第42話「祈祷の歪み」
石造りの広場は、朝とも夕ともつかぬ鈍い光に包まれていた。雲に覆われた空は薄灰色で、湿った冷気が地面から立ちのぼるように漂っている。普段なら王都の中心として憩いの場になっている広場は、今日は人の熱気ではなく、異様なざわめきだけを孕んでいた。
その中心には、場違いに巨大な影がそびえている。
時層柱――大地と時間を貫く、世界の節のような構造物。王都に現存するものは特に古いもので、本来は触れることすら禁じられている“高位の遺構”だ。だが今日は、その根元に白布が巻かれ、即席の祭壇のように飾り付けられていた。
白布は弱々しい風を受けて揺れ、その度に鈍く光る柱の表面をかすめている。そこに刻まれた紋様は、本来ならば静かに時間の流れを示すだけのものだ。だが今は、まるで脈打つように、淡い光を滲ませていた。
広場の周囲では、信者たちがひそやかな声で祈りの文句を繰り返している。声量は小さい。だが人数が多いため、低いざわめきが地鳴りのように響く。
その前に立つ男――ベルナ・セヴィルが、緋色の祈祷服をまとって両腕を広げていた。目は陶酔の光を宿し、呼吸は浅く速い。頬には、涎にも似た薄い光の膜が浮かんでいる。
「本日は……神意が降りる刻である」
掠れた声が広場に落ちた瞬間、祈りのざわめきが揃って止まった。
気配が一段、冷える。
それを遠巻きに見つめていたグレンは、無意識に拳を握っていた。王国騎士団の甲冑は、普段なら威圧的な存在感を放つはずだが、この場ではただの鎧にすぎなかった。広場全体を占める異質な空気の前では、武装も威厳も意味を持たない。
「やめろ……何を企んでいる」
グレンの低い声が、喉の奥で小さく震えた。怒りだけではない。
恐怖、そして嫌な予感が拭えないのだ。
ベルナはその声を聞きながら、ゆっくりと微笑んだ。穏やかで、しかし常軌を逸した――底の見えない笑みだった。
「企み? 騎士殿。これは神の御心に従うだけですよ」
そう言いながら、ベルナは祭壇に並べられた祈具に手を伸ばし、一つひとつ丁寧に位置を整えていく。まるで外科医が手術道具をならべるときのような正確さで。
グレンは腕を組み、胸の奥のざらつきを隠そうともせずベルナを観察し続けた。
時層柱の根元、白布がひらひらと揺れ、まるで柱そのものが息をしているようだった。
ここで何かが起きる。
その確信が、広場に満ちた。
ベルナが祭壇の前に立ち、両手をゆっくりと掲げた。信者たちは自然とひざまずき、聖歌のような祈りを口にし始める。
祈りのリズムが整った瞬間、時層柱の紋様に淡い光が走った。まるで呼吸を合わせるように、信者たちの声と柱の光が波紋のように循環していく。
「この柱は……神意が降りる“入口”なのです」
ベルナの声は砂を噛むようにざらついているのに、不思議なくらい響いた。
信者たちは熱狂に近い表情で顔を上げる。目は輝き、手は祈りの形のまま震えていた。
「柱はそんなものじゃない!」
グレンが声を張ると、周囲の兵が緊張して身構える。
だがベルナはまるで気にも留めず、ゆっくりと柱に向けて手をかざした。
「時層柱は、神がこの世界に残した唯一の“しるし”。これに触れ、祈りを捧げることで、私たちは秩序を……時を正すことができるのです」
祈りの声は大きくなり、空気が熱を帯びた。
しかし、同時に――冷えた。
(違う……)
グレンは直感した。
これは儀式などではない。 “何かを起こす”ための危険な準備だ。
柱の光は、ベルナの言葉と同期するように強まり始めていた。
それは神意ではなく、時素の揺らぎ――不穏なものだ。
ベルナは恍惚とした息を漏らしながら、両手を柱へ伸ばした。
「見よ……時を束ねる神意を!」
その瞬間、柱の内部から脈動のような光が走った。
地面がかすかに震え、足元の石畳が細かく軋む音を立てる。
「やめろベルナッ! 柱を操作する気か!」
グレンが叫び、一歩踏み出した。
その声には怒りだけでなく、明らかな恐怖が混じっていた。
柱は触れてはならない。扱いを誤れば――壊れる。
ベルナは肩越しに振り返り、ゆっくりと口角を上げた。
「危険こそ、神意の証明……そう思いませんか?」
そして、柱の表面に掌をそっと触れた。
その瞬間、視界がわずかに歪んだ。
世界が呼吸を忘れたように、音がすうっと薄れる。
人々の祈りの声も、風の音も、遠くの鐘の響きも――すべてが遠のく。
柱の中心で光が膨らんだ。
空気が波打った。
石畳がひしゃげたように見え、次の瞬間には元の形に戻る。
目の錯覚ではない。
時間そのものがブレている。
「……崩れる……!」
グレンの声は怒号のようだった。
周囲では信者たちが悲鳴を上げ、後退しようとする。しかし足が竦んで動けない者もいる。
時層柱の周囲に“残像”が現れた。
ベルナの袖が遅れて動く。
風が逆方向に流れる。
石畳の影が、一瞬だけ二重になる。
時層――その層が剥がれかけている。
「ああ……神よ。この奇跡を!」
ベルナは膝を折りそうなほど陶酔し、柱にしがみつきながら叫んだ。
「違う! これは奇跡じゃない、災厄だ! 信者を下がらせろ!」
グレンが必死に呼ばわるが、信者は混乱に包まれ、動けない。
柱の光はさらに膨らみ、広場の空気が震えていた。
何かが壊れようとしている。
その音が、風の奥からじわじわと迫ってきていた。
次の瞬間、柱の光が――破裂しそうに膨れ上がった。
広場全体が息を呑む。
音が消えた。
本当に、完全に。
騒ぎ声も、祈りも、風切り音さえも、世界から消滅したようだった。
ただ、光だけが膨張し、揺れ、泣き叫ぶように震えている。
ベルナは狂気の笑みを浮かべていた。
「……これが、神の裁き……」
その囁きは無音の空気を震わせ、じわりと広がっていく。
対照的に、グレンの胸には怒りと恐怖が渦を巻いた。
(止める……今、止めなければ)
剣の柄に手をかけた瞬間、金属の冷たさが掌を刺す。
それが、グレンの決意を確かなものにした。
「これ以上は――させん!」
叫びと同時に、グレンが踏み出した――
暴走寸前の柱の光へ向かって。
歪む空間が、まるで彼を飲み込もうとするかのように揺れた。




