第4話「風の迷い子」
朝の光が、まだ冷たさを残したままギルドの木の床を斜めに撫でていた。窓枠から差し込む光は、棚の角や書類の端に薄い金の縁をつくり、夜のうちに沈殿した埃をほんの少しだけ浮かび上がらせる。外では蒸気馬車が通り過ぎるたび、低い唸りと金属の軋みが遠くで重なり合い、その合間に小鳥の声が混じる。そんな音を背景に、瞬は両腕いっぱいに抱えたファイルの束を、よろけないよう慎重に受付カウンターへ運んでいた。
足元の床板がみしりと鳴るたびに、昨日、一昨日の騒ぎが脳裏にちらつく。未来戦場からやってきた派遣者フィア。突如現れた時素学者リュカ。そして「護衛兼監視」という物々しい言葉。ギルドの中は相変わらずの木と紙と油の匂いのする日常なのに、自分の周りだけ、水面がずっと揺れ続けているような落ち着かなさがあった。
「おはよ、瞬。顔が“静かな日がほしいです”って書いてあるよ」
カウンターの向こうから、書類を抱えたメリルがため息まじりに笑いかけてくる。彼女のマグカップから立ちのぼる湯気に、香ばしいコーヒーの匂いが混じった。
「……分かります?」
「分かるよ。ここ数日、うちの支部、騒ぎのデパートみたいだもん。未来から監視役は来るわ、変な白衣は居座るわ」
「リュカさんのことですよね、それ」
「他に誰がいるのよ」
メリルは肩をすくめると、ペンを指に挟んだまま窓の外をちらりと見た。「風、強いな」と髪を耳にかき上げる仕草が、いつもより少しだけ慎重に見えたのは、瞬の気のせいだろうか。
瞬は運んできたファイルをテーブルに下ろし、肩を回してひとつ息を吐く。
(今日こそは……静かであってほしい)
心の中でそう念じながらも、胸の奥に小さなざわめきが残っている。何かが近づいてきているような、音にならない風の前触れのような感覚。窓ガラスがかすかに震えている気がして、瞬は思わず視線を向けた。
外を見ても、特別変わった様子はない。いつもの街路、いつもの人通り。蒸気馬車の白い蒸気が一瞬だけ風に流されて、角を曲がって消える。それだけのはずなのに――皮膚を撫でる空気が、どこか落ち着かない。
「どうしたの、瞬?」
「いえ……ちょっと、風が気になって」
「風ねぇ。時層予報、今日は安定って言ってたけど」
メリルは何気なく言いながらも、目の端だけが細くなっていた。瞬は曖昧に笑って首を振る。自分が神経質になっているだけだ、と言い聞かせるように。
そのときだった。
ギルドの扉の上に吊るしてある小さな金属の札が、誰も触れていないのに「チリ」と鳴った。ほんの一瞬、室内の空気がさざ波のように揺れる。蒸気馬車の音も、ペンの走る音も、その瞬間だけ薄く遠のいた気がした。
(……また、気のせい、か?)
瞬がそう自分に問いかけるより早く、ギルドの扉が、今度は本当にきしりと音を立てて開いた。
扉の隙間から、細い影が滑り込んできた。人が入ってきた、というより、風が人の形をして室内に紛れ込んだような印象だった。
「えへ……ここ、どこ〜?」
ふにゃっとした声と一緒に入ってきたのは、年の頃は瞬と同じくらいに見える、小柄な少女だった。髪は風に遊ばれたように柔らかく波打ち、淡い色の瞳がきょろきょろと室内を見回している。着ている服は街の子どもが着るような簡素なものだが、布の端がやけに軽やかに揺れているのが、瞬には印象的だった。
少女は扉を閉めるのもそこそこに、ぱたぱたと軽い足取りで中へ進み出る。その足音は、木の床を踏んでいるはずなのに、ほとんど重さを感じさせない。
「あら……?」
メリルが書類を抱えたまま目を丸くする。瞬も思わずその場で固まってしまった。少女は二人を見つけると、ぱっと花が開くような笑みを浮かべる。
「よかったぁ! 人、いた〜。迷っちゃってさぁ、どこがどこだか分かんなくなっちゃったんだよね〜」
「迷子?」
瞬の口から自然とその言葉がこぼれる。少女は「うんうん」と元気よく頷き、ふわりと瞬の方へ近づくと、当たり前のように彼の袖を指先でつまんだ。指は細くて柔らかいのに、掴まれた場所が妙に温かい。
「ねぇ、ここって、何するところ〜? 看板読もうとしたんだけど、字がちょっと苦手で……」
「えっと、ここは時層ギルドの支部で……その、迷子なら、警備隊の方が――」
「やめときなさい、瞬」
メリルが即座に口を挟んだ。声色は柔らかいが、瞳にはわずかな警戒が浮かんでいる。
「迷子にしては、妙に落ち着きすぎてる気がするけど?」
「え〜、そんなことないよ〜? めっちゃ困ってるもん、ほら」
少女はそう言って眉を下げてみせたが、口元の笑みはどこか余裕を含んでいた。演技、というほど大袈裟ではない。ただ、困っていると言う割に、目の奥が全く揺れていない。
瞬は袖を掴まれたまま、少女の顔を覗き込む。可愛い、と思う。だが同時に、胸の奥でまたあの小さなざわめきが生まれた。
(……なんだろう、この感じ)
どこから来たのか、何をしていたのか――尋ねるべきことはいくらでもあるのに、少女のふにゃっとした笑顔を前にすると、問い詰めるのが躊躇われた。
「とりあえず、中で座りなさい。外に放り出しても、どうせまた戻ってきそうだし」
メリルは観念したようにため息をつき、少女の背中を軽く押して受付の椅子へ誘導する。少女は「わぁ、ありがとう〜」と嬉しそうに身を預けた。
その動きでさえ、どこか風鈴みたいに軽かった。
椅子に座った少女は、落ち着きなく足をぶらぶらさせながら、ギルドの中を興味深そうに眺め回していた。棚の上、掲示板、時層地図、窓辺に置かれた古い砂時計。それぞれを見上げるたびに、瞳がきらりと光る。
「ねぇねぇ、ここ、時間の地図ってやつ?」
壁の大きな時層地図を指さして、少女が身を乗り出す。瞬は何気なくそちらを見た――その瞬間、視界の隅で違和感が走った。
少女の輪郭が、ほんの一瞬だけずれた。
動いていないのに、影だけが半歩遅れて付いてくるように見えた。床に落ちているはずの影が、わずかに揺れてから位置を合わせる。瞬きする間の、ひどく短い時間。それでも、瞬にははっきりと分かった。
(今……)
「瞬、どうかした?」
メリルの声に我に返る。振り返れば、少女は首をかしげながらこちらを見ていた。さっきの影の遅れは、もうどこにもない。
「い、いえ。ちょっと目がチカチカしただけで……」
「ふふ〜ん。見すぎると目が悪くなっちゃうよ〜?」
少女はからかうように笑い、椅子からひょいっと飛び降りる。その足元を見てしまう。やはり、軽い。音はしているのに、床を踏んでいる実感が薄い。
「名前、聞いてなかったわね」
メリルが腕を組み、少女をまっすぐ見る。
「わたし? カスミ。風のカスミって呼ばれてたよ〜。でも本名は、たぶんカスミ」
「“たぶん”って何よ」
「そう言われてたから、そうなんだろうな〜って。ね? 変?」
変、という言葉を自分で口にしながら、カスミはまったく恥ずかしそうでもない。瞬は苦笑しながらも、そのいい加減さに少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。
だが、胸のざわめきは収まらない。カスミの周囲の空気だけが、室内の他の場所と違う温度を持っている気がする。ほんの少し冷たくて、軽くて、掴もうとすると指の隙間から抜けていくような――そんな感覚だった。
「ねぇねぇ、瞬くんって言ったよね?」
「はい。一ノ瀬瞬です」
「一ノ瀬くんかぁ……瞬くん、でいっか」
カスミは勝手に呼び方を決めると、嬉しそうに瞬の目の前へつかつかと近づいてきた。距離が近い。瞬は思わず一歩下がる。
「わっ、近い」
「え〜、別にいいでしょ? ねぇ、瞬くん」
カスミの瞳が、突然、真剣な色を帯びた。さっきまでのふにゃっとした笑顔が嘘のように消え、目の奥だけがするどく研ぎ澄まされる。
「君、時間からちょっと、はぐれてるよね?」
空気が、すっと冷えた。
「……え?」
瞬の喉がひとりでに鳴る。胸の奥で、あの日の時層ズレの光景が一気に蘇った。軋む音、ひび割れた光、伸ばした手の先に感じた熱。
「ちょっと、カスミちゃん」
メリルの声が低くなる。「何、その言い方」
「え? 本当のこと言っただけだよ〜? ね、瞬くん」
またふにゃっと笑顔に戻りながら、カスミは肩をすくめる。その瞬間、彼女の足元の影が、目に見えて一秒ほど遅れて動いた。今度は瞬だけでなく、メリルもそれを目撃してしまったらしい。
「……今の、見た?」
「見た。……見たわよ。普通じゃないわね、あなた」
「普通ってなに〜? おいしいの〜?」
カスミは悪びれることなく笑う。紙片が一枚、彼女の周囲で風に舞うようにふわりと浮き上がり、ゆらゆらと落ちていった。
瞬はとうとう悟った。目の前の少女は――迷子なんかじゃない。
気がつけば、事務所は小さな騒ぎになっていた。
「だーかーらぁ! その棚は触らないでって言ってるでしょ!」
「え〜、だって気になるんだもん。この箱、なんか“古い時間の匂い”する〜」
「その表現が既に怖いのよ!」
カスミはあちこちの棚や机の上を、まるで風が通り抜けるみたいに自由に動き回っていた。手を伸ばせば届く距離にいたかと思えば、次の瞬間には部屋の反対側の机の上でしゃがみこんでいる。移動のあいだの足音がほとんど聞こえない。
メリルはその後を追いながら、半分悲鳴のような声を上げていた。
「瞬! ぼーっとしてないで止めて!」
「は、はいっ!」
呼ばれて我に返った瞬は、慌ててカスミの前に回り込もうとする。しかしカスミはひらりと身を翻し、瞬の横をすり抜ける。そのとき、彼女の髪がふっと宙に浮き、触れたはずの肩の感触が一瞬だけ遅れてやってきた。
まるで、時間の中の位置を少しだけずらして移動しているような――。
「きゃっ」
棚の上に置いてあった古い砂時計が、カスミの袖に引っかかって傾く。瞬は反射的に手を伸ばし、なんとか落下寸前で受け止めた。ガラスの冷たさがじんと掌に伝わる。
「ご、ごめん〜。ありがと、瞬くん」
「い、いえ……っていうか、本当に気をつけてください」
「うんうん、気をつける〜……たぶん?」
「“たぶん”やめなさいって言ってるでしょ!」
メリルの悲鳴まじりのツッコミが飛ぶ。カスミは楽しそうにくるりと一回転し、今度は瞬の周りを“風”のようにくるくる回り始めた。
「瞬くんってさぁ、やっぱりちょっと、普通と違う匂いするんだよね〜」
「匂いって……」
「うん。“今ここ”にちゃんといるんだけど、どこか別の時間にも片足突っ込んでる感じ? ……ね?」
カスミの声が不意に近くなり、瞬の耳元でささやく。ぞわりと背筋に寒気が走る。彼女の言葉は、知られたくなかった場所に、いきなり指を突っ込まれたような感覚を伴っていた。
「カ、カスミちゃん。本当に何者?」
メリルがようやく観念したような声で問う。息は上がり、こめかみに汗が滲んでいる。
「え〜? 何者だと思う〜?」
「迷子、ではないことだけは確かね」
「ひど〜い。迷子“でも”あるよ? ちょっとだけね。……ほら、こういうの」
カスミは自分の影を指さす。瞬とメリルがそちらを見ると、影が床の上でわずかに揺れているのが分かった。光源は動いていないのに、影だけがふらふらと形を変える。
「……時霊種、ね」
メリルがぽつりと呟いた。諦めたような、苦笑にも似た声音だった。
「え?」
瞬が聞き返す前に、カスミが「ピンポーン」と言わんばかりに手を叩いた。
「そうそう、それ〜。よく知ってるね、お姉さん」
「そりゃあ、ギルドの事務やってるといろいろ見るのよ。……時霊種なんて、そうそうお目にかからないけどね」
時霊種。時間に寄った存在。人でもあり、時そのものの一部でもある、という噂だけは瞬も聞いたことがある。具体的にどんな存在なのかは、よく分からないが――目の前のカスミを見ていると、妙に納得できてしまう。
「えっと……つまり、カスミさんは……」
「カスミでいいよ〜。うん、まあ、そういうやつ? 風みたいなもん」
カスミは自分の頬を指でつつきながら、悪戯っぽく笑う。
「だからね、瞬くん。君の“はぐれた感じ”、ちょっと分かる気がするんだ〜」
瞬は返す言葉を失った。
騒動がひと段落したころには、事務所のあちこちに散乱した書類と、小物と、メリルのため息が残っていた。床に膝をつきながら紙を拾い集めるメリルの背中には、明らかに疲労の影が宿っている。
「……また変なのが増えたわねぇ、うちのギルド」
「ひど〜い。わたし、そんなに変かなぁ?」
カスミはカウンター近くの椅子に座り、足をぶらぶらさせながら笑っていた。外から入り込んだ風が窓辺で渦を巻き、彼女の髪をくすぐるように揺らす。
「変です」
即答したのは、半分本気で半分冗談のつもりだったが、口に出してみると意外としっくりきた。瞬は慌てて付け加える。
「……でも、その、悪い意味だけじゃなくて」
「ふふん、知ってる〜。瞬くん、優しいもん」
カスミはそう言って、机越しに身を乗り出し、じっと瞬の顔を覗き込む。距離が近い。瞳の中に、自分の姿が小さく映っているのが見えた。
「ねぇ、瞬くん」
「はい?」
「これからどうするの?」
「ど、どうって……」
問いの意味が掴めずに瞬が戸惑っていると、カスミは続けた。
「君、これからきっと、いろんな時間に巻き込まれるでしょ? わたし、そういう“はぐれた人”見ると、ほっとけないんだよね〜」
その言い方は、まるで当たり前のことを話しているようだった。だが、言葉の内容は、瞬の胸にひやりとした震えを落としていく。
「……一緒に、ってことですか?」
「さぁ? どうなるかな〜。でも、少なくとも今は、ここが一番“風通し”良さそうだし?」
カスミは目を細め、ギルドの天井を見上げる。光に照らされたその横顔は、先ほどまでの無邪気さとは少し違う、どこか遠い場所を見ているような表情だった。
「瞬、覚悟しときなさいよ」
散らばった書類をまとめながら、メリルがぼやくように言う。
「未来からの監視役に、変人研究者に、しまいには時霊種の迷い子。……あんたの周り、もう普通の“雑用係”の空気じゃないからね」
「そ、そんなこと言われても……」
苦笑しながらも、瞬は胸の奥に小さな重みを感じていた。自分の生活がもう元には戻らないのだと、頭ではなく感覚で理解し始めている。
視線を横に向けると、少し離れた柱の陰にフィアの姿が見えた。腕を組み、無表情のままこちらの様子を見ている。カスミと瞬、その間に流れる空気を、じっと観察しているようだった。
フィアと目が合う。彼女は何も言わない。ただ、ほんのわずかに眉をひそめた。それは、警戒とも不安ともつかない表情だった。
カスミはそんな視線など気にも留めず、椅子の背にもたれて欠伸をする。
「ふぁ〜……なんか、ここ、落ち着くなぁ。しばらくここにいていい?」
「え? ええと……」
瞬が言葉に詰まるより早く、メリルが両手を上げた。
「もう好きにすればいいわよ。どうせ追い出しても、また風みたいに戻ってくるでしょ」
「やった〜。じゃあ、お世話になりま〜す、瞬くん」
カスミの笑顔は、嵐が過ぎ去った後の空みたいに澄んでいた。瞬はその笑みに、呆れと不安と――ほんの少しの期待が混ざった複雑な感情で、ただ苦笑するしかなかった。
外から吹き込んだ風が、カスミの髪と、瞬の前髪を同時に揺らす。揺らいだ空気の中で、彼はまだ自分がどこへ向かっているのかを知らない。
ただ一つだけ確かなのは――またひとり、奇妙な“縁”が、自分に結びついてしまったということだった。




