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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第38話「風を裂く影」

 王都へ向かう街道は、午後の陽を受けて淡く霞んでいた。背後に置いてきたギルドの温もりとは異なり、この道にはどこか乾いた緊張が漂っている。石畳がまばらに途切れ、場所によっては土道へと移り変わっていく。その継ぎ目で、靴底に伝わる感触が微妙に変わるのを、瞬はひとつひとつ確かめるように歩いていた。風の流れも、不自然に揺らいでいた。さっきまで南から吹いていたはずの風が、ふいに横合いから吹き抜ける。木々の枝葉が逆向きにしなり、地面の埃が、まるで吸い寄せられるように一瞬ふわりと宙に浮かぶ。


 胸の奥で、鈍い鼓動がひとつ大きく跳ねた。肌を撫でる空気の密度がわずかに変わり、その変化が、時間の層が薄く歪むときに似ている。未来列車でのざわつきとは、また違う気配だったが――「何か」が近づいていると直感するには十分だった。


(……誰かがいる)


 そう思った途端、周囲の音がやたらと鮮明に聞こえ始める。自分の靴音、風に揺れる草の擦れる音、遠くで馬車の車輪が軋むような残響。そして――ほんの一瞬だけ、金属同士が触れたような細い響きが、風に紛れて流れてきた。それは、耳で聞いたというより、皮膚の表面をかすめたような感覚だった。


 瞬は足を止め、自然に腰の装具に手をかけていた。剣を抜く覚悟はない。だが、何かが視界の端をかすめた今、ただ歩いているだけでは逆に危険だと、身体の方が先に判断していた。


 木々の影が、風に揺れて形を変える。だが、その揺れのひとつだけが、風の流れとわずかに違った。影が時間差で伸び、ほんの一拍遅れて収縮する。その不可解な遅れに、瞬は息を呑んだ。何かが確実に近づいている――そう告げるには十分すぎる兆しだった。


 そのとき、前方の道に、ふいに細い影が落ちた。太陽を遮ったわけでもない。空気が、音もなく「切られた」ように感じたのだ。ほんの一瞬、風の流れが真っ白に途切れたように見えた。


(……誰だ)


 喉の奥に冷たい緊張が張り付く。足元の土が、ひどく硬く感じられた。


 気配の正体は、程なくして姿を現した。やや遠くの街道の先で、陽光を切り裂くようにして、ひとつの細い影が現れたのだ。人影が歩み寄ってくる――ただそれだけの光景のはずなのに、その存在は異様なほど輪郭がはっきりしていた。


 黒髪が長く束ねられ、その一部が風に揺らめくたび、光を薄く反射して銀色にさえ見える。東方の織物特有の、軽やかな布の揺れ。腰に差した剣は鞘に収まり、歩調はゆったりとしている。しかし、その足取りは地面に沈むような重さを持たず、影だけが軽やかに前を走るように見えた。


「そこの君」


 柔らかい声が、風に流れて届いた。


「足音が、ちょっと固いね」


 その言葉は、警告でも挑発でもない。ただの観察のように聞こえた。だが、瞬の心臓はまたひとつ跳ねた。自分の足音が、そんなに響いていたのか。いや――それを聞き分けるほど、この人物が敏感だということの方が恐ろしい。


 近づいてきたその人物――ユン・シャオランは、飄々とした笑みを浮かべている。敵意を感じさせない柔らかさの中に、どこか相手を見透かすような鋭さが潜んでいた。


「驚かせちゃったかな」


 ユンは軽く手を挙げた。その動きは無駄がなく、だが不思議な余裕に満ちていた。旅人の軽さとも違う。戦士の冷たさとも違う。どこか、森の中を自由に走り抜ける獣のような、生まれつき身についた自然さだった。


「い、いえ……その……」


 瞬は反応が遅れ、思わず一歩後ずさる。自分の胸が小さく波打ち、肩のあたりが強ばる。ユンの視線がどこに向けられているのかさえ分からない。目が合った瞬間に、ふっと逸らされる。その揺れが、逆に気持ちを掻き立てる。


 ユンの装束には、見たことのない刺繍が施されていた。東方時層帯のものらしい。風を受けて布の端がゆらりと揺れるたび、そこに刻まれた模様が微かに光を反射する。その光の揺らぎが、瞬にはまるで時層の滲みに似て感じられた。


「この辺り、風が乱れてるでしょ」


 ユンが空気を指先で感じ取るように動かす。すると、まるでその合図に応えるかのように、風向きが突然変わった。草がざわりと揺れ、影がほんのわずか引き延びる。


「王都に近いからさ。こういう揺れ、多いんだよね」


 落ち着いた声。その響きに、瞬は不意に背筋を伸ばしていた。


「あなたは……どなたですか」


 ようやく絞り出せた声は、頼りないほど小さかった。


 ユンは少しだけ首を傾け、目を細めた。その目は、笑っているようにも、何かを量っているようにも見える。


「ただの旅の者さ。ユン・シャオラン。そう呼ばれてる」


 名乗りは短く、どこか断片的だった。それは、名前以上のものを隠している者が時折見せる、慎重さにも似ていた。


 瞬は喉が乾くのを感じ、呼吸を整えようとゆっくり息を吸った。だが、その息の途中で、空気の流れがまた変わった。


 次の瞬間、世界が一瞬だけ揺れた。


 揺れ――と言っても、地震のような物理的なものではない。視界の端がわずかに二重に重なり、瞬の影がほんの一拍だけ遅れて地面に流れた。それは、ループの兆しにも似ている。だが、もっと短く、一瞬きりで過ぎ去る。


「っ……!」


 瞬は思わず足を踏ん張った。膝が、揺れの強さに負けそうになった。身体の奥で、時素のざわめきが微かに響き、皮膚の内側から震えるような感覚が走る。


 だが――ユンは違った。


 彼女は、まるでその揺れを予期していたかのように、ほんの少しだけ体の向きを変えただけだった。風に揺れる布が、時間差でふわりと遅れて揺れた。それがまた、揺れの中で自然に見えるほど滑らかな動きだった。


「ほら、今の」


 ユンが軽く顎で指す。


「分かった?」


「え、今……何が……?」


 瞬は戸惑いながら言葉を繋ぐ。自分の感覚が過敏になっているだけだろうか。風の影響か、疲れのせいか。いや――確かに揺れはあった。だが、その揺れに対してユンが取った姿勢は、単なる反射速度では説明できない。


 彼女の髪が、二重に揺れた。根元は揺れていないのに、毛先だけがわずかに遅れてはためいた。それは、時間の層が薄く重なったときに起きる現象だった。


「時層が薄い場所ってさ、身体が勝手に反応するんだよ」


 ユンは淡々とした声で言う。


「慣れてないと気持ち悪いだろうけど」


 瞬は唇を噛んだ。自分には、その揺れを感知することはできても、その揺れに身を合わせることはできなかった。ユンの動きには、無理も迷いもない。それが余計に、自分との差を痛感させた。


 影が、また揺れた。ユンの影は揺れずにそのまま、瞬の影だけがわずかに伸びる。それがすぐに戻る。


(……すごい)


 言葉にはならない思いが、胸を締めつけた。


「ちょっとだけ、見せてあげようか」


 ユンがふいに言った。その声音は軽いが、どこか試すような響きがあった。


「え?」


「剣の話だよ。ほら」


 そう言って、ユンは腰の剣に手をかけた。ただそれだけで、空気がひやりと冷たくなる。風が止まり、街道の草の揺れが一瞬中断したように静止する。


 鞘がゆっくりと傾き、金属がわずかに擦れる音が鳴る。


 半分だけ抜かれた刀身が、陽を受けて薄く光を放った。


 次の瞬間――風が、裂けた。


 耳で聞こえるのではない。体の表面で感じる。風が左右に分かれ、前方へと押し出される。草が、時間差でぱたりと倒れた。それは、刃が通った「あと」が、少し遅れて現れたような感覚だった。


 瞬の胸が震えた。喉から小さく息が漏れる。


「剣ってのはね」


 ユンの声は静かなままだ。


「ただ斬るためじゃない。時間を裂くためにあるんだよ」


 その言葉は、比喩とも本気とも取れる。だが、瞬の目には、今の斬撃が“本当に風と時間の境界を裂いた”ようにしか見えなかった。


「す、すごい……」


 それしか言えなかった。喉が乾き、心臓が痛いほど脈打つ。


 ユンは刀を静かに鞘へ戻した。抜いたときと同じく、音もなく滑らかだった。


「そんな顔するほどのことじゃないよ。慣れれば誰でもできる」


「……僕には、とても」


「今はね」


 ユンは柔らかく笑った。


「でも、君は“見えてる”んだろう? 揺れとか、影とか」


 その指摘に、瞬は小さく息を呑む。ユンの目が、自分の内側を覗き込むように向けられる。


「見えてるなら、その先にも行けるよ」


 夕陽が街道を赤く染め始めた頃、ユンは軽く手を振った。


「そろそろ行くよ。王都はあっち」


 踵を返す。その背中は軽く、影は長い。歩きながら、ほんのわずかに時間の波紋が彼女の輪郭を揺らす。風が抜けるたび、衣の端が一瞬遅れて追いかける。


 振り返る気配は、一度もない。


「……あ、あの!」


 思わず声を上げた瞬に、ユンは足を止めずに答えた。


「なに?」


「また……会えますか」


 その問いに、ユンは少しだけ肩を揺らした。それが笑いなのかどうか、瞬には判断がつかなかった。


「王都で、また会うかもね」


 夕陽の向こうから、風が吹く。


「時は巡るものだから」


 その言葉だけを残し、ユンは街道の先へと消えていった。影の端が細く伸び、地面に溶けるように遠ざかる。


 瞬はただ、その背を見送るしかなかった。胸の奥で、さっきまで揺れていた不安とは別の感情が、静かに膨らんでいく。強くなりたい――そんな言葉が、ゆっくりと形になり始めていた。


 王都は、もうすぐだ。

 風の先に、何が待っているのか分からない。それでも、歩みを止める理由はなかった。

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