのが見えた。


 その背中には、“支部長”ではない、一人の人間としての疲れと後悔が滲んでいる。メリルはそんな彼を横目で見ながらも、何も言わずに視線を逸らした。


 扉を開けると、外の空気が少しひんやりと肌を撫でた。ギルドの廊下には、古い時計の針の音が響いている。カチ、カチ、と一定のリズムで刻まれる音。その規則正しさが、逆に心をざわつかせた。


(触れてはならない時、か……)


 ガイルの言葉が、頭の中で形を変えて反芻される。


 過去に触れないことが正しいのか。それとも、どこかで触れなければならない瞬間が来るのか。今の瞬には分からない。ただひとつ、確かなのは――。


 自分はきっと、その選択を迫られる側に立つ、ということだけだった。


 胸の中に、重い石のような疑問が沈む。その上に、今日の綻びの感覚――時素のざわめきと、カスミの冷たい手の温度、リュカの期待を含んだ声が降り積もる。


 ギルドの窓から見える夜空には、月が丸く浮かんでいた。その光はどこか冷たく、しかし確かに世界を照らしている。


 触れてはならぬ時。


 それに触れたがるのは、いつだって“誰かを救いたい”と思う心なのだろう。


 瞬は自分の胸の上から拳をどけ、そっと開いた手のひらを見つめた。時層の綻びに触れた指先には、もう痺れも痛みも残っていない。ただ、何かを掴み損ねたような空虚さだけが、薄く張り付いている。


 その手をゆっくりと握りしめる。


「……おやすみなさい」


 誰にともなく呟いて、瞬は自分の部屋へ続く階段を上がっていった。背後で、時計の針がまた一つ、静かに時を刻む音がした。

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