第22話「欠けた頁」
ギルドの夜は、思っていたよりも静かだった。
重い扉を押して中に入ると、いつもの空気が、少しだけ薄くなったように感じる。天井近くに吊るされたランプが、弱々しい橙の光を放っていた。昼間は依頼人や冒険者たちの声でうるさいほどだった広間も、今は机の上に置きっぱなしの資料や工具が影を落としているだけだ。
吸い込んだ息が、ひゅう、と喉の奥で細く鳴った。
「……無事に、帰ってこれたな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼした声が、木の床と壁に吸い込まれていく。
リエールの崩れた街並み、巻き戻る瓦礫、脈打つ空気。あの異様な景色が、ふと瞼の裏をよぎる。それでも、今足の裏に感じているのは、きしむけれど安定したギルドの床板だ。鼻をくすぐるのは焼け焦げた石の匂いではなく、紙とインクと、夜用に焚かれた安い香の残り香。
外套の留め具に手をかける。肩から滑り落ちていく布の重さとともに、身体から力が抜けていく気がした。
安堵。帰ってきたのだという感覚。緊張で固まっていた背筋が、ようやく解ける。深く息を吐き、近くの椅子に腰を下ろした瞬間、全身の疲労がどっと押し寄せてきた。
だが、胸の奥に、別の何かが小さく指先を立てる。
(……なんだ、この感じ)
外套を脱ぎきる前に、手がふと止まる。布を握ったまま、視線だけが宙をさまよった。
落ち着かない。何かを忘れているような、置き去りにしてきたような、妙な空洞感。それでいて、指で触れようとすると、するりと逃げていく。そんなざわつきが、疲労の底で微かにうごめいていた。
「疲れてるだけ……だよな」
軽く自嘲気味に笑ってみせる。しかし、笑い声は自分の耳にも頼りなく聞こえた。
ランプの光が、机の上の紙の山や散らばった工具の影を長く引き伸ばす。その影が、ほんの一瞬、リエールの崩れた建物の残骸に重なった気がして、瞬は小さく首を振った。
帰ってきたのに、心だけがまだ、あの廃都のどこかに置き去りにされているような――そんな感覚が、消えずに残っていた。
机に両肘をつき、額を手のひらに押し当てる。
深呼吸をひとつ。肺の奥まで夜の冷たい空気を入れてから、ゆっくりと吐き出す。そのまま、瞼を閉じ、意識をリエールの記録庫へと向けた。
暗い階段。湿った石壁。冷えた空気。古びた扉を押し開けたとき、鼻先をくすぐった紙と埃の匂い。棚に並んだ古文書と、崩れかけた箱。揺れるランタンの光の中で、あの場所はまるで時間そのものが沈殿しているように見えた。
そこまでは、鮮明だ。
リュカが興奮して走り回る姿。アンナが震える指で古い紙をめくる様子。自分は――そう、棚の陰で、ひとつの束を手に取って……。
(赤ん坊の、記録)
脳裏に、冷たい感覚が走る。
古い写真。あるいは絵。小さな顔。そこに映っていたのは――。
「……あれ?」
瞬は、思わず呟いていた。
赤ん坊の顔を思い浮かべようとした瞬間、そこだけ、ぼやりと白く濁る。輪郭がないわけではない。何か“いた”という感覚はある。だが、目鼻立ちを掴もうとすると、砂のように形が崩れて指の間からこぼれ落ちていく。
額に力を入れる。記憶を追いかけるために、意識をそこへ集中させる。
記録庫の机の上に置かれた紙束。リュカが差し出してきた一枚。アンナの息を呑む音。自分の心臓が跳ねた感覚――たしかにあった。写真を手に取って、そこに映る赤ん坊を見た。自分に、よく似ていた。
……はずだ。
なのに、その「よく似ていた」という言葉の裏側にある具体的な像が、もやの向こうに隠れている。
「なんでだ」
ペン立てに手を伸ばし、そこから一本を掴む。そのまま机の端に置かれていたメモ紙に、ぐしゃぐしゃと何かを書きつけようとして――ペン先が空白の上で止まった。
何を書けばいい? 目の形? 口元? 髪の生え際? どこからどう見ても“自分に似ていた”と、あのときは思った。思ったはずなのに、どの部分がどう似ていたのかが思い出せない。
紙の上で、ペン先が小さく震えた。
胸の奥がざわざわと騒ぎ始める。手の中のペンが、妙に重く感じる。メモ紙の白さが、さっき見えかけた赤ん坊の“顔の空白”と重なっていくようで、瞬は思わずペンを放した。
カラン、と乾いた音が机の上で転がる。
その音に、瞬の心臓がびくりと跳ねた。
赤ん坊の記録。自分によく似た小さな顔。塗り潰された名前欄。そこに記されていたはずの、出生時のデータ――。
どれもが、そもそも「なかった」かのように、記憶から抜け落ちていく。
(そんなわけ、ない)
あのときの驚き、戸惑い、足がすくみそうになった感覚は、はっきり覚えているのだ。その原因が、はっきりしない。
まるで、記録の大部分は残っているのに、肝心な一行だけが真っ黒に塗り潰されて見えない書類のように。
静かな室内に、自分の呼吸音だけが満ちていく。
瞬を中心に、時間が少し遅くなったように感じられた。ランプの灯りがわずかに薄暗くなったように見えるのは気のせいだろうか。視界の端がじわりと黒く滲み、その中心にある“何か”に視線を合わせようとするたび、ごく短い暗転が起きる。
(赤ん坊の、顔。目は、どうだった? 黒? 茶色? 笑っていた? 泣いていた?)
思考を突き進めようとするたび、頭の奥でチリッと痛みが走る。
こめかみのあたりがじんじんと熱を帯び、耳鳴りのような高い音がかすかに響き始めた。記憶の奥に手を伸ばすイメージをして、その手が何か見えない膜に弾かれるような感覚。
(……思い出しちゃいけない、って誰かに言われてるみたいだ)
ぞっとして、瞬は背筋を震わせた。
これはただの疲れじゃない。今までだって、無茶な依頼の後で記憶が曖昧になることはあった。眠気と疲労で、昨日の夕飯も曖昧になるなんて、珍しいことじゃない。でも、あのときのアンナの表情、リュカの声、自分の鼓動――それらは鮮明なのに、赤ん坊の“顔の部分だけ”が何度手を伸ばしても触れられない。
まるで、その部分だけ、時間ごと抜き取られているかのようだ。
「っ……」
痛みが一段強くなり、瞬は反射的にこめかみを押さえた。指先に感じる皮膚の熱。額から、じわりと嫌な汗がにじみ出す。
椅子が、ぐらりと揺れた。
勢いよく立ち上がってしまったのだと気づくのに、一呼吸かかった。椅子の脚が床板を擦り、ギギ、と耳障りな音を立てる。
胸の奥で、何かが「やめろ」と叫んでいる。
しかし、それが自分自身の本能なのか、それとも別の“何か”なのか、判別がつかない。
息を荒くしながら、瞬は机から離れた。視界の端で、さっき落としたペンが寂しげに転がっているのが見える。拾い上げる気にはなれなかった。
ギルドの広間を抜け、ふらふらと廊下へ出る。
壁に沿って歩きながら、頭の中にまとわりつく重たい靄を振り払おうとするように、何度か強く瞬きをした。だが、靄は消えない。それどころか、意識を赤ん坊の記録へと近づけようとするたび、靄は濃くなり、視界の色を奪っていく。
廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
石造りの壁に、背中を預ける。
冷たい温度が、服越しにじかに伝わってきた。
廊下は、広間以上に静かだった。
昼間であれば、仲間たちの笑い声や足音が行き交うこの場所も、今は薄暗いランプが点々と灯っているだけだ。窓の外から差し込む月の光が、床の一部に淡く四角い模様を作っている。その境界線に、瞬の影が半分だけかかっていた。
背中を預けた石壁の冷たさが、ぐったりとした身体から熱を吸い取っていく。
呼吸を整えようと、何度か深く息を吸って吐いた。少しずつ、胸の苦しさは和らいでいく。それでも、頭の奥の靄は消えなかった。
「……俺、何か……忘れてる」
自分でも驚くほどかすれた声が、廊下に落ちた。
言葉にしてしまうと、怖さが増す。けれど一方で、言葉にしなければ実感を掴めないような気もする。二つの感覚がせめぎ合い、喉の奥が熱くなった。
(大丈夫だ、落ち着け。ただの疲れ。時間を置けば、思い出す。……そうだよな)
自分に言い聞かせる。
だが、“ただの疲れ”なら、思い出そうとしたときにあんな頭痛は起きない。あの、記憶の欠片に触れた瞬間に、時間そのものが拒絶するような圧力――それは、他のどんな疲労とも違っていた。
壁に預けていた背中をずるりと滑らせるようにして、床にしゃがみ込む。膝を抱える形になったところで、拳を握ってみるが、ほとんど力が入らない。
アンナの顔が浮かんだ。
記録庫で、あの赤ん坊の記録を見たときの彼女。驚きと悲しみと、言葉にできない何かが混ざった表情。あれを見たとき、自分はたしかに思ったのだ。――「これは、自分に関わっている」と。
その直感だけは、今も消えていない。
(でも、肝心な部分を思い出せない。顔も、名前も。もしかしたら、俺は最初からちゃんとは見てなかったのか?)
疑いの矛先が、自分自身に向く。
しかし、あのときの心臓の跳ね方、手の震え、足元がふらついた感覚――あれほどの反応を、“よく見ていなかった”で片づけることはできない。矛盾が、胸の内側で渦を巻く。
「誰かに……話すか?」
ぽつりと呟いてみる。
リュカなら、この異常を「面白い」と言いながら、何かしらの仮説を立ててくれるかもしれない。フィアなら、「危険かどうか」を真っ先に測ってくれるはずだ。ガイルなら、「無茶をするな」と怒鳴りつけながらも、何か手を打とうとしてくれるだろう。
だが、その誰の顔を思い浮かべても、口が重く閉じる感覚がした。
自分自身の「出自」に関わるかもしれない事柄。記録庫で見た、名前の塗り潰された赤ん坊の記録。そこに映っていたのが、自分と同じ顔をした誰かなのか、それとも――。
もしこれが、自分だけの問題で済まないことだったら?
もし、話した瞬間に、何かが決定的に変わってしまうのだとしたら?
そんな恐れが、言葉を喉の奥で凍らせる。
孤独感が、じわりと染み込んできた。
この記憶の穴は、自分にしか分からない。誰も、この頭の中を覗くことはできない。だからこそ、どれほどおかしくても、最初の判断は自分でしなければならない。
それが、妙に心細かった。
廊下のどこかで、微かに木が軋む音がした。
誰かが歩いているわけではない。古い建物が温度差で鳴らす、ただの音だ。けれど、その一瞬、瞬の耳には“何かが抜け落ちる音”のようにも聞こえた。
ぽとり、と。
開かれた本から一枚だけページが千切れ、床に落ちるような、そんな音。
顔を上げる。廊下の突き当たりにある小さな窓に、夜空が切り取られていた。時層の境界が遠くで揺れているのか、空の一部がわずかに色を変え、波打っている。目を凝らさなければ分からないほどの、細い揺らぎだ。
耳を澄ますと、ギルドの外から、遠い時層揺れの低い響きがかすかに届いていた。雷鳴にも似ているが、どこか違う。世界のどこかで時間が擦れ合うときの、鈍い振動音。
その音に、さっき感じた「ページが抜け落ちる音」が重なっていく。
自分の頭の中でも、同じことが起きているのではないかという恐怖が、じわじわと広がった。
右手を持ち上げ、掌を見つめる。
リエールで瓦礫を掴んだときのざらつきも、アンナの肩に触れかけてやめたときの空気の重さも、この手は覚えている。なのに、赤ん坊の写真を持ったときの手の感触だけが、綺麗に抜け落ちている。
「……俺、どうなってるんだ」
呟きは、さっきよりも少しだけはっきりとした声になった。
怖い。正直に言えば、その一言に尽きる。自分の中で何かが静かに壊れ始めているのだとしたら、それがどこまで行くのか想像するだけで、足元が冷たくなる。
けれど同時に、このまま目を逸らし続けることもできなかった。
欠けた頁を、そのまま放置してページをめくり続ければ、いつか本全体が歪んでしまう。今は小さな穴でも、その周囲の文字まで剥がれ落ちてしまうかもしれない。
瞬は、ゆっくりと立ち上がった。
まだ答えは出ない。誰に相談すべきかも決められない。ただひとつ確かなのは、自分の中で何かが“始まってしまった”ということだけだ。
その「始まり」が何なのかを知るために、いずれどこかで、この欠けた頁と向き合わなければならない――そんな予感が、闇の中で薄く光る糸のように、胸の奥で震えていた。




