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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第6話「影の視線」

 畑の縁に立つと、空気の密度が一段階、違って感じられた。


 昨日見た“止まった畑”は、今日もやはり昨日のままだった。葉に乗った露は相変わらず落ちることなく光を抱き続け、土の上の足跡は崩れもせず、そこに存在することだけを頑なに主張している。風は吹いている。瞬の頬を撫で、髪を揺らし、服の裾を翻す。けれど畑の中だけは、世界から切り離された絵のように一片も動かなかった。


 境界を示す目に見える線はない。ただ、そこに足を踏み入れようとすると、皮膚の下で何かが本能的に警鐘を鳴らす。ここから先は“違う”と。


「――境界線の位置、昨日と変わってないですね」


 瞬は慎重に土の上に爪先を乗せ、すぐに引いた。その一歩だけで、足首から上に薄い痺れがのぼったような感覚があった。


「変化がないこと自体が、一つの情報です」


 すぐ横で、フィアが淡々と答える。彼女は畑の縁から半歩引いた位置に立ち、携行端末に記録を取っていた。薄灰色の瞳が、畑と境界と、瞬の足元を順番に測るように見つめている。


「固定された時間は、今のところ昨日の朝のまま。進行も後退もない。……安定している、と言えば聞こえはいいですが」


「十分、怖いです」


 瞬は苦笑を試みたが、喉の奥は重くて、うまく形にならなかった。ハルトの家族は、この畑と家のあいだのどこかで“今”から外れてしまった。時間の歯車が噛み合わなかったその先に、何が待っているのか、想像しようとするだけで胸の内側が冷たくなる。


「ここから、家までの間合いをもう一度確認しましょう」


 フィアが端末を閉じる。薄い音が、静かな空気の中でやけに大きく響いた。


「昨日の聞き取りでは、家族が畑へ向かったルートはほぼ一本。畑は昨日に固定。家は今日まで進行。……間の空間に、時層の歪みが潜んでいる可能性が高い」


「間、ですか」


「空間としては同じ場所でも、時間の階層が違えば“別の場所”になり得ます」


 フィアは足場を確かめるように、ゆっくりと歩き出した。瞬も一歩、後に続く。一歩ごとに、足元の感触がわずかに違っている気がする。柔らかい土、ほんの少し湿った草、踏んだはずの枝が、半拍遅れて折れる音。


 耳を澄ますと、遠くから風の音が聞こえてきた。だがその風の音は、頬を撫でる感触よりも、僅かに遅れて届いている。世界の音と、自分の体が感じているリズムが、一致しない。


(やっぱり、ここは――普通じゃない)


 胸の奥に小さな震えが走る。昨日からずっと続いている、不安と緊張の綱引き。自分は本当に、こんな場所で人を探すことができるのか。


「瞬」


「はい」


「呼吸が浅くなっています。深く吸って、数えて」


 フィアが後ろを見ずに言う。その声は冷静で、だからこそ頼もしかった。瞬は言われた通り、肺の奥まで空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。胸の痛みが、ほんの少しだけ和らいだ。


「すみません。まだ慣れてなくて」


「慣れてはいけない種類の危険もあります。怖さを感じなくなったら、それはそれで問題です」


 フィアの言葉は正論だった。彼女の背中はいつも通りまっすぐで、無駄な揺れがない。だが、その肩がいつもよりほんの少しだけ硬く見えるのは、瞬の気のせいだろうか。


 足元の土が、かすかに沈む。影が、伸びたり縮んだりする。瞬はふと、自分たちの影が二重に見えたような気がして、立ち止まった。


 影の縁が、地面から半歩ずれている。光はひとつなのに影がふたつ。そのうちの一つは、すぐに溶けるように消えた。


(……今の、なに)


 首の後ろを冷たい指でなぞられたような感覚。瞬は思わず振り返りそうになり、寸前で堪えた。


 誰かに、見られている。


 そんな言葉が、頭の中に浮かんでいた。


 家と畑のあいだを何度も行き来するうちに、景色はほとんど頭に入っていたはずだった。緩やかな丘の起伏。そこに沿って延びる小さな小川。背の低い林。どれも本来なら見慣れた田舎の風景で、恐れる要素はどこにもない。


 なのに今、同じ風景の中を歩いていても、空気の手触りが、昨日とは違っていた。


 光が、一瞬だけ弱まる。白んだように色が褪せる。その瞬間、木々の輪郭線が二重にぶれ、遠くの丘が薄い膜越しに見えているように感じる。次の瞬間には、何事もなかったように形が戻る。


 胸の奥がざわつく。視界の端に、淡い白い揺らぎがちらちらと浮かんでは消える。その揺らぎは、時層の境界線だとリュカが説明してくれたものによく似ていた。ただ、今日は――それがやけに“多い”。


「……さっきから、やけに揺らぎが出てますよね」


 自分の声が思ったよりも小さいことに、瞬は話してから気づいた。白い息が、温度よりも緊張で細くなっている。


「昨日より不安定です。畑の固定が外れる兆候、あるいは断層が拡大しているのかもしれない」


 フィアは足を止めずに答える。視線は常に周囲を巡り、時々、瞬の動きを確認するようにちらりとこちらへ向く。


「危険度は、上がってますか?」


「上がっています」


 即答だった。嘘を混ぜないその物言いは怖いが、同時に安心もする。危険を曖昧にされる方が、ずっと怖い。


「……でも、引き返さないと」


「引き返した先に安全が保証されているわけでもありません」


 フィアの言葉は静かだった。


「世界全体が不安定になりつつあるなら、どこにいても危険はつきまといます。少なくとも今は、ここでやれることをやるべきです」


 現実的で、未来戦場の匂いのする思考。瞬は唇を噛み、頷いた。


 踏んだ落ち葉が、遅れて音を立てる。枝の擦れる音が、妙に規則正しいリズムを刻む。鳥の鳴き声が一度途切れた後、今度は逆再生されたような奇妙な声が一瞬だけ耳に届いた。


 そのとき、不意に、背中を撫でるような視線の感覚が強まった。


(まただ)


 誰かが、自分の皮膚の表面ではなく、もっと内側――骨の近くを、視線という名の指でなぞっている。そんな不快な感覚。


「フィアさん」


 呼びかける声が震えないよう、意識して息を整える。


「……気のせい、じゃないですよね」


 フィアは足を止めた。


 周囲を見渡す視線が、一瞬だけ細くなる。肩の力が、わずかに変わった。瞬の前へ半歩、静かに出る。その動きは自然で、守るというより“位置取り”として合理的なだけのようにも見える。それでも、彼女が自分の前を塞いだ事実が、瞬には心強かった。


「何かいる。距離は――そう遠くない」


 フィアは低く言った。


「ただ、直接的な干渉はしてこない。今のところは、観察だけ」


「観察……」


 その言葉を口の中で転がした瞬間、背筋を走る寒気の正体が一段階、はっきりとした。誰かに見られている、という漠然とした不安が、「観察されている」という言葉に変わる。


 自分たちの動き、畑と家の距離、時層の揺らぎ……すべてを、どこか離れた場所から監視している“何か”の視線。


「敵、ですか?」


「敵かどうかを判断するには材料が足りません。ただ――」


 フィアは視線を遠くの丘へ滑らせた。


「善意で見ているとは、考えにくい」


 風が、一度だけ強く吹き抜けた。枝が揺れ、葉がざわめき、草が倒れる。瞬は思わず肩をすくめる。


「どうして、僕たちを……」


 最後まで言い切る前に、自分で言葉を飲み込んだ。どうして、僕を。そこまで口にしてしまえば、恐怖が形として完成してしまいそうで。


 深呼吸をひとつ。肺の奥まで冷たい空気を入れる。心臓の鼓動は早いが、まだ制御できる範囲だ。


「進みましょう」


 フィアが言った。彼女の声は、さっきまでと変わらない冷静さを保っていた。


「“見られている”と意識しすぎると、足元をすくわれます。必要な警戒だけ残して、やるべきことをやる」


「はい」


 瞬はその背中を見つめ、もう一度頷いた。


 だが、視界の端の白い揺らぎは、さっきよりも濃くなっている。胸のざわめきも、さっきよりはっきりしている。誰かが自分たちを眺めながら、どこかで舌打ちをしたり、笑ったりしている――そんな想像が、頭から離れなかった。


 丘の上に、それは立っていた。


 気づいた瞬間、時間が一拍、胸の中で止まったように感じた。


 家と畑の中間地点から少し外れた、小高い丘。その頂に、一本の枯れかけた木がある。その根元に、黒い影が細く立っていた。


 距離が離れすぎていて、顔は見えない。だが、そこに“人”がいることだけは、視界の端からでも分かった。風に揺れる長いコートの裾。帽子かフードのようなものに隠された頭。全体の輪郭が、周囲の景色よりもわずかに濃く、重たく見える。


 瞬の足が止まる。心臓が胸を内側から叩いた。


「あれ……」


 思わず声が漏れた。その瞬間、世界の音がすべて引いていった。


 風の音も、草の擦れる音も、遠くの鳥の声も、一拍のあいだ、全部が消えた。ただ、視界の中心にある黒い輪郭だけが、異様な鮮明さを持って浮かび上がる。


「動くな、瞬」


 フィアの声だけが、はっきりと届いた。彼女も影に気づいていた。瞬よりも早く。瞬よりも冷静に。


 フィアは瞬の前へ一歩出て、身を半分だけ傾けるようにして視線を丘へ定めた。右手は腰の武器の柄に触れている。いつでも抜刀できる位置。だが、まだ抜かない。


 丘の上の影は、こちらを見ていた。


 顔は見えない。それでも、視線が絡んでいると分かる。距離も障害物も関係なく、自分の瞳を通って、もっと中――骨の髄まで覗き込まれているような感覚。


 喉の奥が乾く。指先が冷たくなり、足の裏に自分の体重を感じにくくなる。


(誰……だ)


 瞬の心の中で、その問いが膨らむ。言葉にすることさえ憚られるような、“触れてはいけない”種類の存在の匂い。


 影は、ゆっくりと首を傾けたように見えた。ほんの僅かな動きで、それが笑ったのか、興味を持ったのか、あるいは何も感じていないのか――解釈はすべて見る側に委ねられていた。


 フィアの肩の筋肉が、目に見えて緊張する。


「距離、およそ四百。即座の接触はありえない。――にもかかわらず、この圧は」


 彼女の言葉は、瞬に向けたものというより、自分自身への確認に近かった。


「敵、でしょうか」


 絞り出すように問うと、フィアは短く首を振る。


「“敵”と呼ぶには情報が足りません。ただ、友好的とは思えない」


 丘の上の影が、ふいに動いた。


 風に乗るのではなく、風とは逆方向に、滑るように後退していく。足を一歩も動かしていないように見えるのに、輪郭の位置だけが後ろに下がる。周囲の景色が波打つようにゆらぎ、影の輪郭を飲み込もうとしている。


 時層の揺らぎ――。


 瞬は息を飲んだ。リュカが説明していた、“時間の層の間を移動する”という概念が、目の前で形を持っている。


 影は、最後にほんの少しだけ身体の向きを変えた。完全に背中を向けるのでもなく、こちらの存在を忘れるわけでもなく、“また会う”という約束を無言で残すような角度で。


 そして、薄い膜の向こうへ、音もなく消えた。


 風が戻ってきた。


 姿を消した影のいた丘を見つめている間だけ失われていた音が、護岸を越える水のように一気に押し寄せてくる。木々がざわめき、草が揺れ、鳥が鳴く。遠くで誰かが牛を呼ぶ声も聞こえた気がする。


 瞬は知らず知らずのうちに止めていた息を、やっと吐き出した。肺の中の空気が一度に抜け、膝から力が抜けそうになる。


「今の……見間違い、ではないですよね」


「見間違いなら、どれだけよかったか」


 フィアは目を細めたまま、丘の方向から視線を外さない。彼女の耳元で、風が彼女の髪を小さく揺らしている。


「足跡が残っているか、確認します」


 そう言って、フィアは慎重に数歩前へ出ようとした。瞬もその後を追う――が、フィアの手がすぐに横へ伸び、瞬の胸の前で遮る。


「ここから先は、私が先行します。あなたは半歩下がって」


「……はい」


 そう言われる前から、瞬もその必要性を感じていた。あの影が敵かどうかはまだ分からない。でも、もし敵なら、狙いはきっと――。


(僕だ)


 胸の奥で、その言葉がひっそりと形を結ぶ。理由は分からない。証拠もない。ただ、見つめられていた感覚の質が、そう告げていた。


 フィアは丘へ向かって歩き出す。一歩ごとに、足元の土の状態を確かめながら。時層の揺らぎが濃くなった場所では足を止め、ルートを微妙にずらす。彼女の動きは慎重で、それでも無駄はない。


 瞬はその背中を追いながら、意識的に呼吸を整え続けた。胸の鼓動はまだ早いが、恐怖だけではない何かが混ざり始めている。それは、知りたいという欲求。自分を見ていた存在が何者なのか、自分は何故狙われるのか――その答えを、怖いと思いながらも求めてしまっている。


 丘の麓まで来たところで、フィアは足を止めた。視線を足元の土へ落とし、軽くかがむ。


「……足跡、なし」


 その一言に、瞬はぞくりとした。


 土は柔らかい。誰かがそこに立っていれば、少なくとも靴底の跡が残るはずだ。風で消えるには新しすぎるし、この土地はそれほど乾いてもいない。[


「本当に、そこに“いた”んですよね……」


「いました」


 フィアは断言した。


「錯覚にしては圧が強すぎた。時層の揺らぎ方も、自然現象の範囲を超えていた」


 彼女は丘の上をもう一度見渡し、わずかに眉間に皺を寄せる。


「……おそらく、時層の“上”を歩くタイプの移動です。こちらと接地せず、別の層に足場を置いていた」


「そんなこと、できる人が……いるんですか」


「未来戦場には、そういう“異常者”もいました」


 フィアの声が一瞬だけ低くなる。思い出したくない何かを、無理やり分析の枠に押し込めているような声音。


「ただ――今の影は、私の知っている誰とも違う」


「じゃあ、なおさら」


 瞬は言いかけて、唇を噛んだ。なおさら、危険だ。なおさら、自分たちの知らないルールで動いている。


 足元で、枯れた枝がばき、と折れる。思ったよりも大きな音だった。瞬の心臓が跳ねる。フィアの視線が瞬時に周囲を走った。


 どこにも、誰もいない。


 それでも、見られているような感覚は、消えない。


「――少なくともひとつだけ、言えることがあります」


 フィアが言った。


「今の影は、あの畑を見ていたわけではない。ハルトさんの家を見ていたわけでもない」


 瞬は気づく。影の視線がどこに向いていたのか。心臓がさらに強く打つ。


「私とあなた。……特に、あなたの方に」


 フィアの視線が、真正面から瞬を捉えた。その瞳には、ただの監視対象を見る冷たさだけではなく、守るべきものを測る重さがあった。


「やっぱり……僕、なんですか」


「断定はできません。ですが、あなたを一つの“要素”として見ているのは確かです」


 フィアは言葉を選びながら話しているようだった。


「あなたの体質、時層共鳴の素質。その存在を知っているか、あるいは匂いで嗅ぎ取ったか」


「匂い、ですか」


「時霊種のカスミが言っていました。『ちょっとはぐれてる匂い』、と」


 フィアの口元が、ほんの一瞬だけわずかに動いた。笑みとも溜息ともつかない、微妙な表情。それはすぐに消えた。


「カスミのような存在にとって、あなたは“同類”寄り。今の影のような存在にとっては、“標的”寄りかもしれません」


 標的、という言葉に、瞬の背中が凍る。


 自分は何者でもない、ただの雑用係のはずだった。時層ギルドに拾われた、どこにでもいる若者のひとり。その認識が、ここ数日で少しずつ崩れている。能力だの素質だのと言われるたびに、自分の輪郭が、自分の知らない誰かの手で描き直されていくような感覚。


 そこに、今度は“影の視線”が加わった。


「怖いですか」


 フィアが、不意に問う。瞬は驚いて顔を上げた。


 彼女は相変わらず感情をあまり表に出さない表情をしていたが、その瞳の奥には、小さな揺れがあった。


「……怖いですよ。めちゃくちゃ」


 瞬は笑おうとして、うまくいかなかった笑顔のまま言った。


「でも、それ以上に――分からないのが、嫌です」


「分からないものを怖がるのは、正しい反応です」


「だから、知りたいです。あいつが誰で、何を見ていて、何をしようとしてるのか。僕を見て、何を考えたのか」


 口に出した途端、胸の中で固まっていた何かが、少しだけ形を変えた。恐怖の中に、確かに別の感情が混ざっている。好奇心。怒り。悔しさ。すべてひっくるめた、“知ろうとする”強さ。


 フィアは一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく頷いた。


「……その感情は、時に命取りになります。ですが、時に世界を変える武器にもなる」


 彼女は静かに言う。


「少なくとも今は、その両方をちゃんと自覚しておいてください」


 瞬はその言葉の意味をすぐには掴み切れなかった。それでも、頷いた。


 丘から戻るころには、太陽はかなり傾いていた。光は柔らかな橙から、少しずつ赤みを増し始めている。畑の露は相変わらず朝の光のままきらめき、家の窓には夕方の色が映り込んでいた。


 昨日と今日が、同じ風景の中でずれたまま共存している。その中を、自分たちは“今”として歩いている。


「調査、続けましょう」


 フィアが言った声には、先ほどの緊張を引きずりながらも、任務としての冷静な決意が宿っていた。


「影が現れたことで状況は変わりましたが、目的は変わっていません。ハルトさんの家族の痕跡を追うこと。……影については、その過程で分かることもあるでしょう」


「はい」


 瞬は拳を握り直した。指先に血が戻ってくる感覚がある。怖い。だが、その怖さを抱えたまま進むしかない。


 夕陽は長い影を地面に落とす。自分とフィアの影が並んで伸び、時々重なり、また離れていく。その伸びた影のさらに向こうに、さっきの黒いシルエットがまだ立っているような気がして、瞬は無意識に振り返りかけた。


「振り向かないでください」


 フィアの声が、すぐそばで静かに制した。


「今、あなたが後ろを見るのは悪手です。意識がそちらに持っていかれると、足元をすくわれます」


 瞬は咄嗟に動きを止める。自分の首筋に残っていた“視線の感触”が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。


「……はい」


 前を見る。止まった畑。まだ温もりの残る家。これから調べに向かう小さな道。そこに、自分が“今ここにいる”という事実を重ねる。


 背中に残る影の視線は消えない。むしろ、これから先ずっと付きまとってくる予感がある。今日の調査が終わっても、ギルドに戻っても、別の時層帯に向かっても――あの影は、どこかで自分たちを見ているだろう。


(それでも)


 瞬は胸の中で小さく呟いた。


(それでも、前を見る)


 足を踏み出す。隣でフィアも歩き始める。その歩幅は変わらず一定で、しかし、さっきよりもわずかに瞬の側に寄っているように感じた。


 風が、一定のリズムで丘を撫でていく。その風の中に、遠くから聞こえる低い音が混ざっていた。聞き取れるほどはっきりしていないが、どこかで“誰か”が笑ったような、そんな気配。


 見られている感覚は、消えないままだった。


 それでも、瞬は前だけを見て歩いた。自分の足で立つ今を、止まった畑と、進んでしまった家のあいだに引かれた細い綱の上を、一歩ずつ進んでいくように。


 影の視線を背負ったまま。

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