第56話「揺れる立ち位置」
郷の朝は静かだったが、空気にはいつもと違うざわつきが混じっていた。木々の葉擦れの音が妙に鋭く響き、遠くから漏れる話し声には落ち着きがない。瞬は広場へ足を向けながら、そのざわめきの中心に心当たりを感じていた。
広場にはすでに多くの時霊種が集まり、視線の先にはカスミが立っていた。彼女は肩をすくめるでも逃げるでもなく、ただまっすぐに皆の視線を受け止めている。その姿に、瞬の胸の奥で小さく痛むような緊張が走った。
「……なんで、そんなことを言うんだよ」
若者のひとりが声を荒げる。言葉の奥にあるのは怒りだけでなく、裏返った困惑だった。
「人間と……一緒にいたい? 冗談だろ。どこの時間出身かも曖昧な奴らだぞ。俺たちとは違う」
周囲でも似た声が次々に上がった。否定よりも、理解できないことへの戸惑いが混ざったざらついた音。カスミはその全てを受け止めるように目を閉じたが、揺らぎは微かに肩へ滲んでいる。
瞬は一歩踏み出すべきか迷った。感情の波が立っている中で言葉を挟めば、かえって彼女を追い詰めかねない。けれど、このままでは彼女の心が不用意な声に掻き乱されてしまうようで、胸がざわつく。
カスミは目を開き、ゆっくりと言葉を置いた。
「……わたしは、人間と過ごして、たくさんのことを知った。痛いことも、嬉しいことも。全部、わたしにとって大事だった」
声は震えていない。それでも、その奥で揺れているものは隠しようがなかった。若者たちが一瞬言葉を失い、空気の重さが形を変える。
「大事だって? それで郷を捨てるっていうのか?」
刺すような声が飛び、広場の緊張が急に尖った。瞬の胸がひやりと冷える。
カスミは首を振った。
「捨てない。どっちもわたしの場所。わたしが選んだなら……両方で生きたい」
その一言に、若者たちの表情が一斉に揺れた。理解できないものを前にしたときの、足元が崩れるような不安。その不安が怒りに変わっていく気配を、瞬は肌で感じた。
誰かが小さく舌打ちし、それが合図のように空気が鋭く張りつめた。広場に集まった者たちの視線が、次第に攻撃の形を帯びていく。瞬は咄嗟に彼女のそばへ駆け寄ろうとし、足を踏み出した。
だが、瞬が踏み出したよりも早く、重い足音が広場の中心に落ちた。人々の視線が揃って向いた先には、シグの姿があった。彼はゆっくりと群衆を見渡し、その沈黙だけで空気を押し返すような威圧を纏っていた。
「落ち着け」
低い声が広場に染み渡る。その一言で若者たちの肩がわずかに沈み、張りつめた気配が一度だけ緩む。
しかし完全に消えたわけではない。怒りの熱はまだ残っていて、カスミに向けられた視線の角は鋭いままだった。瞬はその空気の隙間に立ち、彼女が押し潰されないようにと呼吸を整えた。
シグはゆっくりとカスミへ視線を向けた。
「……お前の選択だ。郷は縛らぬ。だが、どの道を歩むにせよ、その責は自分で負え」
その言葉は叱責ではなく、重みをまとった許しに近かった。カスミの目がかすかに揺れ、広場の空気が再びざわめいた。若者たちは反論したい気配を残しつつも、シグの一言に踏みとどまるしかなかった。
沈黙のあと、彼は背を向けた。
「今日はここまでだ。散れ」
その声音には決着ではなく、むしろ“先送り”の響きがあった。若者たちは不満げに視線を交わしながらも、しぶしぶ広場を離れていく。地面に残る足跡が、感情の残滓のように散らばっていた。
人の気配が薄れた広場で、カスミは小さく息を吐いた。胸の奥の震えを押し込めるように手を握りしめ、その指先にわずかな力が宿る。
(――揺れてばかりじゃ、だめだよね)
自分に言い聞かせるようなその表情に、決意の色が静かに差していく。誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼女は呟いた。
「わたしは……瞬と一緒にいたい。ちゃんと、自分の足で」
その言葉は風に溶けていくように消え、彼女の背に落ちる影だけが長く伸びた。
カスミはひとりで歩き出した。揺れる気持ちを抱えたまま、それでも進む道を確かめるように、静かな足取りで。




