第41話「断罪の予兆」
王都の石畳は、昼の光を浴びているはずなのに、不思議と冷たかった。
路地を吹き抜ける風は弱く、ほとんど止まっているに近い。にもかかわらず、瞬の頬をかすめる空気には、冬の夜明け前のようなひやりとした緊張が混じっていた。
通りを行き交う人々の足取りも、どこか落ち着かない。明らかに急いでいるわけではないのに、視線だけが周囲を警戒して揺れ続けている。遠くの鐘の音が、普段よりくぐもって聞こえた。それはまるで、王都という巨大な器全体が、何かの起動を前に呼吸を抑えているような音だった。
「……胸がざわつく」
瞬はそう呟き、周囲を見渡した。石畳の継ぎ目、建物の影、人々の表情――すべてに、わずかな歪みが貼りついているように思えた。
ただの緊張ではない。もっと深い、時間そのものの底が波立つ感覚。
隣で歩いていたフィアが、剣の柄にそっと触れた。彼女の指先が冷えているのが、空気を通して伝わってくる。
「この空気……戦場に向かう前と似てる。誰も何も言ってないのに、“何かが起きる”って全員が分かってるときの感じ」
彼女の目は狭まれている。声は静かだが、その奥には警戒の熱が灯っていた。
一歩後ろで足取り軽くついてきていたカスミが、ぴたりと動きを止めた。白い耳がぴくりと震え、彼女はそっと空を見上げる。
「……泣いてる。時間がね、ひどく泣いてるよ」
「時間が……?」
「ずっと、痛がってる音がするの。たぶん、もうすぐ割れる」
カスミが感じる“時層の揺れ”は、瞬よりももっと敏感で直感的だ。その彼女がこれほど警戒を強めている――それだけで、瞬の心臓がきゅっと縮む。
王都全体が、何かの影を待っている。
その影は、まだ姿を見せていないのに、確実に近づいてきていた。
裏路地に入ると、石壁に反響する低い噂声が、瞬たちの耳に届いた。薄暗い場所に染み込んだ湿気が、吐息に混ざって重くまとわりつく。
「――聞いたか? “あいつら”が動くらしいぞ」
「時間を乱したんだと。裁きの準備が進んでるって……」
言い終える前に声が消え、足音が急ぎ足で遠ざかっていく。
残された静寂の中に、紙の擦れるかすかな音が残った。
フィアが壁際の張り紙を指で示す。そこには、赤い印が押された簡易告知が貼られていた。
『時を冒涜した罪人に、神の裁きの刻は近い』
瞬は息を飲んだ。
同時に、紙を掴んだ指先が、自分の意志とは関係なく震えだしていた。
「これ、まさか……」
「本気だよ」
フィアは淡々としているが、その声色にはかすかな怒りが混じっていた。
「ベルナ・セヴィル。時神教会の中でも“裁き”を推進してる狂信者の一人。名前までは書かれてないけど、この手の文言……ほぼあいつの仕業だ」
カスミが毛を逆立てるように肩をすくめた。
「やだ……あの人の祈り、きらい。重くて、冷たくて、血の匂いがする」
「公開処刑……?」
瞬の喉が乾く。
未来列車で見た“時間の乱れ”。
あれを、自分たちは止めたはずだった。
だがその影響を理由に、誰かが“裁かれる”というのなら――。
「許せない……」
胸の奥が熱くなる。
怒りと恐怖が同時に湧き上がり、拳に力が入る。
「瞬、深呼吸」
フィアが短く言い、瞬の肩に手を置く。
その手は冷たいはずなのに、触れられた瞬間、心が少しだけ落ち着いた。
「感情だけで動くと判断を誤る。今は……状況を整理しよう」
瞬はゆっくり頷いた。
だが、怒りの熱が消えたわけではない。
それは胸の奥で渦巻き、いつでも噴き上がりそうに波打っていた。
人目の少ない広場に移動した三人は、腰を下ろす間もなく向き合った。背後で王都の雑踏が揺れ、風に混じって祈りの声が遠く響く。
「ベルナが動いてるなら、“裁く相手”はすでに確保されているはずだ」
フィアは地面に簡単な図を描き、処刑が行われそうな場所をいくつか示した。
「公開処刑の形式なら、人が集まりやすく、警備をしやすい場所が選ばれる。教会前の大広場、あるいは祈祷塔の下……この辺りだ」
瞬は唇をかみしめながら図を覗き込む。
「止めなきゃ……絶対に」
「止める。でも、焦りは禁物」
フィアは瞬を真っ直ぐ見つめた。
「今回のは、単なる暴走じゃない。“儀式”だ。彼らは形式を重視する。どんな理由であれ止めに入れば、こちらを“異端”扱いしてくる可能性が高い」
その言葉に瞬の胸がざわついた。
(異端……俺が? 俺たちが?)
未来列車事件の記憶がまだ鮮明だ。
あの揺らぎを感じているかぎり、自分はこの世界の“正しい時間”から外れた存在なのかもしれない。
「でも……救えるなら、誰かが行かないと」
「ええ。だから行くんだよ」
フィアは短く言い、瞬の肩に力を込める。
「あなたが前に出るなら、私はその後ろでちゃんと支える。後ろは任せなさい」
その力強い言葉に、瞬は息を震わせた。
カスミが心配そうに瞬の顔を覗き込み、そっと袖を引く。
「ねえ……未来がすごく、痛がってる。たぶん、ひとつの選択で何かが変わるよ。……悪い風に」
その言葉が、決意の背を押すのか、警告として胸を締めつけるのか――瞬には区別がつかなかった。
教会区へ向かう道は、妙に冷えていた。
空気が刺すように鋭く、まるで鼻腔の奥を細い針でつつかれているようだ。
風に乗って、祈りの声が聞こえてくる。
「刻は正されよ……律は戻されよ……」
一言一言が、胸の奥を冷やしていく。
「急ごう。でも慎重に」
フィアが低い声で告げる。
瞬は頷きながらも、心拍が早くなっていくのを抑えられなかった。足元が少し滑ったように感じ、思わず足を速める。
「この感じ……時間が歪んでる」
カスミが耳を押さえ、小さく呻いた。
その表情は、痛みを堪えているように険しい。
「大丈夫か?」
「うん……でも、すぐそこだよ。揺れの中心が」
揺れ。中心。
その言葉が、瞬の背筋に冷たい線を走らせた。
三人の足音が石畳に響き、王都の空気はさらに重さを増していく。
遠くで、群衆のざわめきが膨らんでいくのが聞こえた。
処刑が――始まろうとしている。
教会前の広場に近づいた瞬間、空気が変わった。
人だかりの圧、祈祷服の赤い布、掲げられた旗。
それら全てが、重い影のように視界を覆う。
瞬は深呼吸をひとつした。
胸の奥が重い。それでも、迷いはなかった。
「行こう」
短く言うと、フィアが頷き、カスミも真剣な表情で後に続く。
「絶対に……止めようね」
「ええ」
三人は、揺らぐ空気の中心へと足を踏み出した。
その先に待つのは、狂信か、裁きか、救いか。
まだ何も分からない。
ただひとつ確かなのは――
あの広場には、決して放っておけない“断罪の影”が立ち上がりつつあるということだった。




