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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第37話「祈りの影」

 朝のギルドには、まだ昨夜の冷えが少しだけ残っていた。


 高い窓から差し込む陽は淡く、埃を含んだ空気の中で細い筋となって漂っている。事務室の隅では小さなストーブが静かに唸り、紙の焼けるような匂いと、淹れたばかりのコーヒーの香りが混じり合っていた。


 瞬は、柄の長いモップを床に滑らせながら、ゆっくりと往復していた。ほどよく身体を動かす単純作業は、本来なら頭を空っぽにしてくれるはずだ。それでも、脳裏にはまだ未来列車のきな臭い記憶が時折ぶり返してくる。


(……戻ってきたはずなのにな)


 無事に仕事を終え、ギルドに帰還した。ガイルにも、メリルにも、他の仲間たちにも顔を見せた。いつもの事務室、いつもの書類の山、いつもの軽口。日常は確かにそこにあるのに、胸の奥に沈んだざらつきは消えないままだ。


 そのときだった。


 廊下の向こうから、バタバタと小走りの足音が近づいてきた。次の瞬間、事務室の扉が勢いよく開く。冷たい空気が一瞬、室内を撫でて通り抜けた。


「ガイル、ちょっといい!?」


 大きな封筒を握りしめたメリルが、息を弾ませたまま飛び込んでくる。栗色の髪が揺れ、額にはうっすら汗がにじんでいる。普段なら、それだけで「また面白いネタでも拾ってきたな」と笑えるところだが――その顔色は、いつもの浮ついたものとは明らかに違っていた。


 瞬はモップを動かす手を止め、思わず振り返る。


「どうした」


 事務机の向こうから、低い声が飛ぶ。山と積まれた報告書の陰から顔を出したガイルは、分厚い腕を組み、鋭い目でメリルを見た。その視線には、長年現場で培われた“嫌な予感”への即座の反応が滲んでいる。


「王国方面からの便り。……っていうか、噂って言った方がいいのかもしれないけどさ」


 メリルは封筒を胸の前でぎゅっと握りしめたまま、言葉を選ぶように口ごもる。


「王国で、教会が誰かを裁くらしいって」


 その一言で、室内の空気が変わった。


 ストーブの音も、時計の針の音も、急に遠くなったように感じる。瞬の掌から、じわりと汗が滲み出る。柄の先を握る指先に、力が入りすぎているのが自分でも分かった。


「教会、って……時神教会の?」


 口が勝手に動いていた。問いを発した瞬間、自分の声が少しかすれていることに気づく。


「他に“教会”なんて呼ばれてるとこ、そうないだろ」


 ガイルが応じる声は低いが、その中に微かに固くなった色が混じる。


 時神教会――時間を神格化し、その流れを「神意」として崇める、王国最大の宗教勢力。時間干渉を「神への冒涜」として忌み嫌い、時政院とは別の意味で時間に関わる人間を監視している、やっかいな相手だ。


 未来列車事件で時間の異常に直面したばかりの瞬には、その名前だけで背筋に冷たいものが走った。


「“誰かを裁く”って、どういう意味で……?」


「それを今から説明するから落ち着きなさいっての」


 メリルは無理に冗談めかした口調を作ろうとしたが、その笑みはほんの少し引き攣っていた。封筒を握る手も、かすかに震えている。


 ガイルが椅子から立ち上がる。ごつい椅子がわずかに軋み、その音が、これから話される内容の重さを予告するように響いた。


「詳しい話を聞かせろ。……瞬、そのモップ片付けてこい。お前も聞いておくべきだ」


「分かりました」


 瞬は慌ててモップを壁際に立てかけ、手のひらを制服にこすりつける。乾いた布の感触と、汗の湿りがいやに生々しく指先に残った。


 そのまま、三人は事務机の周りに集まった。窓から差し込む朝日が少し傾き始め、机の上の書類に落ちる影が長くなる。その陰影が、これから語られる噂の不穏さを、何も知らないうちから強調しているように見えた。


「えっとね、噂って言っても、そんなに軽い話じゃないんだ」


 メリルは封筒を開き、中から折り畳まれた数枚の紙を取り出した。羊皮紙と薄い印刷紙が混ざっており、その端には王国の紋章が押された印がある。単なるゴシップではなさそうだ、と瞬にも分かった。


「王都近くの教会で、“時間を乱す者”に裁きを下す準備が進んでる、って」


 紙を机に広げながら、メリルの声が低くなる。


「“時間を乱す者”?」


 瞬は思わずオウム返しにした。未来列車事件の記憶が、瞬時に頭の中で繋がる。トンネル、ループ、外側の揺らぎ、ノワールの視線。もし教会があの場にいたら、自分はどう見られていただろう。


「教会の内部文書によるとさ……」


 メリルが一枚の紙を指先で突く。そこには、流れるような古い文字で何かが記されている。瞬にはその内容までは読めないが、ところどころに「時」「罪」「浄化」といった単語だけは判別できた。


「“時の流れを己の手で曲げ、神意に背く者は、祈りとともに裁かれるべし”――って。これ、最近よく出回ってる教義の補遺なんだって」


 “祈りとともに裁かれる”。


 その表現に、瞬は背筋がぞくりとした。祈りとは、本来救いを求める行為のはずだ。それが「裁き」と並べて語られるとき、それはもう救いではなく、ただの処罰の儀礼だ。


「怖くない? ただでさえ教会って保守的なのにさ。最近は時層絡みの事件が増えてるから、余計に“神罰”だの“浄化”だのって盛り上がってるみたいで」


 メリルは早口でまくし立てるが、その目には純粋な興味だけでなく、底冷えするような恐怖が見え隠れしていた。


「……噂の出所は?」


 ガイルが短く問う。その声は、情報の信憑性を測るための、慣れた調子だ。


「王国商隊絡みの連絡。あっちの支部から“念のため共有しておく”って。しかもこれ、ただの伝聞じゃなくて、教会の下位聖職者から漏れてきたって話。少なくとも、ただの酒場の噂話よりは、ずっと濃い」


「そうか」


 ガイルは顎に手をやり、低く唸る。


 事務室の窓から射す光が、彼の顔の半分を照らし、もう半分を影に沈めた。その陰影が、彼の表情の読みづらさを一層際立たせる。


「“時間を乱す者”が誰なのか、分かってるのか?」


「そこまでは。名前までは出てない。だけど、“王都近郊で最近起きた時間異常に関わった者”って書かれてるらしくてさ」


 メリルが紙をめくりながら眉をひそめる。


「王都近郊での時間異常……って言ったら、あれしかないよね?」


 その「あれ」が何を指すのか、言葉にされなくても瞬は理解していた。


 未来列車。


 時層トンネルの暴走。そして、その中で起きたループ。


 胸の奥が、冷たい手でぎゅっと掴まれたように軋む。自分の喉が、ごくりと音を立てて鳴るのが分かった。


「もしかしてさ」


 メリルが、瞬の横顔をそっと盗み見る。その視線に気づきながら、瞬は視線を机から上げられない。


「“時間を乱す者”って、時層ギルドも含まれる、のかなって」


「それは――」


 反射的に否定しようとして、言葉が喉で止まる。


 教会から見れば、時層ギルドは時間に手を突っ込む仕事をしている集団だ。どれだけ「安定化のため」「世界を守るため」と説明したところで、「神の領域に踏み込んでいる」という一点は変わらない。


 彼らの一部が、自分たちを「敵」とみなしても、おかしくはない。


「教会が過激化してるって話は、前から出てましたからね」


 メリルが自嘲気味に笑う。


「時政院とギルドが“時間を管理している”って思い込んで、じゃあ神の役目はどこにいったって。……で、最近は“神意に沿った時間に人間の側を合わせるべきだ”とか、かなりきな臭い主張も出てきてる」


 その言葉を聞けば聞くほど、胸の中に重いものが積み上がっていく気がした。


 自分は、ループの中で時間をいじったわけではない。むしろ、暴走した時間から人々を守ろうと必死だった。だが、教会の目から見れば、そんな事情は関係ないのかもしれない。


 “時間を乱す場に居合わせた”だけで、十分に「疑うべき対象」になりうる。


 瞬は思わず、自分の両手を見下ろした。ほんの少し前まで、モップの柄を握っていただけの手。それが、誰かから「罪を犯した手」と呼ばれるのだとしたら――。


「ビビるのは分かるが」


 ガイルの低い声が、その思考を断ち切る。


「まだ噂の段階だ。情報は情報として受け取るが、決めつけるのは早ぇ」


「……はい」


 瞬は、小さく頷いた。


 ガイルの言葉はいつも通り現実的で、安心を与えてくれる。だが、その声の底にも、説明しきれない緊張が微かに潜んでいることに、瞬は気づいてしまう。


 噂はただの噂ではない。その予感だけが、じわりと事務室の空気を重くしていった。


 噂が、噂で済まないのだと知ったのは、その日の昼過ぎだった。


 事務室の空気が少し緩み、メリルが昼食のパンを齧りながら帳簿と格闘していた頃。外の通りから、馬車の車輪が石畳を軋ませる音が響いてきた。


 すぐあとに、重い靴音とともに扉がノックされる。今朝とは違う、ずっしりとした重みを帯びた音だった。


「開いてるぞ」


 ガイルが短く声をかけると、扉がゆっくりと開く。


 入ってきたのは、王国紋章の入った制服を着た使者だった。きちんと整えられた金の刺繍、胸元に輝く紋章。肩には旅の埃がうっすら乗っているが、その立ち振る舞いには揺らぎがない。


「時層ギルド・○○支部に、王国よりの書状をお届けに参りました」


 使者は儀礼的な挨拶を述べ、胸元から細長い筒状のケースを取り出した。ケースには赤い封蝋が押され、その中央には王国の紋章と、見慣れない別の印が重ねられている。


 ガイルが立ち上がり、ケースを受け取る。その表情は、いつもの不機嫌そうな無表情のままだが、その手つきはいつになく慎重だった。


 使者が去ったあと、事務室には重い沈黙が落ちた。


「……王国から直々に、か」


 ガイルが封蝋に刻まれた印をじっと見つめる。その横で、メリルが不安そうに眉を寄せた。


「それ、まさか……」


「ああ。王国紋章の隣に押されてるのは、王都の教会区を管轄してる枢機会の印だ」


 枢機会――時神教会の中でも、政治と深く結びついた最高意思決定機関。その印が王国の紋章と並んで押されているということは、王国と教会の共同名義の書状、ということになる。


 ガイルは静かに封蝋を割り、中の書状を取り出した。羊皮紙特有の匂いがふわりと広がる。メリルと瞬は、思わず身を乗り出した。


 しばし、紙を目で追うガイルの額に、深い皺が刻まれていく。


「なんて?」


 メリルが堪らず声を上げる。


 ガイルは一度目を閉じ、それから短く息を吐いてから読み上げた。


「“王国教会区において、時間干渉の疑いある一件が発生した。王国は時層ギルドに対し、その真偽及び関係者の特定、ならびに教会の裁定の正当性を評価するための調査協力を正式に要請する”」


 事務室の空気が、一段階重くなるのが分かった。


「要するに、教会がやろうとしてる“裁き”が、本当に時間干渉案件として妥当かどうか、ギルドにお墨付きをくれってことだ」


「お墨付き……」


 メリルがかすれた声で繰り返す。


「それってつまり、ギルドが“これは時間犯罪です”って認めちゃったら、その人はもう……」


「教会の裁きに、堂々と掛けられるってことさ」


 ガイルの声は冷静だったが、その奥底に怒気がわずかに混じっていた。王国と教会が結託して、自分たちの権威を補強しようとしている。そんな構図を見透かしているからこその苛立ちだ。


 瞬は、自分の手がまた汗ばんでいくのを感じた。


「……これは、正式な依頼なんですよね」


 ようやく絞り出した声で問う。


「見た目はな」


 ガイルは苦々しげに書状を机に置いた。羊皮紙が木の上で擦れる音が、妙に大きく響く。


「だが、実際には“ギルドを巻き込んで責任を共有する”ための文書でもある。断れば断ったで、“ギルドは時間犯罪者を庇っている”って理屈を立てられかねねぇ」


 メリルが小さく顔をしかめる。


「そんなの、卑怯じゃない」


「政治ってのは、大抵卑怯なもんだ」


 ガイルは肩をすくめた。


「教会は教会で、自分たちの信徒と権威を守るために必死さ。王国も、教会を敵に回したくないから手を組む。……どっちに転んでも、一番扱いやすい“第三者”に火の中の栗を拾わせるわけだ」


 その“第三者”が、自分たちだ。


 瞬は、喉の奥がひどく乾くのを覚えた。


 噂は単なる噂ではなかった。それどころか、王国と教会という二つの巨大な影が、その噂の背後に重なっている。


「受けるしか、ないんですか」


 自分の声が、わずかに震えていた。


 ガイルは、一瞬だけ瞬を見た。その視線には、責任者としての冷静さと、年長者としての迷いが入り混じっている。


「少なくとも、“話を聞きに行く”ことから逃げるわけにはいかねぇな」


 静かに告げられた言葉は、決定でもあり、諦念でもあった。


 メリルが唇を噛む。書記用のペンを握る手が白くなっている。


「……あたしたち、本当にそんなのに関わるの?」


「関わらなきゃ、向こうの好き放題だ」


 ガイルの声が低く響く。


「教会が勝手に“時間犯罪者”をでっち上げて、好きなだけ処刑しても、誰も止められなくなる。時層ギルドってのは、本来その手の暴走を抑えるためにも存在してる」


 その言葉に、瞬は少しだけ胸を張りたくなった。自分たちの仕事が、単なる依頼稼業ではなく、世界の秩序を守る一端を担っているのだという自負。しかし同時に、その責任の重さが肩にずしりとのしかかる。


「……だからこそ、か」


 小さな声で呟く。


「だからこそ、怖いんですよね」


 未来列車の中で見たもの。時間の外側から伸びてきた影。それを思い出すだけで、手のひらに冷たい汗が滲む。


 今度は、あの教会が相手だ。時間を神と呼び、その名の下に人を裁こうとしている勢力。


 自分のような“時層の異常に敏感な”存在は、彼らから見て、真っ先に排除したくなる対象なのではないか。


 不安は、静かに、しかし確実に膨らんでいった。


 夕方が近づくにつれて、ギルドの中の空気は、いつもとは違う重さを帯び始めていた。


 窓の向こうでは、沈みかけた太陽が街並みを赤く染めている。屋根の上に伸びる影は長く、細くなり、風が吹くたびに旗や洗濯物が揺れる。その全てが、どこか遠い世界の光景に見えた。


 事務室の片隅では、瞬が小さな旅行鞄を開き、荷物を詰めていた。最低限の着替え、簡易の時層計測器、応急処置用の薬。手順は慣れているはずなのに、一つ一つの動作に無駄な間が入り込む。


「もっと手早く詰めな。見てるこっちが不安になる」


 背後からかけられた言葉に、瞬は肩をびくりと震わせた。


 振り返ると、ガイルが腕を組んで立っていた。相変わらず厳つい顔だが、その目にはどこか柔らかい光も混じっている。


「すみません……」


「謝れって言ってんじゃねえ。落ち着けって言ってんだ」


 ガイルはため息混じりに言いながら、鞄の中身にざっと目をやる。


「よし、必要なもんは入ってるな。足りねぇもんが出てきたら現地でどうにかしろ」


「“どうにかしろ”で済ませないでよ」


 横からメリルが呆れたように口を挟んだ。彼女は小さな包みを二つ持っており、そのうち一つを瞬の鞄に突っ込む。


「はい、差し入れ。道中で食べるやつと、非常用の甘いの。緊張するとすぐ顔色悪くなるんだから、糖分くらいはちゃんと取りなさい」


「あ、ありがとう」


 包みの中身を確かめなくても、メリルが選んだものなら外れはないと分かる。それだけで、少しだけ心が軽くなる気がした。


「で、ガイル。……本当に行くの?」


 メリルの声は、さっきまでよりもずっと静かだった。


 ガイルは短く頷く。


「王国宛ての返書ももう出した。教会の裁きに、ギルドとして立ち会い、時間干渉の有無を判断する――それが今回の仕事だ」


「“立ち会い”なんて聞こえはいいけどさ」


 メリルは唇を噛む。


「実質、“お墨付きを与える側”じゃない。あたしたちの“時間異常です”って一言で、誰かの生き死にが決まるかもしれないんだよ」


 その現実を、瞬もようやくはっきりと理解する。


 未来列車では、「助けたい」という思いで動いた。目の前の人間を救うことだけを考えればよかった。だが今回は違う。自分たちの判断が、見知らぬ誰かの運命を決定してしまうかもしれない。


「怖いか」


 ガイルが、不意に尋ねた。


 瞬は嘘がつけなかった。


「……はい」


 短い言葉に、全てが詰まっていた。


「教会って、俺たちとは全然違う考え方で時間を見てる人たちでしょう? “神意”とか“裁き”とか。そんな場所に行って、俺なんかが時間のことを話したら……」


 “異端”と呼ばれるかもしれない。


 “神を冒涜した罪人”と言われるかもしれない。


 そんな言葉が喉まで出かかって、どうしても口にできなかった。


 ガイルは、ふっと鼻で笑った。


「怖いって自覚できるだけマシだ」


「え?」


「怖さが分かってねぇ奴の方が、よっぽど危ねぇ判断をする。……お前は、ちゃんとビビってる。それなら、まだ踏みとどまれる余地はある」


 乱暴ともとれる言葉なのに、その中に奇妙な優しさが含まれている。


「俺もな」


 ガイルは、視線を窓の外に向けた。夕焼けの光が横顔を染める。普段はあまり語られない過去の影が、その横顔にうっすらと重なるように見えた。


「昔、怖さを忘れて時間に手を突っ込んだことがある。結果は……お前も知ってるだろ」


 失われた街。崩れた時層。取り返しのつかない犠牲。


 瞬は、喉の奥で固く息を飲み込んだ。


「だからこそ、今回はちゃんと恐れて臨む。教会がどう言おうが、王国が何を求めようが――俺たちが見たものと、俺たちの判断を、簡単には曲げねぇためにな」


 ガイルの言葉は、強い。だがその強さは、若い頃の無鉄砲さではなく、幾度も失敗を経た末にようやく固まったものだ。


「瞬」


 メリルが、小さく名前を呼んだ。


 振り向くと、彼女は真剣な眼差しで瞬の顔を見つめていた。


「あんたのこと、正直、心配だよ。教会なんて場所、あんたみたいなタイプには絶対居心地悪いと思うし。……でもさ」


 一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせ、それからふっと笑う。


「あんたが行ってくれるなら、少なくとも“向こうの言いなりになるだけ”ってことにはならないって、あたしは思ってる」


「俺が、ですか?」


「そう。あんた、妙に頑固だから」


 メリルは冗談めかして肩をすくめる。


「一度“おかしい”って思ったら、絶対うやむやにしないでしょ。未来列車のときだってそうだったじゃない。……あんな感じで、“神様だから正しい”って顔してる連中にも、ちゃんと“それ本当に?”って言ってきなよ」


 それは、無茶なことを言っているようでいて、同時に瞬がずっと心の奥で望んでいた役割でもあった。


 誰かが「おかしい」と言わなければならない。時間を理由に人を裁く、そのやり方に。


 その役割を、自分が担えるのかどうかは分からない。だが、そう言われることで、胸の奥に小さな灯がともった気がした。


「……行ってきます」


 瞬は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出してから言った。


「怖いですけど、行きます」


「よし」


 ガイルが短く頷く。


「怖いのは、俺もメリルも同じだ。お前が前に立ってる間は、俺が後ろで睨みを利かせててやる。教会だろうが王国だろうが、簡単にお前を手放しにはしねぇよ」


 その言葉に、瞬は思わず笑ってしまった。


「頼もしいですね」


「当たり前だ。俺は支部長だからな」


 いつもの偉そうな台詞なのに、今日は妙に心強く聞こえた。


 支度を終え、鞄を肩にかけると、ギルドの扉の前に三人が並んだ。


 外はすっかり夕暮れで、空は橙から群青へと色を変えつつある。風は思ったより冷たく、頬を撫でるたびに肌の表面から熱を奪っていった。


 扉の木枠には、長年の使用でついた細かな傷がいくつも刻まれている。帰ってくる場所であり、出ていく場所でもある、このギルドの境界線。今日は、その向こう側がいつも以上に遠く感じられた。


「ねえ、瞬」


 メリルが、不意に声を落とした。


 瞬が振り向くと、彼女は真剣な顔で瞬の袖をつまんでいた。


「何ですか」


「……教会の“裁き”についてさ。ひとつだけ、聞いた噂があるんだ」


 その声には、昼間とは違う重い色が混じっていた。


「噂?」


「うん。王国支部の友だちから聞いたんだけど」


 メリルは周囲を一度見回し、誰もいないことを確かめてから続けた。


「“時間を乱した者への裁きは、生前に完遂されなければならない”――って。そういう言い回しが、教会内部でしょっちゅう使われてるらしいの」


 “生前に完遂されなければならない”。


 その言葉の意味を理解するのに、瞬は一瞬を要した。


 時間を乱した者の裁きは、死後の世界や来世に任せるのではなく、「生きているうちにすべて果たされるべきだ」。つまり、罰も痛みも贖いも、この世界のこの時間の中で完結させなければならない、ということ。


 それは、救いの余地を限りなく削る考え方だ。


 背筋に冷たいものが走る。足の裏が、一瞬だけ地面から浮いたような感覚に襲われた。


「……それって」


 かろうじて声を絞り出す。


「処刑、ってことですよね」


 メリルは、言葉を飲み込むように口を閉じた。代わりに、ほんの少しだけうつむき、小さく頷く。


 ガイルは、その会話を黙って聞いていた。拳を握る音がかすかに聞こえる。歯を食いしばる気配も、背中から伝わってきた。


「連中の言う“祈り”は、死んだ後の魂のためだ」


 ガイルが、低く言った。


「生きてる間の苦しみや恐怖は、“神意に従うための必要な儀礼”ってやつさ。……そんなもん、俺から言わせりゃただの暴力だがな」


 怒りを押し殺した声音。その中には、かつて自分が犯した“時間への過干渉”に対する自責とも、教会という別の形の過干渉への嫌悪ともつかない感情が混じっている。


 瞬は、扉の外に広がる夕闇を見つめた。


 遠く、王国の方角に目を向けると、地平線の向こうに、まだ見ぬ街の灯があるような気がした。その向こう側には、教会の尖塔がそびえ、鐘の音が鳴り響き、祈りと称した裁きが執行されようとしているのかもしれない。


(そこに、俺は行くんだ)


 自分の中で、その事実を改めて確かめる。


 教会の裁きがどれほど残酷であろうと、それを止められるかどうかは分からない。だが、少なくともその場を見届けることはできる。時間の異常が本当にあるのかどうか、自分の目で確かめることはできる。


 それが、時層ギルドにいる自分にできる、最初の一歩なのかもしれない。


「……行きます」


 瞬は、改めてそう呟いた。


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。ガイルか、メリルか、自分自身か。あるいは、どこかで見ているかもしれない“誰かの影”に向けてか。


 ガイルが短く頷く。


「行くぞ」


 扉が、重い音を立てて開かれる。冷たい外気が一気に流れ込み、事務室の温度を奪っていく。夕暮れの街は、昼間とは違う顔つきで瞬たちを迎えた。


 メリルは扉の脇に立ち、二人の背中を見送る。その表情は曇っていたが、その目にはしっかりとした光も宿っている。


「……絶対、帰ってきなさいよ」


 小さな声で、しかし確かな言葉が飛ぶ。


 瞬は振り返り、笑おうとして、うまく笑えないことに気づいた。それでも、できる限りの笑みを浮かべて頷く。


「はい。ちゃんと、帰ってきます」


 扉が再び閉まる。その音は、いつもと同じはずなのに、今日はやけに重く、長く響いた。


 外の風が、遠くの教会の尖塔の方角から吹いてくるような気がした。それは、祈りなのか、警告なのか、それとも――裁きの予兆なのか。


 その答えはまだ、夕闇の向こうの影の中に隠れている。


 ただ一つ確かなのは、世界のどこかで、今まさに「祈り」と呼ばれるものが、誰かにとっての「影」として迫ってきているということだ。


 その影のもとへ、瞬たちは足を踏み出していく。胸の奥の不安を抱えたまま、それでも目を逸らさずに。

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