第3話「揺らぐ解析」
朝の光がゆっくりと角度を変え、ギルドの木製家具に柔らかな橙の縁取りを落としていた。昨夜は少し冷えたせいか、窓ガラスにはまだ見えないほど薄い白気が残り、その向こうを蒸気馬車が走る低い音が途切れ途切れに聞こえる。瞬は抱えていた書類の束を机の上にそっと置き、肩から抜けるような息をひとつ漏らした。
昨日、未来戦場からの“派遣者”だという少女――フィアが突然現れ、今日から監視と護衛を行うと告げた。いまだにその事実が胸の底でゆっくり澱のように沈んでいる。落ち着かない。けれど、嫌な気分だけでもないのが、余計に瞬を困惑させていた。
事務所の隅では、フィアが壁に軽く背を預けて立っていた。表情はほとんど変わらず、視線は書類整理をする瞬の動きを静かに追っている。監視されている感覚がじわりと肌に残るのに、彼女の存在は妙に空気を乱さない。呼吸の音すら薄く、影の気配だけが近くにいるようだった。
「おはよ、瞬。今日はもっと寝癖マシになってるね~」
メリルが笑顔で通りすぎていく。コーヒーの香りがふわりと漂い、ギルドの朝を象徴する匂いが瞬の気持ちをわずかに緩めた。ミナトはその横で工具をガチャガチャ鳴らし、小さな装置を覗き込んでいる。
日常だ。いつもの音、いつもの匂い、いつもの仕事――のはずだった。
しかし、その背後にフィアの静かな視線があるだけで、すべての音が少しだけ遠くに感じられる。瞬は苦笑しながら書類を運び、ふと後ろを振り向くと、二歩離れた位置にフィアが立っていて思わず目を逸らした。
「あ、いや……その、ついてこなくても大丈夫、ですから……」
声が裏返り、耳が熱くなる。フィアは首を少し傾けただけで、特に何も言わない。沈黙は柔らかくも重たく、瞬の心の乱れがそのまま映し出されるようだった。
昨日の異常、未来から来た少女、監視という言葉――それらが頭の中で渦を巻き、瞬の胸に小さなざわめきを残していた。
今日は……静かだといいけど。
そんな願いを飲み込んだ瞬間、ギルドの扉が勢いよく開いた。
バタン、と景色を揺らすほどの大きな音。瞬は書類を抱えたまま思わず肩を跳ね上げた。フィアが即座に身じろぎし、ほんの半歩だけ前に出て瞬との距離を縮める。
「失礼! 開けるつもりは静かにするつもりはあったんだが、つい!」
勢いよく入ってきたのは、眼鏡を額にずらし、大きな装置と分厚いファイルを抱えた青年だった。黒髪はところどころ跳ね、着ている白衣は油染みと紙くずが付いている。いかにも“研究者”といった風貌で、息を弾ませたまま室内を見回した。
「おお、ここが例の――うわっと!」
抱えていた資料の一部が床に散乱し、紙がふわりと空中を舞った。瞬は反射的に拾おうと屈んだが、その前にフィアがスッと手を伸ばし、落ちかけた資料を一枚掴み取る。動作に迷いがなく、無駄もなかった。
青年はその様子を見て、目を輝かせた。
「おお……スムーズな反応速度! さすが未来戦場の実戦経験者か!」
「……どこでそれを」
警戒を隠さないフィアの声音がわずかに硬くなる。しかし青年はそんな気配をものともせず、まっすぐ瞬の前まで歩いてきた。
「やあ! 君が一ノ瀬瞬君だね!」
「えっ、えっと、はい……?」
突然手を差し出され、瞬の体が固まった。その前に、フィアが一歩滑り出て手を挟むように遮る。
「距離を取りなさい」
「おっと、これは失礼。反射的に握手しようとしただけだよ?」
青年は悪びれる様子もなく笑うと、眼鏡を下げて改めて瞬の顔を見つめた。瞳が好奇心でぎらぎらしている。
「僕はリュカ。リュカ・クロノテック。時素学者で、クロノ分析の専門家だ!」
突然現れた自称・分析専門家に、瞬の思考は追いつかない。フィアの無言の緊張が横で膨らんでいくのが分かった。
リュカは部屋の中心にあったテーブルを勝手に占拠し、装置や紙束を次々と並べていく。機材の起動音が「ピッ」「ウィン」と軽く響き、事務所が一瞬だけ研究所の空気に染まった。
「えっと……あの、リュカさん……?」
「はいはい、すぐ終わるよ! ちょっと待ってね……あ、これ反応するかな……」
リュカは瞬の存在など忘れたように手元の装置を操作している。だが、その目は絶えず瞬に向けられていた。観察されている、というより――解析されている。
「……な、なんですか? 僕の顔に何か?」
「いやぁ、あるんだよ。ものすごく興味深い“反応”がね!」
瞬の心臓が強く跳ねる。昨日の時層ズレで見た“光の筋”や胸の奥の熱が脳裏に蘇った。言葉にできないあの感覚を思い出し、背筋が冷える。
「きみ、時層共鳴の素質があるね? しかも――かなり強い」
「は……? 時層共鳴って……そんな……」
瞬の言葉を遮るように、フィアが低い声で問いかけた。
「根拠は?」
フィアの立ち位置は、いつの間にか瞬の前へ一歩踏み出した“盾”の位置に変わっていた。リュカの視線から瞬を隠すように。
「観察すれば分かるさ。昨日の局所ズレの痕跡も、君の反応も……すべてが示している。きみは“特異共鳴体質”だ。だから――」
リュカは興奮気味に言葉を続けた。
「研究させてほしい。ぜひ!」
「……いや、その」
瞬は思わず後ずさる。心臓の鼓動が浅く早くなり、指先が冷たくなる。研究対象――そんな言葉で呼ばれたくない。
「許可は下りない。任務上も、私個人としても」
フィアの声は鋭く冷たい。リュカの伸ばしかけた手を、フィアが手首を掴んで止めた。その手つきには静かな怒気が含まれている。
「なんだ、君たちは……まるで僕が危害を加えるみたいに」
「あなたの意図がどうであれ、瞬に触れることは許可できない」
「僕は研究者だ! 害するわけ――」
「研究のためなら“痛み”すら正当化するタイプかもしれない」
「偏見だよ! 僕は――」
「二人とも、ちょ……ちょっと!」
瞬の声は震えていた。守られるのはありがたい。だが、この空気は――きつい。
テーブルを挟んで三者が向かい合うような形になった。ギルドの奥で作業していたメンバーが遠巻きに様子を伺い、空気は薄氷のように張り詰める。
「僕は……実験台じゃない……です」
瞬の声は決して大きくなかったが、それでも自分の意志を搾り出すように言った。
フィアはハッとしたように瞬を見た。怒りの一点張りではなく、突然刺されたような戸惑いが混ざっていた。
「……そのつもりは……」
「いや、言っておくけど!」とリュカが割って入る。「僕はきみを傷つけたいんじゃない。むしろ、救いたいんだよ。君の体質を理解することが、未来の安定にもつながる!」
「理屈を正当化に使うな」
「正当化じゃなくて! 科学だ!」
フィアの声は冷たく、リュカは焦りと熱を混ぜた言い訳を返す。瞬は二人の間で視線を揺らし、胸の奥がぐらぐらと揺れ続けていた。
守られすぎて息が詰まりそうで、でも守ってくれること自体が心強い。
理解したいという言葉が嬉しいようで、しかし“対象”として扱われるのは怖い。
矛盾した感情が喉元で絡まり、瞬は椅子から立ち上がった。
「……やめてください」
小さな声だった。だが、二人ともすっと黙った。
フィアの表情は読めない。リュカの目には戸惑いが浮かんだ。
瞬はただ、その場に漂う重さに耐えきれず、視線を床へと落とした。
時間がいくばくか過ぎ、ギルド内の空気はようやく落ち着きを取り戻した。夕方の光が斜めに差し込み、木の床に長い影を落とす。先ほどの張り詰めた緊張が嘘のように、事務所には静かな息遣いが戻りつつあった。
リュカは散乱した機材を片付けながら、それでも目は輝き続けていた。
「まあ……今日は退くよ。強引になった。すまない。ただ、きみは特別だ。一度気づいてしまったら、もう目を逸らせない」
「……そんなつもり、僕には」
「分かるよ。でも、いずれ分かる」
フィアがすぐ後ろに立ち、瞬の肩越しにリュカを見据える。
「過度な接触は禁止します」
「はいはい。了解ですよ、未来のお嬢さん」
軽口を叩きながらも、リュカの眼差しは決して諦めてはいなかった。むしろ、これからの同行や観察を当然のように考えている輝きがあった。
「……ったく、また厄介なのが増えたな」
遠くからガイルのため息が聞こえ、事務所の空気が少しだけ和らいだ。
瞬はそっと息を吐いた。フィアは変わらず大きな気配もなく、しかし確かに瞬の背中を守るように立っている。リュカは軽い笑みを浮かべながら、まるで仲間入りの挨拶を終えたかのように手を振った。
気づけば瞬は、自分がもう引き返せない流れに乗り始めていることを、ぼんやりと理解していた。胸の奥には不安と、ほんの少しの期待が渦巻いていた。




