第23話「降りる選択」
ギルドの資料置き場は、いつも薄暗くて、少しだけ埃っぽい。
任務報告書や過去の依頼記録、地図や古い時層データなどが、棚にも机にも、そして床にも、ほとんど分類されているとは言いがたい状態で積み上がっている。天井からぶら下がった小さなランプがひとつ、揺れる炎でその混沌を照らしていた。
「……うわ、また増えてる」
瞬は思わず眉をひそめた。リエールから戻ってきたあとの数日、まとまった休息をとることもなく、報告書や補足の聞き取りでバタバタしていた。その余波なのか、資料置き場の混雑もいつも以上だ。
「ねー、文句言わない。増やしてる犯人はだいたいうちの父さんとあんたなんだからね?」
資料の山の向こうから、メリルの声が飛んできた。彼女は椅子の上に片膝を立てるみたいな器用な姿勢で、棚の上段に突っ込まれた紙束を引っ張り出している。栗色の髪がランプの光を受けてちらちらと揺れた。
「俺そんなに……いや、言われてみれば書いてるか」
「ほらねー?」
軽口を交わしながらも、瞬の視線は無意識に部屋の奥へ向かう。あの夜、帰還直後に感じた「欠けた何か」の違和感は、完全には消えていない。仕事に追われて紛れているだけで、ふとした拍子に胸の奥でざらりと顔を出す。
そのざわつきをどう扱えばいいのか分からず、とりあえず目の前の仕事に逃げるように、彼も山積みの資料に手を伸ばした。
「リュカ、これ整理どうするんだ? 年代順? 地域別?」
机の端に肘を突きながら、床に座り込んでいる青年に声をかける。リュカは丸めた背中の上で白衣をくしゃくしゃにさせながら、分厚い報告書をめくっていた。乱雑な黒髪の隙間から覗く目は、相変わらず紙面に釘付けだ。
「両方。まず年代ごとにざっくり分けて、その中で地域と事案の種類でタグ付けする。……でないと、あとで僕が死ぬ」
「今は俺たちが死にそうだけどな」
冗談めかして言いながら、瞬は近くの束を抱え上げる。紙が擦れる音と、古びたインクの匂いが鼻をくすぐった。そのとき――。
「あ」
メリルの短い声が、棚の向こうから落ちてきた。
「ん、どうした?」
「ねぇ瞬、これ……ギルドにこんなのあったっけ?」
彼女が両手で抱えてこちらへ突き出してきたのは、一冊の本だった。
雑多な紙束や薄い冊子に紛れていたせいで、その存在にまったく気づいていなかった。ほかの資料と違い、それはきちんと表紙を持った「本」だった。濃い黒の装丁に、銀色の細い線が、何かの文様のように絡み合いながら走っている。
ランプの光を受けても、黒はあまり反射しない。光を飲み込んでいる、という表現のほうが近い気がした。
瞬は、なぜかわからない吸引力に喉の奥を鳴らした。
「そんな立派なの、うちのギルドの予算じゃ買ってないと思うけどねぇ」
メリルは冗談めかして言いながらも、その本を見つめる目に、いつもの軽さとは違う慎重さを滲ませていた。
リュカが顔を上げる。視線が黒い装丁に触れた瞬間、彼はわずかに目を細めた。身体を起こし、メリルの手元を覗き込む位置まで近づいてくる。
「……触るな。出所が怪しい」
「え、いきなり物騒な言い方するね」
「その装丁、見覚えがあるんだ。時層思想家……フォル・ナシュタルの著作だろう」
フォル。
聞いたことのない名前――のはずなのに、その響きが鼓膜に残る感触が妙に重い。瞬は、その名前だけで、どこか冷水を浴びせられたような感覚を覚えた。
「フォル・ナシュタル……って、あの“降りるだのなんだの”言ってる変わり者?」
「正式には“時間哲学批判者”とか“無時論者”とか呼ばれてるけどね。どっちにしても、ギルドの資料置き場に紛れ込ませるような本じゃない」
リュカの声は淡々としているが、その足が本から半歩ほど距離を取っているのを、瞬は見逃さなかった。
「でも、もうここにあるし」
メリルは、そう言ってわざとらしく肩をすくめてみせる。
「出所、確認しとく? 誰が紛れ込ませたのか。……それとも、まとめて燃やしちゃう?」
「燃やす前に、僕が中身を確認する。危険度を判断しないと」
「いや、燃やす前提なんだ……」
軽口を叩きながらも、瞬の視線は本に吸い寄せられていた。黒い装丁の中央に、小さな銀色の文字がある。
――『降りる選択』。
読み上げるだけで、喉の奥が乾くような題名だった。
ページを開いたのは、ほとんど衝動のようなものだった。
表紙の擦れ具合に比べて、中の紙は妙に新しい。黄ばみも少なく、指でなぞると乾いた感触が返ってくる。印刷は手書きの文字をそのまま写し取ったような書体で、行間と文字間に微妙な歪みがあり、整っていないのに、だからこそ目を離しにくい。
「どれどれ……」
メリルが隣から覗き込む。リュカは少し離れた位置に立ったまま、しかし目はしっかりとページの上を追っていた。
最初の数行は、前置きのようなもので、哲学書らしい難解な言い回しが並んでいた。だが、数ページめくったところで、瞬の視線にひとつの章題が飛び込んでくる。
――「時間から降りるということ」。
喉が、ごくりと鳴った。
「時間とは檻であり、降りることは自由である」
思わず、声に出して読んでしまう。
資料置き場の空気が、一瞬だけ重くなったように感じた。ランプの炎がゆらりと揺れ、その影が黒い装丁をなぞる。
「なにそれ、怪しい宗教のキャッチコピーみたい」
メリルは軽く眉をひそめて笑った。
「“檻”っていう比喩は、古典思想にもあるけど……フォルの文脈だと意味が違う。あいつは時間そのものを否定しようとする」
リュカの声は、いつになく固い。
ページの文章は、流れるようでいて、不意に引っかかる。時間は直線ではない、過去も未来も人為の解釈に過ぎない、人が時間に縛られるのは“選択”を委ねてしまっているからだ――そんな文が、咀嚼しきれない比喩とともに綴られていた。
瞬は、行を追いながら、胸の奥で微妙な違和感が生まれるのを感じた。
(時間から……降りる?)
意味は分かるようで、分からない。時間の流れに沿って生きることを“乗り続ける”ことだとするなら、そこから「降りる」とは、どういう状態なのか。生きることをやめる、という意味なのか。それとも、時間と切り離されたところに立つ、ということなのか。
数日前、リエールの廃墟で聞いた“泣いている時間”の気配と、頭の中で何かがうっすらと繋がりかけて、すぐに霧散していった。
「フォルの本は、まともに読めば読むほど感覚がおかしくなる。認知的毒性が高い、ってやつだ」
リュカが淡々と言う。
「認知的毒性って、なんかこう、頭痛くなりそうな単語……」
「実際、長く触れてると頭痛がするっていう報告もある。フォルは“時間から降りた者”を理想化する。……その理想像に、現実の人間が引きずられるんだ」
その言葉に、瞬の指先がぴくりと動いた。
ページの一節に、目が止まる。
『降りるとは、抗い続ける努力を放棄することではない。むしろ、抗うことそのものを、不必要な選択肢として棚に戻す行為である。』
(……棚に、戻す)
誰かが、自分の記憶の一部を棚から抜き取り、どこかへ戻してしまったような――そんな感覚が、ふと胸を掠めた。
リエールの記録庫。赤ん坊の記録。思い出そうとすると、頭の中に濃い靄がかかる。あの「欠けた頁」の感触が、生々しく蘇る。
「瞬?」
メリルの声で、はっと我に返った。
「え、あ、なに?」
「急に顔色悪くなったから。……やっぱりこの本、変な気配あるよ」
メリルは本と瞬の顔を交互に見比べて、唇を尖らせる。
瞬は慌てて笑みを作ろうとしたが、頬がうまく動かない。
「ちょっと、文が難しいなって思っただけ」
「それだけでそんな顔にはならない」
リュカの観察するような視線が、横から刺さる。彼は腕を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「フォルの思想に、今の瞬は触れないほうがいい」
「……なんで、“今の”ってつけるんだよ」
「最近、君の時層共鳴値は上がりっぱなしだ。リエールでの記録もそうだし――」
言いかけて、リュカは一瞬、言葉を飲み込んだ。瞬の視線が、無意識のうちにリュカから逸れて、本のページへと再び落ちていく。
そこにある言葉のいくつかが、妙に光って見えた。
――『時間の外側に立つこと』。
――『流れに身を任せるのではなく、流れから降りる覚悟』。
(……どうして、こんなに引っかかるんだ)
胸の奥のざわつきが、少しずつ形を持ち始めていく。リエールで見た巻き戻る時間、アンナの失われた家族、大時裂、人為的な裂け目。そして自分の中の「穴」。
それら全部から「降りてしまえ」と囁かれているような、そんな錯覚。
ページの上で、文字がじわりと滲んで見えた。
ランプの火が弱くなったわけではない。目の奥が熱を帯びて、視界の一部に薄い靄がかかったのだ。瞬は、無意識に額に手を当てる。
「瞬、本当に大丈夫?」
メリルの声は、さっきよりも少し低く、不安を含んでいた。
資料置き場の空気が重くなっていく。紙とインクの匂いに、言葉にしづらい別の匂いが混ざる。濡れた鉄のような、古びた血のような――そんな錯覚が、鼻腔を掠めた。
『時間から降りることは、痛みから降りることと同義ではない。痛みを感じる主体そのものから、一度退くことだ。』
その一文が、まるで誰かの囁きのように、頭の中でくっきりと響いた。
(時間から……降りる)
瞬は唇を噛む。
もし、本当にそんなことができるなら。大時裂でアンナの家族が失われた瞬間から降りることができたなら。リエールの崩落から降りることができたなら。過去を変えることも、未来を変えることもなく、その「痛みのある時間線」そのものから離れることができたら――。
「瞬」
リュカの低い声が、思考に割り込んだ。
「わかるようでわからない言葉に、意味を与えようとしすぎるな。フォルの文章は、そうやって読み手の中に“空白”を作る。それを、あいつの思想で埋めさせようとする」
瞬は、ゆっくりと視線を上げた。
リュカの瞳は、冷静で、真剣だった。好奇心で光るいつもの目ではない。計算と警戒を含んだ眼差しだ。
「……そんなに、危険なのか」
「危険だ。時間秩序から降りろ、なんて思想は、時政院からすれば反逆的だし、実際、フォルの言葉に影響された時間干渉者が何人も暴走してる」
「なにそれ、フォル教団とかあったりするの?」
メリルが冗談めかして言うが、その目は笑っていない。
「名前は変えてるけど、似たような集団はある。自分だけ“時間の外側”に立とうとした連中の末路は、大抵ろくなものじゃない」
リュカは小さく肩をすくめた。
「だから、これは危険思想だ。時間干渉を正当化する連中の言葉でもある。……少なくとも、今の段階で、瞬が深く関わっていいものじゃない」
「でも、“降りる”って……」
言いかけて、自分の声が湿っていることに気づく。
降りる、という言葉は、瞬にとって妙に甘く響いた。過去を変えることも、未来を信じることも、どちらも選びきれないとき、「そこから降りる」という選択肢が用意されているとしたら――それは、危険な魅力を宿した言葉になり得る。
「考えるな」
リュカの声が、ぴしゃりと、その思考に蓋をした。
彼は伸ばした手で、本をぱたんと閉じる。机の上に、やや大きめの音が弾んだ。黒い装丁が、再び光を飲み込む。
リュカの指が、本からわずかに距離を取っているのがわかる。触れられる距離にありながら、あえて触れないその仕草に、彼の警戒の強さが表れていた。
「……分かった」
そう答えながらも、瞬の視線は本から離れない。
表紙に刻まれた銀色の線が、先ほどよりも濃く見えた。そこに書かれた題名――『降りる選択』という文字が、目に焼き付いて離れない。
「メリル、保管場所を変えよう。これは、一般資料とは別枠だ」
「別枠っていうか、鍵付きの棚にでも入れとく?」
「そうだね。閲覧許可を制限する。僕とガイル支部長、それから……必要なら瞬も、監視付きで」
「監視付きって」
「君が嫌がっても、だ。これはそのくらいの代物」
冗談めかした口調ではあったが、リュカの表情はほとんど崩れない。その真剣さに、メリルもさすがにふざけるのをやめ、小さくうなずいた。
「じゃあ、一旦事務室のほうに回しとくよ。父さんにも報告しなきゃだし」
メリルが本を抱えようとして伸ばした手が、ほんの一瞬だけためらい、次の瞬間にはしっかりとそれを掴んでいた。彼女の指先に伝わる感触が、わずかに強張りを伴っているのが分かる。
瞬は、その様子を、ただ黙って見ていた。
――降りる。
頭の奥で、その言葉だけが、何度も反芻されていた。
夜になっても、資料置き場のランプだけは消されないことが多い。
依頼の時間がずれ込んだり、時層の揺らぎに応じた緊急対応が入ったりすると、誰かが深夜まで書類と格闘することになるからだ。だが今夜は、階下から響いてくる話し声もいつもより少なく、ギルド全体が薄い眠りに入っているようだった。
机の上には、黒い装丁の本が一冊、ぽつんと置かれている。
メリルは一度は事務室へ運ぼうとしたが、途中で別の用事を思い出したらしく、「ちょっと待っててね」と言い残して駆け出していった。そのまま戻ってこないところを見ると、他の仕事に捕まったのだろう。
資料置き場には、今、瞬ひとりだけだ。
本を閉じたはずなのに、その存在感はむしろ増していた。ランプの光が装丁の銀の線をかすかに浮かび上がらせる。その線が、見ているうちにゆっくりと動き出すような錯覚さえ覚える。
瞬は、椅子に腰かけたまま、本と睨めっこをしていた。
触れようとすれば、手を伸ばせば、またページを開くことができる。だが、リュカの言葉が頭の隅で鋭く光っている。「考えるな」。あのときの真剣な眼差しが、視線を本から引き離そうとする。
それでも――。
(降りる)
たった二文字の動詞が、こんなにも重く感じるとは思わなかった。
リエールから戻ってきて以来、自分の記憶には穴が空いている。赤ん坊の記録。自分に似た顔。塗り潰された名前。思い出そうとすると、頭の奥で靄が濃くなり、痛みが走る。
その痛みからも、「降りる」ことができるのだろうか。
いや、それは違う。フォルの本が言う“降りる”は、痛みから逃げることじゃない、と書いてあった。痛みを感じる主体そのものから退く、と。
(じゃあ、僕はどこへ行くんだ)
自分が「時間の外側」に立つ――その言葉のイメージは、魅力と恐怖を同時に連れてくる。
もし、本当に外側に立てたとしたら。アンナの悲劇も、大時裂も、ノワールの影も、自分の記憶の穴も、全部、「外から眺めるだけのもの」になるのだろうか。そこに関わらず、痛みも責任も持たない場所に、行けてしまうのだろうか。
「……そんなの、ずるいよな」
口の中で転がした言葉は、自分に向けたものだった。
誰も救わない。誰も助けない。誰の悲しみも背負わない。その代わり、自分自身も傷つかない場所。そんなところに行くことを、「降りる」と呼ぶのだとしたら――。
ノワールの仮面越しの視線が、ふと蘇る。
記録庫の影から現れたあの男は、まるで誰かの手のひらの外側から世界を見ているような目をしていた。その瞳の奥にあったのは、諦めか、冷笑か、それとも――時間の外側に立つ者の感覚だったのか。
分からない。
分からないからこそ、「降りる」という言葉は危うい誘惑になる。
ページの端に、指先が触れる。
意識しないようにしていたはずなのに、手は自然と動いていた。黒い装丁の冷たさが、皮膚を通して伝わる。ほんの少しだけそっと押すと、表紙が、かすかな音を立てて開きかけた。
瞬は、息を呑んだ。
そこに書かれている思想が、自分の中の空白を埋めにかかってくるのではないかという予感があった。記憶の穴、過去を変えたいという願い、時間の泣き声。そのすべてに対して、「降りる」という単語は、あまりに都合が良すぎる。
都合がいいからこそ、危険だ。
「……リュカの言う通り、なのかもしれないな」
そっと、表紙を閉じる。
本が完全に閉じられた瞬間、部屋の空気がわずかに軽くなった気がした。ランプの炎がふっと高くなり、机の上の影が揺れる。
だが、静寂は消えない。むしろ、さっきよりも深くなった。
階下から聞こえてくる話し声も、食堂の片づけの音も、ここまでは届かない。聞こえるのは、自分の呼吸と、心臓の鼓動だけだ。
黒い本は、動かない。ただそこに在るだけだ。
それなのに、その存在感は、ページを開いていたときとほとんど変わらない。
(降りる)
言葉だけが、頭の中で静かに反芻される。
降りることは、逃げることなのか。救いなのか。裏切りなのか。自分にはまだ、そのどれとも断言できない。ただひとつ確かなのは、自分の心のどこかで、その言葉に「惹かれている」部分があるということだ。
それが、自分の弱さなのかもしれないと、瞬は思う。
過去を変えたい、と願ってしまったあの日から。その願いがどれほど禁忌に近いかを頭では理解していても、心はまだ完全には手を離せずにいる。その隙間に、「降りる」という別の選択肢が滑り込んでくる。
「なんで……こんなに引っかかるんだ」
独り言が、資料置き場の空気に溶けていく。
答えは返ってこない。代わりに、遠くの時層揺らぎの低い響きが、微かに耳に届いた気がした。ギルドの外、どこかの空で、時間の境界がまた揺れている。
自分の中の境界も、同じように揺れているのだろうか。
瞬は、そっと本から手を離した。指先に残る冷たさが、じわじわと消えていく。肩がひとりでに上下する。息の乱れを整えようと、ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
黒い装丁は、ただ静かにランプの光を吸い込み続けた。
瞬の心には、ひとつの言葉だけが、しつこいくらいに残り続ける。
降りる――その選択を、自分はいつか迫られるのだろうか。
その予感が、背筋を冷たく撫でていった。




