第29話「巡りに潜む視線」
――空気が、違う。
瞬は、自分の肺に入り込んでくる冷気の重さに、最初の違和感を覚えた。
さっきまでと同じように、列車はトンネルの中で急停止したはずだった。鉄が軋む甲高い悲鳴、客席に小さく走る悲鳴、頭上で一瞬だけ揺れる照明。すべてが“見慣れつつある”光景のはずなのに――今は、その一つひとつが微妙に肌に合わない。
鼓動がうるさい。胸の奥で、心臓がさっきよりも一拍分、早く叩いている気がする。
非常灯が切り替わり、青白い光が車内を満たした。ゆらぎのない、冷たい蛍光。その色味も、記憶と同じはずだ。なのに、座席の布地に落ちる影の輪郭が、どこか違って見える。
(……まただ。戻った。けど――)
瞬は、手のひらにじっとりとまとわりつく汗を意識しながら、ゆっくりと指を握りしめた。
前のループと同じように、斜め前の席では、丸眼鏡の男が慌てて帽子を拾い上げている。その後ろでは、小さな子どもを抱えた母親が子に「大丈夫よ」とささやきかける声が聞こえる。床に転がったスーツケースが、通路の端で止まっている。
――全部、見覚えがある。けれど。
男の「なんだよ、急に止まって……」という愚痴の語尾が、ほんのわずか、さっきより短く切り捨てられたように聞こえた。母親の慰めの声は、前よりも少し高く震えている。子どもの泣き始めるタイミングも、記憶より一呼吸分だけ早い。
列車の揺れも、さっきと“同じはず”なのに、床を伝う振動の余韻が一瞬だけ長く残ったような気がした。
(同じじゃ、ない……)
瞬は、自分の鼓動に合わせて、頭の中で数を数え始める。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。
客室の後方で、車掌が「急停車しました。皆さまご安心を」とアナウンスを始めるタイミング。それも覚えている。前の周回とほとんど同じ言葉、同じ抑揚。だが、その声が鳴り出す直前、瞬の耳には、別の何かがかすかに触れた。
ざり、と。
砂を靴底で踏みしめたような、乾いた音。それが、車内のどこからともなく、微かに聞こえた気がした。
ここはトンネルの中だ。外は岩と金属の壁しかない。砂利の敷かれた線路はもっと遠くにあるはずで、こんな近くで踏まれるはずがない。なのに、その音だけが、妙に生々しく、瞬の背骨に沿って伝わってくる。
喉が、きゅっと詰まる。
(何かが、前と違う。どこだ……?)
視線が、自然と客室のあちこちを彷徨った。
泣き出した子ども。苛立って席を立とうとする中年男。隣の席で恋人らしい女性を気遣う青年。向かいの列では、老人が持っている杖の先が小刻みに震えている。
どの光景も、“ループの中で何度も見た”ものと重なる。だが、その上に、うっすらと別の何かの影が乗っているような――そんな不快な重なり方。
そのときだった。
視線が、ぶつかった。
何かが、自分を見ている――そう気づいた瞬間、瞬の首はほとんど反射的に、車内の隅を振り向いていた。
そこは、さっきまで、ただ暗がりが溜まっているだけの場所だった。
非常灯が届きにくい、客室の端。荷物棚の支柱と壁の境目に、小さな影のポケットのような空間がある。今までは、その存在をまともに意識したこともなかった。
だが、今、その“暗がり”には、輪郭があった。
光を吸い込むような黒いコート。空間にすっと立てられた一本の線のような、細い身体。顔の半分を覆う仮面から下だけがかろうじて見えるが、その口元は笑っていない。
ただ、立っている。
他の乗客とは、まるで透明な膜で隔てられているかのように、距離感のおかしい佇まいで。
(――ノワール)
喉の奥で、声にならない名前が跳ねた。
リエールの記録庫で、闇の中から現れた黒衣の影。何の前触れもなく、当たり前のように記録を抜き取っていった、あの人物。瞬の名を呼び、その視線だけで全身を凍らせてきた“何か”。
ここにいるはずがない。そう思う理性と、“いる”と認めてしまう直感が、同時に胸の中でぶつかり合う。
冷たい汗が背中を流れた。
奇妙なことに、他の乗客の誰も、その存在に気づいていないようだった。近くの席に座る若い男はそちらに背を向け、通路を挟んだ向かい側の親子は子どもをあやすのに必死で、影に目を向ける余裕もない。
ただ、瞬だけが、その“濃い影”に目を奪われている。
ノワールは、こちらを見てはいなかった。
仮面の奥に隠された視線は、車内の別の一点へと真っすぐに向けられている。その横顔は、以前と同じく表情を読み取らせない。仮面の下の唇は閉じられたまま、微動だにしない。
まるで、誰かの観察に没頭している研究者のような――そんな静かな残酷さ。
(なんで……ここに)
瞬の心臓は、さっきまでの倍の速さで打ち始めていた。
息が浅くなる。胸の奥がざわめき、胃のあたりに冷たいものが落ちていく感覚。それでも、目を逸らせない。
ノワールの視線の先を、追ってしまう。
その先には、一般客の一人が座っていた。
中年の男だった。紺色のスーツに、少しよれたネクタイ。仕事帰りなのか、疲れたような顔つきで、膝の上のブリーフケースを両手で抱え込むようにしている。
ループの最初の周回から、彼の存在はそこにあった。瞬は何度も、彼が急停車の衝撃で前の座席に額をぶつけそうになり、慌てて手を突く動作を見ている。立ち上がりかけて、妻らしき人物に止められるのも、毎回の“定番”になりつつあった。
だが、今――ノワールは、その男だけを見ていた。
車内には他にも何十人もの乗客がいるのに。泣き出した子どもも、苛立つ男も、震える老人もいるのに。あの影は、その中年男という“一点”を、執拗に射抜いている。
仮面の奥の瞳は見えない。それでも、その集中は肌で感じられた。
無音の刃のような視線が、その男の動きの一つひとつを刻みつけている。
(……何、見てるんだよ)
瞬は、自分でも気づかないうちに、唇を噛んでいた。
中年男は、いつものようにブリーフケースを抱えたまま、周囲を落ち着かない様子で見回している。汗がこめかみを伝い、指先がケースの留め具をいじっては離す。非常灯に照らされた横顔には、不安と苛立ちと、職場から持ち越してきた疲労が混ざっている。
――それが、ノワールの視線の下で、どこか微妙に“狂って”いた。
前のループで見たときよりも、彼の視線の動きが、半拍だけ遅い。首を動かす角度が、ほんのわずかに滑らかすぎる。ケースの留め具に触れる指が、何かを“探すように”動いている。
その変化は、本来なら見逃されてもおかしくない。だが、ループを二度も三度も体験した後の瞬の目には、小さなズレが、妙に大きく映った。
(……この人、前と違う)
ドクリ、と、心臓がひときわ強く脈打つ。
ノワールは、微動だにしないまま、そのズレを確かめるように男を見つめ続けている。仮面の下の唇が、ごくわずかに動いた――ような気がしたが、そこに感情は読み取れなかった。
ただ、「観察」している。獲物をすぐに仕留めるでもなく、かといって興味なく見ているでもない。何度も繰り返されるループの中で、ほんの少しずつ変質していく何かを、飽きもせず追いかけている視線。
(……ループを使って、あの人を“見てる”のか?)
思考が、ぞくりと冷える。
あの影は、偶然この列車に居合わせたわけではない。ループの中に“迷い込んだ”だけでもない。むしろ、ループそのものを“当たり前の環境”として使いこなし、その中から何かを拾い上げようとしている。
そうとしか思えなかった。
瞬は、自分の足が床を離れるのを感じた。
一歩。通路に出る。誰かの肩が自分の腕にぶつかるが、ほとんど感覚はなかった。心臓の音と、耳鳴りと、空気の重さだけがやけに鮮明だ。
視線は、ずっとノワールに釘付けになっている。
足元が少しふらつき、座席の背もたれに手をつく。その感触が皮膚から遅れて伝わってくる。血が手の先までうまく巡っていないのか、指先が冷たい。
それでも、足は止まらなかった。
怖い。あの影に近づきたくない。リエールで味わったあの“喉を掴まれるような恐怖”を、もう一度味わいたいはずがない。
それでも――。
(逃げたら、きっと、もっと怖くなる)
そう思った。
ループが何度も繰り返され、時間が巡るたびに、影は少しずつ自分の背後に回り込んでくる。今ここで向き合わなければ、いつの間にか、背中を突き刺される側になっている気がした。
だから、足を前に出した。
ノワールとの距離が、少しずつ縮まっていく。周囲の乗客たちは、それぞれの恐怖と不安に囚われていて、瞬の動きに注意を払う余裕はない。ざわめきの中で、瞬の靴音だけが、やけに大きく聞こえる。
あと十歩。あと五歩。
そのとき――ノワールが、わずかに顔を動かした。
仮面が、こちらを向いた。
視線が、ぶつかる。
仮面の奥の瞳は、相変わらず見えない。それでも、そこに“確かな焦点”があるのを、瞬は全身で理解した。さっきまで獲物を観察していた視線が、今度は、自分に向いている。
呼吸が止まった。
喉が、ひゅ、と乾いた音を立てる。
瞬の足は、そこから一歩も動けなくなっていた。前に出ることも、後ろに下がることもできない。身体が、見えない糸で天井から吊るされた人形のように、宙ぶらりんになっている。
ノワールは、そんな瞬の有様を眺めているように見えた。
仮面の下の唇が、今度こそ、ゆっくりとわずかに緩む。笑っている、と呼ぶには冷たすぎる。だが、無表情ではない。何かしらの感情――それが興味か、愉悦か、それとも別の何かなのかは分からないが――が、そこに微かににじんでいた。
そして。
ノワールは、瞬の背後――観察していた中年男の方へと、ちらりと視線を流した。
さっきまでは、ただ男を見ていた。その視線が今は、瞬と男の間をひと撫でし、その二点を一本の線で結ぶように、空間をなぞっていく。
瞬は、その無言の仕草に、妙な意味を読み取ってしまう。
(……繋いだ? 俺と、あの人を?)
問いが胸の中で渦を巻く。だが、その答えを確かめる前に、ノワールの身体の輪郭が、ゆらりと揺らいだ。
非常灯が一瞬、微かに明滅する。
――その一瞬の隙間で、影は薄くなり、次の瞬間には、もうそこにはいなかった。
黒いコートの裾も、仮面の光も、何も残っていない。ただ、そこにあったはずの“影の濃さ”だけが、見えない残像となって瞬の網膜に焼きついていた。
「っ……!」
瞬は、思わず前へと踏み出した。だが、伸ばした手は空を切る。そこには壁と荷物棚しかなく、指先が触れた鉄の冷たさだけが現実だった。
周囲の乗客のざわめきが、急に戻ってくる。
「ちょっと、どうなってんだよ!」と誰かが怒鳴る声。子どもの泣き声。車掌の「落ち着いてください」というアナウンス。それらが一気に耳に流れ込んでくる。
さっきまで、ほとんど消えていた音たちが、急に世界を取り戻したようだった。
(今の……本当に……)
夢じゃない。幻覚でもない。あれは、リエールで見たのと同じ“ノワール”だった。否定しようとしても、身体が認めてしまっている。背筋を這い上がる冷たい感覚が、それを証明していた。
ただ――。
「……あの人」
瞬は、乾いた喉を無理やり動かして、かすれた声を漏らした。
ノワールが視線を注ぎ続けていた中年男。彼は、相変わらずそこに座っていた。ブリーフケースを抱え、落ちつかない様子で足先を揺らしている。
だが、その瞳の奥に、さっきまでとは違う色が宿っていた。
何かに気づいたような――いや、何かを“思い出しそう”になっているような、そんな戸惑い。目の焦点が一瞬だけ宙をさまよい、それからぎゅっと細められる。
その仕草に、瞬の胸は、きゅっと縮んだ。
世界が、再び軋む音を立てる。
床の下から、嫌な浮遊感が立ち上った。重力が一瞬だけ軽くなり、その次の瞬間には、逆に重たくのしかかる。胃の中身が上下に揺さぶられ、喉元まで込み上げてきそうになる。
空気が、ぐにゃり、と歪んだ。
非常灯の光が細く伸び、座席の影が床の上で引きちぎられ、また元に戻る。乗客の声が一瞬遠ざかり、次に近づいたときには、同じ言葉を繰り返している。
――ループだ。
瞬は、歯を食いしばって、その波を乗り切る。身体が勝手に車内の手すりを掴み、足を踏ん張る。何度目か分からない、時間の“巻き直し”。
だが、今度は違う。
さっきのループでは感じなかった“視線の残り香”が、まだ首筋に張り付いていた。
空気が元に戻り、揺れが収まり――また、急停止から数秒後の車内が再現されていく。
丸眼鏡の男が帽子を拾う。母親が子どもをなだめる。スーツケースが通路で止まり、老人の杖が震える。車掌のアナウンスが流れる。
基本のパターンは、変わらない。
だが。
瞬は、すぐに中年男の方へと視線を向けた。
さっきと同じ位置。同じ姿勢。同じブリーフケース。急停止の衝撃で身体をのけぞらせ、前の座席にぶつかりそうになるところまでは、まったく同じように見える。
その後――。
男の目が、ゆっくりと開かれた。
真っ先に向けられるはずだった前方への視線が、今度は一瞬だけ、別の方向へと流れる。それは、まるで、何かを“探すような”動きだった。
瞬の方角ではない。彼の視線は、通路の向こう側――先ほどノワールが立っていた空間を、ほんの一瞬だけかすめた。
そこには、もう誰もいない。暗がりも、黒衣の影も、仮面の光もない。ただの空間。だが、その“何もない空間”に向けられた、その一瞬の焦点が、瞬の目には異様なほど鮮明に映った。
(見た……? いや、感じた……?)
男の唇が、何かを言おうとして、結局何も言わないまま閉じられる。
ブリーフケースを抱える指先が、前のループよりも強く震えている。ケースの留め具をいじるタイミングも、ほんのわずかに早くなっていた。
さっきまでの周回では、その震えには“ただの不安”しかなかった。だが、今の震えには、そこに別の色が混ざっている気がする。
恐怖。あるいは、覚えのない記憶の残滓。――ノワールの視線に晒されたことそのものは、彼の意識には上がってこないのかもしれない。それでも、どこか深いところで“何か”が刻まれてしまったような気配があった。
(……ノワールの目的は、あの人だ)
瞬の胸が、ざわりと波立つ。
ループの中で、微細な差異だけを追い続け、観察し、その結果をまた次のループへと持ち込む。それを繰り返して、観察対象の“変化”を引き出していく。まるで、何度も実験を重ねて、少しずつ条件を変えながら、望む結果に近づけていく科学者のように。
その過程の“どこか”に、自分も組み込まれてしまったのだとしたら――。
背筋に、冷たいものが走る。
ノワールは、ループを使って、“何か”を探している。リュカが言っていた推理が、現実の感触を伴って突きつけられてくる。探しているものは、この列車のどこかにある。少なくとも、その手掛かりは、あの中年男の中に。
そして、その過程を、ノワールは、瞬にも見せつけている。
ループが再開した直後から、空気は前とは違っていた。ざらりとした感触。ひっかかる呼吸。ノワールの視線にさらされた世界は、それだけで、もとの“繰り返し”とは別の位相へと押し出されてしまったように感じられる。
(俺は……見られてる)
そう思った瞬間、心臓がもう一度、大きく跳ねた。
ループそのものの中に、“視線”が潜んでいる。巡る刻の奥底に、黒い影が静かに身を潜め、列車の中をじっと覗き込んでいる。その視線は、瞬の背中にも、確かに触れていた。
息を吐く。肺の中の空気が、異様に重かった。
「……っ」
喉の奥から、言葉にならない音が漏れる。
ノワールは、もういない。だが、その不在こそが、今は何よりも恐ろしかった。見えている影よりも、見えなくなった視線の方が、ずっと肌にまとわりついてくる。
車内のざわめきは、先ほどのループとほとんど同じ調子で続いている。だが、瞬の耳には、その一つひとつが、微細な違いを孕んでいるように聞こえた。
丸眼鏡の男の愚痴も、母親の慰めも、子どもの泣き声も。すべてが、見えない誰かに“見られている”ことを前提にした芝居のように思えてしまう。
――巡りの中に、潜んでいる視線。
その存在を知ってしまった以上、瞬はもう、元の“何も知らない乗客”に戻ることはできない。
胸の奥で、恐怖と同時に、小さな決意のようなものが芽生え始めていた。
(だったら――俺も、見る)
ノワールが何を見ていて、何を探しているのか。ループの中で、何を変えようとしているのか。
怖くても、目を逸らさない。そうしなければ、自分たちは、ただの“観察対象”のままで終わってしまう。
瞬は、汗で湿った手のひらを、そっと膝の布地で拭い、もう一度、中年男の方へと視線を定めた。
――巡りは、まだ続く。
その奥で潜む視線が、何を求めているのかを知るまで。




