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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第7話「揺らぐ感応」

 湿った風が、石畳の上を撫でるように流れていく。


 ギルド支部の門を出たところで、瞬は背負い袋の紐をもう一度締め直した。革の感触が手のひらに食い込み、きゅっと音を立てる。緊張で汗ばんだ掌が滑りそうになり、思わず握り直した。


「手汗、すごいねぇ」


 すぐ横から、間延びした声が降ってきた。


 振り向くまでもなく、誰の声か分かる。草むらの上に座り込んで、足をぶらぶらさせていたカスミが、顎を手の甲にのせて瞬の方を覗き込んでいた。淡い色の髪が、朝の風に合わせてふわふわと揺れる。


「そ、そんなに見ないでください」


「見るよ〜。だって、瞬くん、今日が“初めてのお仕事”みたいな顔してるもん」


「初めてじゃないですよ。雑用なら、いっぱい……」


「はいはい、書類運びの英雄ね〜」


 くすくすと笑う声が、石畳の上を転がるように広がっていく。からかっているのは分かっているのに、その笑い声にはどこか柔らかさがあって、完全にはむきになれない。


「――雑談はそこまで。機材の最終確認をさせてくれ」


 門の柱にもたれかかるようにして立っていたリュカが、金具のついた箱を軽く持ち上げた。細身の体に似合わず、肩には別の装置を入れた鞄も提げている。眼鏡の奥の瞳は、いつも以上にきらきらしていた。


「はい、これ。簡易時層計。綻びの振幅を測る。こっちが補助安定器。こっちが――」


「リュカさん、その説明、さっきも一回聞きました」


「二回聞いた方が安心するだろう?」


「リュカだけはね〜」


 カスミが指先で地面をつつきながら言う。その指先の下で、雑草の葉が少し遅れて震えた。風の流れとは違うタイミング。その些細な違和感に、瞬の視線が一瞬だけ吸い寄せられる。


 時霊種――時間に寄った存在。彼女の周りにはいつも、軽い風のような揺らぎがまとわりついている。


「今回の任務は標準レベルの綻び塞ぎだ。規模も小さいし、被害範囲も限定されている。訓練にはうってつけ」


 リュカは早口で続ける。言葉の端々に“訓練”“データ”といった単語が混ざるのを、瞬は敏感に拾った。


「……僕の訓練ですよね」


「そうとも言う」


 悪びれない笑顔。リュカのそういうところは、嫌いではない。怖いけれど、正直だから。


「もちろん、危険なことはさせない。綻びの規模は事前に時政院のデータとも照合してある。カスミもいるしね」


「うん、いるよ〜。ほらほら、瞬くん」


 カスミが立ち上がり、ぱん、とスカートについた草の欠片を払った。すっと近づいてきて、瞬の肩を軽く叩く。指先が触れたところだけ、体温とは違うひやりとした感触が走った。


「こわかったら、逃げてもいいからね〜?」


「その時は止めてくださいよ」


「ん〜、考えとく」


 明らかに考える気のない口調。だけど、その瞳はどこか真面目に、瞬の横顔を見つめていた。からかい半分、心配半分。その曖昧な混ざり方が、逆に心を少し落ち着かせる。


 門の外には、街道が伸びている。昨夜の雨がまだ少し残っているのか、空気には湿った土と石の匂いが混ざっていた。遠くで蒸気馬車の低い音が響き、倉庫街からは金属を叩く乾いた音が微かに届く。


 “普段の仕事”なら、ここから荷車を引いて近場の倉庫に行くのだろう。だが今日、瞬の背負い袋に入っているのは、書類でも工具でもない。


 時層計の予備バッテリー。緊急時用の安定剤。簡易救急セット。そして――


(僕の、よく分からない“体質”)


 胸の内側をそっと撫でるように、不確かな言葉が浮かぶ。昨日までなら、自分にそんなものがあるとは思いもしなかった。だが畑で、止まった時間に手を伸ばした瞬間の、あの奇妙な感覚を思い出すと、もう“何もない”とは言えない。


 怖い。けれど――。


(やってみたい)


 それもまた、本音だった。


「じゃ、行こうか」


 リュカが腕時計型の装置をカチリと起動させる。淡い光が数字を浮かび上がらせ、彼は満足げに頷いた。


「綻びは街外れの小さな丘の近くだ。放置しておくと、周辺の時間流がじわじわ歪む。そうなる前に、さっさと塞いでしまおう」


「はい」


「了解〜」


 三人の声が重なった。


 湿った風が、背中を押すように吹き抜けた。瞬は肩に乗った重みを確かめるように背負い紐をもう一度握り、街道へと足を踏み出した。


 街から少し離れると、空気が変わった。


 石畳が土の道に変わり、両脇を囲む建物が減っていく。代わりに、草の匂いと土の温度が肌に近くなっていく。遠くに見える林の輪郭が柔らかくなり、空の青さが一段階明るくなる。


 だが、その明るさには、どこか“ムラ”があった。


「……あれ、色が」


 瞬は立ち止まりそうになる足を、意識して前に出した。


 道の途中、一本の木の影が奇妙に揺れていた。風の向きとは違う方向に、影だけがじわ、と滲むように広がっている。木の幹自体はほとんど動いていないのに、地面に落ちた影だけが水面のように波打つ。


 その揺らぎの端に、瞬の視界が引き寄せられる。


 そこだけ、色が濃かった。周りの景色と同じはずの土と草が、ほんの少しだけ深く、重く見える。影の濃度が、他の場所よりもわずかに増している。


「お、着いたね」


 リュカが前に出た。腕時計型の装置がピピ、と甲高い音を立てている。彼は木の根元に近づきながら、地面に小さな棒を刺していく。印をつけるための簡易標識だ。


「ここが綻びの中心。見た目には、まあ……分かりにくいけどね」


「分かります」


 思わず、口をついて出た。瞬は自分の声に、自分で驚く。


 胸の奥が、ざわついている。さっきまでの緊張とは違う、不協和音のようなざわめき。心臓の鼓動と、周りの音と、自分の体内に流れる何かのリズムが、微妙にずれている。


 耳鳴りがした。高い音ではない。低い、地の底から響いてくるような振動。鼓膜ではなく、骨の方が直接震えているような感覚。


「呼ばれてるね〜、完全に」


 カスミが、いつものふにゃっとした笑みを消して、半歩前に出た。裸足のように軽やかな足取りで、綻びの近くへ歩いていく。彼女の周囲の空気が、ふわりと揺れた。


 木の幹の向こう側に、薄い縦の線が立っているように見えた。光でも影でもない、白とも透明ともつかない線。よく目を凝らすと、その線が細かく震えている。


「時層の皮膜が薄くなっている。ここが“綻び”」


 リュカが短く説明する。彼もいつもの軽口を少しだけ控えめにしていた。


「この程度なら、自然回復に任せてもいいレベルなんだけどね。都市に近いから、念のため塞いでおきたい。人がうっかり踏み込むと、足だけ二日前に落ちるとか、そういう笑えないことになる」


「笑えないですね、それ」


「でしょ?」


 リュカは笑いながらも、装置を地面に設置していく。小さな箱を四隅に置き、ケーブルのような光の線で繋ぐ。箱の表面には、緑と青のランプが規則正しく点滅していた。


「安定器、起動。綻び周辺の時流を一時的に固定する……っと」


 彼がスイッチを押すと、空気が一瞬だけ重くなったように感じた。風の流れが鈍り、葉の揺れがゆっくりになる。周囲の時間がほんの少しだけ“減速”したのかもしれない。


「瞬くん」


 名を呼ばれて、瞬は顔を上げる。リュカの視線がまっすぐにこちらを向いていた。


「君には、綻びの“流れ”を感じてもらう。無理に塞ごうとしなくていい。ただ、どの方向に、どのくらいの力で引っ張られているか――それを自分の内側で捉える。それが今日の目的だ」


「……できるかどうか、分からないですけど」


「できるよ〜。昨日、畑でちょっとやってたじゃん」


 カスミが、綻びのすぐ手前から振り返る。さっきまでとは違う、どこか“同族を見る”ような目で瞬を見ていた。


「“こっち側”に少しだけ足を踏み入れて、すぐ戻ってきた。私でも分かったもん。あれ、上手だったよ」


「上手……」


 自覚のない評価に、苦笑が漏れる。だが、彼女の言葉が嘘ではないことは、不思議と分かった。


「怖がるのはいい。でも、怖がって何もしないのはもったいない」


 カスミはふわりと笑う。


「瞬くんは、時間からちょっとはぐれてる。だから、こういうところの“ざわざわ”が、普通の人よりよく聞こえるの。ね?」


「……試してみます」


 瞬は息を吸った。湿った土と草の匂いが肺に入り、胸の中で重く広がる。


 怖い。だが、その怖さの奥に、なにか細い光のようなものが見える気がした。


 綻びの前に立つと、世界の輪郭が変わった。


 さっきまで遠くに聞こえていた風の音が、急に近くなったり遠くなったりする。木の葉の擦れる音が、まるで拍を外した楽器のように揃わない。太陽の光は変わらないはずなのに、足元の影の濃さが一定ではない。


「深呼吸して。ゆっくり、ね」


 後ろから、カスミの声がした。いつもより柔らかく、子どもをあやすようなトーン。彼女がそっと背中に手を添える。冷たいようでいて、芯の部分だけほんのり温かい、不思議な感触。


 瞬は言われた通り、目を閉じた。


 暗闇の中で、自分の体の輪郭を確かめる。足の裏に感じる土の感触。膝の少し上にある筋肉の張り。背筋を支える骨。胸の中で打つ心臓。そこから全身に血が巡っていくリズム。


 そのリズムと、外の世界のリズムが、少しずつずれている。


(――このずれ、だ)


 ずっと前から、瞬は時折こういう感覚を覚えることがあった。街の時計と自分の感覚が合わないとき。列車の到着時刻を見誤ることが多かったこと。友人と待ち合わせをしても、いつも微妙に早く着きすぎたり遅れたりする癖。


 それを自分の不器用さのせいにしてきた。でも、もしかしたら――。


「瞬くん、周りの空気、どう感じる?」


「……重い、ような、薄いような。なんか、変です」


「変なのが普通だから、大丈夫〜」


 背中を軽くぽん、と叩かれる。そのリズムが、自分の心臓の鼓動と一拍ずれたところで響く。


「綻びってね、時間の布に穴があいてるみたいなもの。周りの“時素”が、そこに向かって流れ込んでる」


 リュカの声が前から聞こえる。彼はきっと、いつものように手を動かしながら説明しているのだろう。


「時素は目に見えない。でも、流れは感じられる。川のそばに立ったとき、目を瞑っていても流れの方向が分かるだろう? 音とか、空気の動きとか、足元の震えとかで」


 瞬は頷く。幼い頃、村の川辺で遊んだ記憶が頭の片隅でよみがえる。流れの速い場所と遅い場所。石の上と砂の上。足の裏に伝わる違い。


「今、君の周りにも“川”がある。その川が、どっちに流れているか――それを感じてみて」


 言葉に従って、意識を周囲へ広げていく。


 最初に掴めるのは、風の流れだ。頬を撫でる向きと強さ。服を揺らす感触。次に、音。木の葉の擦れる方向。遠くの鳥の声の位置。


 それらを一枚一枚はがしていく。風の音を脇へ置き、鳥の声を遠ざける。足元の土の感触だけを残し、その上から別の感覚を探る。


 胸の奥がざわめいた。


 そこに、細い流れがある。水ではない。光でもない。ただ、“何かが”一定の方向へ向かって動いている感覚。


 綻びのある方角へ、じわじわと引っ張られていく。足の裏の内側が、そちらへ傾きたがっている。意識を向ければ向けるほど、その流れの“強さ”が分かってくる。


「……右斜め前。少し下の方から、何かが……」


 言葉にすると同時に、その感覚は少し輪郭を増した。右足首の内側を、冷たい糸が撫でていくような感触。ふくらはぎの筋肉が、無意識に緊張する。


「いいね、そのまま」


 リュカの声が、どこか興奮を抑えた響きになる。


「流れの方向が分かったら、その“縁”を探す。川にも岸辺があるだろう? 流れが強くなるところと、少し弱まるところ。境目を、なぞってみるんだ」


「境目……」


 瞬は、恐る恐る右手を伸ばした。目は閉じたまま。それでも、指先がどこに向かっているのか、不思議と分かった。


 空気は何も変わらないはずだ。だが、指先から肘へと伝わる冷たさが、一瞬だけ強くなる。


 ぞわり、と皮膚の下を何かが走った。


(ここだ)


 瞬は、指先で見えない線をなぞった。そこには確かに“縁”があった。何もない空間のはずなのに、薄いガラスの端に触れたような、微かな抵抗。


 途端に、耳鳴りが強くなった。低い唸り声のような音が、頭の奥で渦を巻く。同時に、胸の中の何かが逆流を始めた。


 自分の中にも、川がある。外の流れと逆の方向に動いていたはずの何かが、指先から触れた綻びの縁へと引き寄せられていく。


「瞬くん、呼吸、忘れないで」


 背中からカスミが囁いた。彼女の手が、先ほどより少し強く瞬の肩を押さえる。


「怖かったら、一回手を離してもいいから。今は、“ここに川がある”って分かれば、それで十分」


「……いえ、やります」


 自分の声が震えていないか、確認している余裕はなかった。それでも、言葉を出すことで、自分に言い聞かせる。


 外の川と、内側の川。その二つの流れが、綻びの縁で交差している。その交差点に、指先がある。


 その瞬間、世界の色が変わった。


 目を閉じているはずなのに、視界の奥で光が走る。黒い背景に、細い線が無数に浮かび上がる。青と白と薄い金色の線。それらが編み込まれ、絡み合い、ほどけてはまた繋がる。


 ひとつの線が、他の線から浮き上がるように揺れていた。そこだけが、不安定に震えている。綻び――時層の布がほつれた箇所。


(ここを……)


 瞬は、指先に意識を集中させる。自分の内側から流れ出ている川を、その揺れる線に重ねるようにイメージする。


 線と線が触れ合う。ざらり、とした感触。指先が軽く痺れた。その痺れが腕を伝い、胸へ、頭へとのぼっていく。


 痛みではない。だが、決して心地よくもない。自分の中の何かが、少しずつ削られていくような感覚。


「……っ」


 喉から声が漏れた。カスミの手が、さらに強く背中を支える。


「大丈夫、大丈夫だよ。今、ちゃんと“触ってる”」


 彼女の声が、遠くと近くの両方から聞こえる不思議な感覚。リュカの声も混ざる。


「そのまま、流れを少しだけ反対に曲げるイメージを。結び目を作るみたいに」


 結び目。


 瞬は、子どもの頃に縄を結ぶのが苦手だったことを思い出した。何度もやり直して、指先に縄の痕が残った日のこと。あのときの指の動きを、今度は見えない線で再現する。


 自分の中の流れを、ほんの少しだけ方向転換する。綻びから外へ向かっていた線を、綻びの縁に巻き付けるように、ぐるりと回す。


 線同士が絡み合う。抵抗がある。ほどけようとする力と、結ぼうとする力が、指先でせめぎ合う。


(……閉じろ)


 声にならない声が、胸の奥で響いた。


 次の瞬間、世界の唸り声が一段階高くなり、ぱん、と何かが弾ける音がした。


 光が、音もなく消えた。


 耳にまとわりついていた低い唸り声がスッと引いていく。重かった空気が、一気に軽くなる。風の流れが元のリズムを取り戻し、木の葉が自然なタイミングで揺れ始めた。


 瞬は反射的に目を開けた。


 綻びのあった場所には、もう白い縦線は見えなかった。さっきまで波打っていた木の影も、地面の上で普通に揺れている。リュカが設置した安定器のランプは、緑色一色で安定していた。


「……できた、のか……?」


 自分でも驚くほど掠れた声が口から漏れる。喉が乾いている。口の中が砂を噛んだようにざらついていた。


「――できたよ」


 背中から、安堵したような笑いが降ってきた。カスミが、腕を回し直すようにして瞬を支える。


「綻び、ちゃんと縫い合わせた。うん、上出来」


「素晴らしい」


 前からリュカの声。彼は腕時計型装置を操作しながら、興奮を隠しきれない表情で何度も数値を確認していた。


「時流の乱れ、ほぼゼロ。安定化処理と同等か、それ以上。これ、訓練一回目でやる仕事じゃないよ……!」


「そ、そんな、大したことじゃ――」


 言い終える前に、視界がぐらりと揺れた。


 木々の緑が薄くなり、空の青が滲む。自分の足の位置が分からなくなる感覚。膝の力が、一気に抜けた。


「――っ!」


 支えがなければ、そのまま前のめりに倒れていたかもしれない。だが背中にはカスミの腕があり、その腕が瞬の体重をしっかりと受け止めた。


「瞬!」


 耳元で叫ぶ声。自分の名前が遠くから聞こえるように響く。


「平気……です。ちょっと、クラクラしただけで……」


 そう言おうとするが、舌が重い。言葉がうまく形にならない。


「予想していた副作用だ。驚かないで」


 リュカの声は、意外なほど冷静だった。彼はすぐに駆け寄ってきて、瞬の額に手を当てる。指先の冷たさが心地よい。


「急激な感応と流れの操作で、体内の時素バランスが崩れた。要するに、使い慣れない筋肉を全力で動かしたようなものだ」


「でも、顔、真っ白だよ」


 カスミが心配そうに言う。彼女の顔がやけに近い。瞳の中の光が、ぐるぐると回って見える。


「血の気が引いてる。ちょっと安静だね。ほら、座って」


「いや、あの、大丈夫ですから――」


 強がりを口にするより早く、足が言うことを聞かなくなった。力を入れているつもりなのに、膝から下が自分の体ではないみたいにふわふわする。


 次の瞬間、重力に引かれるように体が沈み、土の感触が膝に伝わった。そのまま尻もちをつきかけたところを、カスミがうまく抱きとめる。


「もう〜、無理しすぎ」


 いつものふにゃっとした声が戻ってきていたが、その腕はしっかりと強かった。時霊種の華奢な見た目からは想像できないほど、安定した支え。


「ごめんなさい……」


「謝るとこじゃないよ。ちゃんとやったんだから」


 カスミは、瞬の額にかかっていた前髪を指でそっと払った。指の先が、微かに冷たい。そこから額へと、涼しさが広がる。


 心臓の鼓動がまだ早い。耳の奥で、先ほどまでの唸り声が、かすかな残響となって残っている。胸の中は空っぽになったようで、同時に何かを使い切った満足感のようなものもあった。


「……これが、代償ですか」


 瞬は息を整えながら呟いた。


「こんなに、持っていかれるとは」


「最初はこんなものだよ」


 リュカが膝をついて、同じ目線の高さまで降りてくる。彼の眼鏡の奥の瞳は、興奮と心配と、そして研究者としての好奇心で忙しなく揺れていた。


「時素への感応は、筋力と同じ。使わなければ弱いし、急に大きな負荷をかければ悲鳴を上げる。君は今まで、知らないうちに小さな感応はしていたけど、意識的にここまで強く使ったのは初めてだ」


「……もっと、鍛えれば、平気に……?」


「理論上はね。だが、やり方を間違えれば壊れる。だからこそ、観察しながら慎重にいく必要がある」


 リュカの声は真剣だった。紙とペンを取り出す気配があったが、彼はすぐにはメモを取らなかった。まず瞬の様子を優先している。その判断に、瞬は少しだけ救われるような気持ちになった。


「とりあえず今日は、もう十分。これ以上無理をさせるのは論外だ」


「異議なーし」


 カスミが、瞬の頭の後ろを支えたまま息をつく。


「ほら、瞬くん、ちょっと目、閉じて。世界がぐるぐるしてるでしょ?」


「……ばれましたか」


「見れば分かるよ〜。時霊種なめんな〜」


 からかうような言葉の奥に、確かな優しさが混ざっている。瞬は言われた通りに目を閉じた。暗闇の中で、自分の呼吸だけに意識を向ける。


 さっきまで見えていた光の線は、もう浮かび上がってこない。その代わりに、全身のだるさがじわじわと広がっていく。指先から腕へ、肩から首へ。


(こんなに……しんどいのか)


 初めての感応で掴んだ手応え。それは間違いなく、自分にしかできない何かの片鱗だった。同時に、これを使うたびにこんな風に消耗するのだとしたら――。


(僕、本当に、やっていけるのかな)


 不安が、疲労に紛れて静かに顔を出す。


 だが、その不安に沈み込む前に、背中に回ったカスミの腕が少しだけ強くなった。


「大丈夫だよ」


 耳元で囁く声がした。


「ちゃんとできてた。私、見てたもん。綻びの“ざわざわ”が、瞬くんに触られて、すーって落ち着いてくの、ちゃんと感じた」


 その言葉が、暗闇の中で小さな灯のように点った。


「……本当に、ですか」


「嘘言わないよ〜。そういうの、嘘つくとバレるから。時霊種的に」


 くすりと笑う声。瞬は目を閉じたまま、自分の口元にもわずかな笑みが浮かぶのを感じた。


 帰り道の夕暮れは、行きとは違う色をしていた。


 オレンジに染まり始めた空の下、土の道を三人で歩く。リュカは先頭で、腕時計型装置のログを確認しながら時々立ち止まり、何かを小さくメモしている。ペン先が紙を走る音が、カリカリと規則正しく響いた。


 その少し後ろを、カスミと瞬が並んで歩く。と言っても、瞬の足取りは重く、時々ふらつく。カスミはそんな瞬の袖を軽く掴み、道の端に寄りすぎないよう引き戻す。


「歩けそう?」


「……はい。多分」


「多分、か〜」


 カスミは小さく笑いながらも、掴んだ袖を離さなかった。彼女の指先は相変わらず冷たく、しかし不思議と心地よい。


 夕風が、草むらを撫でていく。虫の声があちこちから聞こえ始めていた。街へ戻る人々の姿も見える。荷車を引く商人、仕事帰りの労働者、子どもの手を引く母親。彼らの時間は、穏やかに、一定の速度で前に進んでいるように見える。


 その流れの少し横で、自分は別の川を覗き込んでしまったのだと思うと、妙な心細さが胸に広がる。


「リュカさん」


 前を行く背中に声をかけると、彼は立ち止まり、振り返った。夕日の光が眼鏡に反射して、一瞬だけ表情を隠す。


「なんだい?」


「僕の……今日やったこと。あれって、その……」


 言葉を探す。自分の中から、うまい言い回しがすぐには出てこない。


「使い物に、なりそうですか」


 ようやく絞り出したのは、そういう言葉だった。


 リュカは、少し驚いたように瞬を見た。それから、ゆっくりと眼鏡を押し上げる。


「“使い物”なんて表現は、あまり好きじゃないけどね」


「あ、ごめんなさい」


「でも、質問の意図は分かる」


 リュカは夕日の中で、少しだけ笑った。


「結論から言うと――十分以上に、だ」


「……十分以上」


「綻びの規模に対して、感応の精度が高すぎるぐらいだよ。普通はもっと大雑把にしか流れが分からない。それを君は、方向だけじゃなく強度の変化まで感知して、ピンポイントで縁を探った」


 リュカの声には、誇張ではない響きがあった。


「代償も大きかったけどね。それは、これから“慣れ”と“訓練”でどうにかしていく。今日のデータを基に、負荷を減らす手段も考えられる。――だから」


 彼は言葉を区切り、まっすぐに瞬を見る。


「君の力は、ちゃんと世界の役に立てる。少なくとも、僕の目にはそう見えた」


 胸の奥が、じん、と熱くなった。疲労でぼんやりしていた頭に、その言葉だけが鮮やかに残る。


「世界の、役に……」


「うん。世界は今、時間の方から壊れようとしている。普通の人間には見えないところでね。そこに感応できるっていうのは、それだけで大きなことなんだ」


「でも、その分、瞬くんの負担も大きいんだよね〜」


 カスミが横から口を挟む。声は軽いが、瞳は真面目だった。


「今日みたいに倒れちゃうと、守る側としては心臓に悪い」


「守る側、ですか」


「そりゃそうだよ。私とフィアがいるでしょ?」


 カスミは当然のように言う。その口調があまりにも自然で、瞬は一瞬、返す言葉を忘れた。


「瞬くんが転んだり、時層に足を取られたりしたら、引っ張り上げるのはうちらの役目。だから、勝手に全部背負わないこと」


「……全部、背負うなんて」


 否定しかけて、言葉が喉で止まる。


 畑の時も、今日の綻びも。自分が何かしなければと思っていたことは事実だ。誰かが困っているのに、自分だけ安全なところにいるのが耐えられない。それは“良いこと”だと信じたい。けれど、そこに無自覚な無茶が混ざっていたことも、否定できない。


「怖いって、ちゃんと言っていいんだよ」


 カスミが、袖を掴む手に少しだけ力を込める。


「怖いのに平気なふりをすると、時間に足をすくわれる。時霊種の先輩として、これは忠告」


 先輩、と言われて、瞬は思わず笑いそうになった。自分は人間のはずなのに。だが、カスミの目は冗談半分、本気半分だ。


「……怖いです」


 瞬は、小さく吐き出すように言った。


「正直、さっきも、途中でやめたくなりました。もう手を離したいって。でも、ハルトさんの家族のことを思い出したりして、結局、やめられなかった」


 言葉にした瞬間、不安の形が少しだけ変わる。ぼんやりとした影が、輪郭を持った。


「それでいいと思うよ」


 リュカが、前から静かに言う。


「怖いけど、それでもやる理由がある。君の場合は、きっとそれが“人を助けたい”って気持ちなんだろう。そこに僕の研究欲やら、カスミの好奇心やらがくっついて、妙なチームになってる」


「妙って言った〜」


「事実だろう?」


 小さな笑いが、三人の間に生まれた。夕暮れの風が、その笑いをどこか遠くへ運んでいく。


「でも、妙なチームでも、ちゃんと機能してる」


 カスミが言う。


「瞬くんが感じて、リュカが考えて、私たちが支える。今はそれで十分」


 “今は”という言葉に、未来への余白が含まれている。もっと大きな綻び。もっと危険な時層の崩れ。もっと強い代償。それらの可能性を、三人ともどこかで分かっている。


 それでも、今この瞬間だけは――。


「……ありがとうございます」


 瞬は、夕焼け空に向かって小さく頭を下げるように言った。誰に向けた感謝なのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥に芽生えた小さな覚悟に、自分で印をつけるような行為だった。


 疲労は重い。足取りはまだふらつく。時素を使うたびに今日のような代償を払うのだと思うと、正直なところ怖い。


 それでも、今日、綻びが静かに閉じていく感覚を、この手で確かに感じた。誰かの暮らしに降りかかるはずだった小さな危険を、一つだけ減らした。その事実が、胸の奥にじんわりと温かさを広げていく。


 夕陽は、街の屋根の向こうへ沈みかけていた。長く伸びた三人の影が、土の道の上で絡まり、またほどけていく。


 世界のどこかでは、まだ時間が軋んでいる。綻びが生まれ、崩れが広がっている。そこへ向かう道の入り口に、自分は今、立っているのだろう。


(揺れてもいい。怖がってもいい。それでも――)


 瞬は、掴まれた袖の感触を確かめた。カスミの手。前を行くリュカの背中。その向こうに続く、まだ見えない道。


 揺れる感応を胸に抱えたまま、瞬は一歩を踏み出した。

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