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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第24話「交差する視線」

 朝の光は、ギルドの前庭を斜めに横切っていた。


 石畳にはまだ夜露が薄く残り、踏みしめる靴底の下で、かすかな湿りを返してくる。眠気の残る空気の中、瞬はほおを冷たい風に撫でられながら、荷の積み下ろしを手伝っていた。昨夜遅くまで報告書の追補を書かされ、寝不足気味の頭を、朝の光がじわじわと覚ましていく。


「……ふぁ」


 欠伸を噛み殺しながら、倉庫から出てきた木箱を両腕で抱え上げる。木の匂いと油の匂いが混ざったその箱は、思ったよりも重かった。


「おい、ぼさっとするな。落としたら中身ごと時層の彼方だぞ」


 低い声が背後から飛んでくる。ガイルだ。いつもの仏頂面で腕組みをして、瞬の動きをじっと見ている。注意なのか、単なる口癖なのか、本人に訊いたことはない。


「はいはい、ちゃんと持ってますって」


 瞬は苦笑しながら、箱を荷台に載せた。その瞬間――。


 石畳の先、通りの奥から、異質な音が近づいてくるのが分かった。


 規則正しく響く蹄の音。車輪が石を踏むゴトゴトという振動。そして、空気の張りが、わずかに変わった。通りに漂っていたざわめきが、そこだけ静かになったような感覚。


 視線を向けると、朝の光を切り裂くようにして、一台の馬車がゆっくりと近づいてくるところだった。


 黒に近い深い紺色の車体。左右の扉には、見慣れた紋章が銀で刻まれている。時間をかたどった輪と、その中心を貫く剣――時政院の紋章だ。


「……時政院、か」


 隣でガイルが、低く呟く。


 その声には、うんざりとした響きと、それを上から押さえ込むような緊張が混ざっていた。彼は腕組みを解き、表情を自然と引き締める。ギルドの支部長としての顔だ。


 瞬の胸が、きゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。


(なんで、時政院の馬車が……?)


 リエールからの正式な報告は、とっくに時政院に送られている。だが、それに対する返答が直接支部に届くにしては、少し早いような気がした。いや、そういう常識が通じない相手だということも、分かってはいる。


 馬車がギルドの門の前で止まる。馬が鼻息を吐き、革の綱がきしんだ。御者が手綱を引き締めると、車体の扉が内側から開く。


 最初に現れたのは、きちんと整えられた黒いブーツ。続いて、膝丈のコートの裾。最後に、肩までの長さでまとめられた淡い茶色の髪。


 一歩、彼女が石畳に足を下ろしたとき、ほんのわずかに肺に空気を吸い込む気配が見えた。緊張を抑え込むための、小さな呼吸。


 書類を胸に抱え、背筋をぴんと伸ばしたその女性は、朝の光を受けてきらりと光るバッジを胸元につけていた。時政院監察部の紋章だ。


 瞬の胸のざわつきが、少し強くなる。


「時政院か……厄介だな」


 ガイルが深くため息を吐き、しかしすぐに、一歩前へ出る。支部長としての礼を欠くわけにはいかない。瞬にだけ聞こえるような小声で、「お前は荷を片付けてろ」と釘を刺してから、彼は馬車のほうへ向かった。


「えっ、なんでここに?」


 思わず口から漏れた言葉は、ガイルの背中に吸い込まれていくだけだった。馬車の前では、使者の女性――セラが、静かに頭を下げるところだった。


 その横顔は、朝の光を受けて淡く縁取られている。固い線で形作られた口元は、きちんと礼儀正しい微笑みを浮かべているが、その奥にある表情までは読めない。


 遠くからその様子を見ているだけなのに、瞬の胸のざわつきは、なぜか収まらなかった。


 ギルドの応接室は、普段はあまり使われない部屋だ。


 古い木製の応接机と、革張りのソファが二脚。壁には、過去の大きな依頼の記録や、表彰状が簡素な額に入れられて並べられている。天井から吊るされたランプは控えめな光量で、窓から入る自然光が、部屋全体を柔らかく照らしていた。


 テーブルの上には、メリルが慌てて用意した紅茶のセットが置かれている。白い湯気が、薄い香りとともに立ち上っていた。


 セラは、椅子に浅く腰かけ、背筋を伸ばしていた。膝の上に置かれた書類の束に、両手を添えている。指先はぴんと伸び、余計な動きはひとつもない。


「改めまして、時政院監察部所属、セラ・ルヴェンと申します」


 落ち着いた声だった。若さは感じるが、張り上げることなく、必要なだけの音量で、必要なだけの抑揚が乗せられている。


「ギルド西方支部支部長、ガイルだ」


 対面に座るガイルも、いつものぶっきらぼうな口調に、ほんの少しだけ丁寧さを加えた声で応じる。


 彼の腕は、腕組みの形を取りかけて、途中でほどかれた。支部長としての顔と、普段の癖が衝突した結果の、ぎこちない形だ。


 応接室のドアの外側で、瞬は壁に背を預けていた。


 ドアは完全には閉じられておらず、ほんの少しだけ隙間が空いている。そこから漏れてくる声は、音にならないほどに小さいが、雰囲気だけは伝わってくる。


 紅茶の香りが、隙間から細く流れ出していた。思わず喉が鳴りそうになるが、今この状況でそんな音を立てる勇気はない。


(監察部、って……監視とか、そういうやつだよな)


 時政院の中でも、特に時層事件や時間干渉に関する監察を行う部署。リエール事件の報告書に、自分の名前も書かれていることは知っている。あのときの異常な共鳴――リュカが「特異点候補かも」と冗談半分、それでいて冗談に聞こえない口調で呟いた言葉が、頭をよぎる。


 胸の奥のざわつきが、さっきよりも強くなった。


 ガイルの声が、ドアの隙間越しにわずかに聞こえる。


「で、わざわざ監察部のお偉方が赴いてくるとはな。リエールの件だけで、そこまで大事になってるとは思わなかったが」


「“大事”になっているのは、リエールだけではありません」


 セラの声は、淡々としている。


「複数の時層帯で、自然の揺らぎとは異なるパターンの事象が報告されています。西方帯は、そのひとつです」


「つまり、この支部と……うちの連中が、その渦中にいる可能性があると」


「可能性、ではなく、ほぼ確実と考えています」


 即答。その迷いのなさに、瞬は思わず喉を鳴らしそうになった。


 緊張と、知らないところで自分の名前が出ているかもしれないという不安。それを誤魔化すように、彼は深呼吸をひとつして、背中を壁に押し付ける。


 ドアの向こうでは、形式的な挨拶に続いて、具体的な話が進んでいく。


 セラは必要以上に言葉を飾らない。かといって失礼にもならない、ぎりぎりの線で言葉を選んでいる。任務として、ここに来ている。その姿勢が、声だけでも伝わってくる。


(真面目そうな人だな)


 そんな感想が頭をよぎる。


 それと同時に、胸のざわつきは、なぜか静まらないまま、じりじりと続いていた。


「……入れ」


 ガイルの声は、内側から聞こえた。


 それが自分に向けられたものだと理解するまで、一瞬の間が空く。瞬ははっとして、ドアの隙間から背中を離した。


「はい!」


 思ったよりも大きな声になってしまい、自分でびくっとする。ノブを握る手に力が入り、硬くなった指先で、ドアを押し開けた。


 応接室の空気は、廊下よりもひんやりとしていた。窓から差し込む光が、中央のテーブルを斜めに照らしている。その上には、紅茶のカップがふたつ。湯気は、もうほとんど消えかけていた。


 ガイルがソファに腰を下ろした状態でこちらを振り返る。その視線の先に、テーブルを挟んで座るひとりの女性がいる。


 セラ・ルヴェン。


 瞬は、その名前をまだ知らない。ただ、目の前にいる彼女の姿を、言葉を失って見つめていた。


 淡い茶色の髪は後ろで簡素にまとめられ、顔周りはきちんと整えられている。制服は時政院のものだが、装飾は少なく、動きやすさを重視した仕立てだ。その胸元には、監察部の紋章がきらりと光る。


 彼女の視線が、座ったまま、まっすぐに瞬へと向けられた。


 観察する目だ、と瞬は直感した。


 敵意でも、好意でもない。ただ、対象を正確に理解しようとする意志だけが、その目に宿っている。まるで試験官のような、あるいは、検査官のような――そんな冷静さ。


「こいつが、一ノ瀬瞬だ」


 ガイルが言う。


「リエールの件で、報告に上がっていた名です」


 セラは小さく頷きながら、椅子から立ち上がった。礼儀として、対面する相手には立って挨拶する、それが彼女の中のルールなのだろう。


 瞬も慌てて頭を下げる。礼の仕方がぎこちないことは自覚しているが、直し方が分からない。


「えっと……一ノ瀬瞬です。時層ギルドの……見習い、です」


 名乗りながら、自分の声が少し上ずっているのが分かる。


 セラは、そのわずかな揺れまでも見逃すまいとするかのように、じっと彼の顔を見つめていた。


「時政院監察部所属、セラ・ルヴェンです」


 短く名乗ったあと、彼女は微かに顎を引いた。礼を兼ねた動きだ。


 瞬は、その所作の正確さに、思わず「うわ、真面目そう」と心の中で呟いた。


 視線が交差する。


 一瞬、時間がゆっくりになったような感覚があった。窓から差し込む光が、彼女の瞳の中で反射して、細い光の筋を作る。その奥は、深く静かだが、まったく揺れていないわけではなかった。


(この人が……)


 何者なのか、自分はまだ知らない。


 ただ、今、自分をまっすぐに見ていることだけは分かる。その視線の重さに、喉が少し乾いた。


 ガイルが、気まずさを誤魔化すように、咳払いをひとつした。


「座れ。話は長くなるかもしれん」


「あ、はい」


 瞬はソファの端に腰を下ろした。背筋を伸ばすべきか、少し楽に座るべきか迷い、結果として変に中途半端な姿勢になる。自分の膝の上で組んだ手に、余計な力が入ってしまう。


 セラは座り直し、膝の上の書類を静かに開いた。そこには、リエールでの調査報告書の写しと、時政院内での追加の分析が挟まれているらしい。紙の匂いがふわりと漂った。


「まず、リエールでの行動を確認します」


 セラの声は、淡々としていた。


 紙をめくる音が、静かな応接室に小さく響く。窓の外では、風が木の枝を揺らし、その影がカーテン越しにちらちらと動いていた。


「一ノ瀬瞬。あなたは、ギルドの調査隊の一員としてリエールに赴き、大時裂跡地の調査にも立ち会った。間違いありませんね」


「え、あ……はい」


 緊張で、返事にわずかな間が空いてしまう。瞬は慌てて言葉を継いだ。


「現地の案内と、時層の状況確認を、フィアさんとリュカと一緒に……アンナも。その……」


 あの日の光景が、頭の中に戻ってくる。崩れた街並み、巻き戻る瓦礫、時間の逆流。胸の奥に、まだ生々しく残っている。


「巻き戻り現象の直前、あなたは“違和感”を感じていたと報告されていますね」


「それは……えっと、たぶん。胸がざわついて、地面の下から変な感じがして」


「その“変な感じ”を、言葉にできますか」


 セラは視線を落とし、書類に目を通しながら質問を続ける。その口調はあくまで事務的だが、ただの確認以上の何かを探っている気配も、薄く感じられた。


「言葉、ですか……」


 瞬は言葉に詰まる。


 あのとき、自分の感覚は、言葉という形にするにはあまりに曖昧で、粗くて、どう表現していいか分からなかった。時間がざわめく、あるいは、時間が泣いている――カスミがそう言ったとき、やっと近い言葉を見つけた気がしたくらいだ。


「地面の下から、何かが……“ほどけていく”感じでした。流れが逆になって、戻るっていうより、元あった場所から抜け出そうとしてるみたいな」


「ほどけていく」


 セラの手が、一瞬、止まる。


 彼女は顔を上げ、瞬の表情を一瞥した。その瞳は、再び観察者のそれになっている。瞬の選ぶ言葉、その裏にある感覚を、少しでも正確に掴もうとしているかのようだ。


「その感覚は、リエールに行く以前にもありましたか」


「……似たのは、何度か。時層がズレてる場所に入ったときとか。でも、あそこまで強いのは、初めてでした」


「リエール以降は?」


 続く質問に、瞬は一瞬だけ言葉に詰まる。


 ギルドで感じた「欠けた頁」の違和感。記憶の穴。フォルの本。時間の揺らぎと、自分の中の揺らぎが、どこかで繋がりかけているような感覚。それら全部を、ここで話していいのかどうか、迷いが生まれる。


「……はっきりとは、まだ」


 曖昧な答えになってしまう。


 セラは、すぐには次の質問を投げなかった。書類に視線を落とし、ペンを走らせる。その手つきは速く、迷いがない。だが、その眉間には、ごくわずかに皺が寄っていた。


 ガイルが、タイミングを見計らったように口を挟む。


「こいつは、言葉にするのが下手なだけだ。現場で見せた反応は、報告書に書いた通りだ。お前らの標準から見れば異常なんだろうが、本人に自覚は薄い」


「それは理解しています」


 セラは短く頷き、ガイルに一瞥を送ると、再び瞬へ視線を戻した。


「あなた自身は、自分の“異常さ”を、どう認識していますか」


 真正面からの問いだった。


 瞬は、一瞬だけ笑ってごまかそうかと考える。しかし、その場の空気と、セラの真剣な目が、それを許さない。


「……正直、よく分からないです。今までずっと、自分の感覚は“役に立つかもしれないけど、変なんだろうな”って思ってたくらいで」


「変、とは?」


「みんなが何も言わないときに、怖くなったり、逆に落ち着いてたり。時層が揺れてるって言われる場所で、何も感じなかったり、その逆だったり」


 言葉を重ねるうちに、自分の中の違和感が、少しずつ輪郭を持ち始める気がした。


「でも……リエールで、時間が巻き戻るのを見たとき、怖いっていうより、“ああ、やっぱり”って……どこかで思ってた自分がいました」


 セラの瞳が、ほんのわずかに見開かれる。


 それは驚きというより、予想していた答えの一端が確認されたときの微細な反応に近かった。


「“やっぱり”とは」


「時間は、もっとめちゃくちゃなんじゃないかって。普通に流れてるように見えてるのは、たまたまで。どこかでぐちゃぐちゃになってるんじゃないかって、ずっと……」


 言葉にしてみて、初めて自分でも驚いた。


 そんなことを考えていた自覚はなかった。ただ、心のどこかで、世界はもっと壊れやすいと感じていたのかもしれない。過去と未来が混じり合って、今が簡単にねじれてしまうような感覚。それを、リエールで現実として突きつけられたとき、自分の中の何かが「ほら」と頷いたのだ。


 セラの表情は、ほとんど変わらない。だが、その目の奥で、何かがわずかに動いた気がした。


「……なるほど」


 彼女は短くそう言い、書類にさらさらと何かを書き込む。


 瞬は、膝の上で組んだ手に汗が滲んでいるのを感じながら、自分の胸のざわつきの正体を測ろうとしていた。


(この人は……俺を、どう見るんだろう)


 時政院監察部。その視線が、自分にどんな色をつけるのか。特異点候補としての数字だけを見て判断されるのか、それとも――。


 応接室を出るころには、夕方の気配がギルドを包み始めていた。


 質疑応答は、思ったよりも淡々と進んだ。セラは感情を大きく表に出すことなく、必要な質問をひとつひとつ投げ、その答えを淡々と記録していった。ガイルは要所要所で口を挟み、ギルドとしての立場を守る言い回しを挟んだ。


 瞬自身も、最初の緊張は徐々に薄れたが、完全にほぐれることはなかった。セラの質問には、敵意も好奇も少なかったが、それでも「見られている」という感覚は終始消えなかったからだ。


 それでも、いくつかの質問に答えるうち、彼はふと妙な思いも抱いた。


(この人、全部を疑ってるわけじゃないんだ)


 彼女の目は、嘘や矛盾を探すためだけのものではなかった。どこかで、「理解したい」という意志も感じられた。瞬が言葉を探してもたつくとき、そのもたつきの中身を探ろうとしているような、そんな視線。


 そのことに気づいたとき、瞬は少しだけ、自分の喉にまとわりついていた緊張が和らぐのを感じた。


 やがて、すべての質問が終わり、セラは書類を閉じた。


「本日は、ご協力ありがとうございました」


 彼女は椅子から立ち上がり、深く一礼する。ガイルも立ち上がり、形式的な言葉とともに見送りの挨拶を返した。


 応接室を出て、玄関へ向かう廊下を歩くあいだ、セラはほとんど口を開かなかった。足音だけが、石の床に規則正しく響く。


 玄関ホールには、メリルがすでに待機していた。旅券の確認や簡単な手続きが必要だからだ。


「お見送りはここまでで構いません」


 セラはそう言い、ほんのわずかに頭を下げた。任務の一環として、礼儀の一部として、それが彼女にとっての正しい距離なのだろう。


 外に出ると、空はすでに薄く曇り始めていた。


 昼の青さは褪せて、雲の隙間から覗く光だけが、街並みに淡い色を落としている。遠くで、時層の揺らぎが雷のような低い音を立てた。雨が降るのか、それとも、別の時間の気配なのか。


 ギルド前の石畳には、朝と同じ場所に馬車が停まっていた。馬は鼻を鳴らし、前足で地面を軽くかく。その横で御者が控えている。


「本日は、ありがとうございました」


 セラはガイルに向き直り、丁寧に頭を下げた。


「あんたらが何を考えていようと、うちはうちの仕事をするだけだ。……あんまり、現場の足を引っ張るような真似だけはしないでくれ」


 ガイルの言葉には、皮肉が半分、本音が半分混ざっている。


 セラは、その棘を正面から受け止めたうえで、淡々と頷いた。


「現場の協力なしに、時間秩序の維持は成り立ちません。足を引っ張るつもりはありません。ただ、必要な監察を行うだけです」


「そいつが厄介なんだがな」


 ガイルは肩をすくめるが、これ以上は何も言わない。ギルドと時政院、その関係性はいつだって微妙なバランスのうえに成り立っている。それを、今ここで崩すわけにはいかなかった。


 そのやりとりを、瞬は少し離れた位置から見ていた。


 玄関の庇の下、石段の一段上。ほんの数歩歩けば、セラに声をかけられる距離。だが、何をどう言えばいいのか分からず、足が石に貼りついたみたいに動かなかった。


 セラが馬車のステップに足をかける。


 そのとき、不意に、彼女の視線が横に滑った。


 庇の影に立つ瞬の姿を、捉える。


 一拍。


 時間が、すこしだけ長く伸びたような感覚。


 セラの瞳は、相変わらず深く静かだ。だが、先ほど応接室で見せた純粋な「観察者」の目とは、どこかが違っていた。


 任務としての対象を見る目の裏側に、微かな何か――言葉にしづらい揺らぎが、ほんのわずかに浮かんでいる。戸惑いか、興味か、それとも別の感情か。


 瞬は、その変化を、なぜか敏感に感じ取った。


 胸のざわつきが、さっと形を変える。警戒でも恐怖でもない。もっと曖昧な、しかし確かにそこにあるもの。自分を見ている誰かの視線が、自分のほうに「寄ってくる」瞬間の感覚。


「あ、えっと……本日は、その……ありがとうございました」


 結局、出てきた言葉は、なんとも締まりのないものだった。


 自分でも情けないと思いながらも、その一言に、自分なりの精一杯の真剣さを込める。リエールの件で、自分たちが見たもの、感じたもの。それを、遠い政庁の中だけで処理されるのではなく、現場に足を運んだ誰かが受け止めてくれた。その事実に対する、拙い感謝。


 セラは、一瞬だけきょとんとしたように瞬を見た。すぐに、その表情は元の固さに戻る。


 だが、ほんの刹那、彼女の目の奥に、微かな動揺のようなものが走ったのを、瞬は見た気がした。


「……任務の一環です」


 返ってきた言葉は、やはり形式的だ。


 それでも、その声の端に、ごくかすかな柔らかさが混ざっていたようにも思えた。


 セラは、瞬に向かって、ほんのわずかに顎を引いた。礼とも頷きともつかない、小さな動き。それが彼女の精一杯の応答なのだろう。


 そして、馬車に乗り込む。


 扉が閉まる直前、もう一度だけ、視線が交わる。


 瞬の胸のざわつきは、収まるどころか、少しだけ形を変えたまま、そこに残った。危険の前触れとも、救いの始まりともつかない、曖昧な感覚。


 馬車がゆっくりと動き出す。


 石畳の上で車輪が回る音と、蹄のリズム。時政院の紋章が、朝とは違う夕方の光を受けて、わずかにきらりと光った。そのまま、通りの角を曲がり、視界から消えていく。


 残されたギルドの前庭には、薄い風が通り抜けるだけだった。


 瞬は、去っていった馬車の方向を、しばらくのあいだ、ただじっと見つめていた。


(なんだ、今の……)


 初めて会ったはずの人なのに。名前も立場も、まだほとんど知らないのに。あの視線の交差は、どこかで「始まり」のような気配を纏っていた。


 それが何の始まりなのかを、今の瞬はまだ知らない。


 ただ、自分の世界が、ギルドの壁の内側だけではなくなりつつあることだけは、なんとなく感じていた。時政院の眼差しが、遠くの政庁の石造りの壁の中からではなく、今この場所に、直接届き始めている。


 交差した視線は、簡単には解けない糸のように、胸のどこかにひっそりと結び目を残していた。

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