第20話「残る影跡」
夕陽が、廃都リエールの輪郭をゆっくりと溶かしていく。
崩れた街並みのあいだから差し込む橙色の光が、瓦礫の山を長く染め上げていた。折れた柱、途中で途切れた階段、壁だけが残った家々。そのどれもが、薄く立ちのぼる霧に縁どられている。霧は地表近くをゆらゆらと漂い、足首あたりを撫でては、また別の路地へ溶け込んでいった。
風が吹くたび、どこからともなく紙片が舞い上がる。
かつては掲示板に貼られていたお知らせか、商店の包装紙か。色褪せて文字の判別もつかないそれらが、ゆっくりと空中を回転し、やがて石畳の隙間にふわりと落ちる。ふと見ると、その紙片の一部が、時間を逆巻きにしたかのように一瞬だけ元の形に戻りかけて、またすぐに崩れていくのが見えた。
目の錯覚なのか、それともまだここに残る「揺れ」のせいなのか。
瞬には、判断がつかなかった。
「……終わった、のか?」
無意識に漏れた声は、想像以上に掠れていた。
少し先を歩いていたフィアが、振り返りもせず答える。
「“見かけ上は”だな」
短い言葉に、彼女らしい警戒の色が滲む。
フィアの視線は、相変わらずあちこちを忙しなく巡っていた。銃の安全装置に触れる癖が、彼女の指に自然と戻っている。わずかな物音にも肩が微かに反応し、その都度、周囲へと意識を走らせているのが分かる。
その少し離れた場所では、リュカがしゃがみ込み、土を採取していた。
焦げた地面に小さなスコップを差し入れ、薄く削り取った土壌を、透明なケースに丁寧に移す。彼の足元には、すでにいくつものサンプル瓶が並べられている。ラベルには数字と簡単な記号がびっしりと書き込まれ、順番通りに整列していた。
「……ふむ、ここはさっきと波形が違うな」
ひとりごとのように呟きながら、リュカは腰のポーチから薄い板状の計測器を取り出した。土を少し乗せ、端にある触媒を軽く押すと、表面に淡い光の線が浮かび上がる。波形が細かく上下し、時素の揺らぎを示していた。
少し離れたところで、アンナが街を見渡していた。
先ほどまでと比べれば、その呼吸は幾分か落ち着いているようにも見える。けれどその落ち着き方は、問題が解決したあとの安堵というよりも、深いところまで疲れ切った人間が、これ以上波立つ力さえ残っていないときの静けさに近かった。
彼女は唇をきゅっと噛み、目を細める。
視線の先には、崩れた家々の影。あのどれかが、彼女の家だったかもしれない。どの瓦礫の山にも見分けがつかないほど街は壊れているのに、アンナにはきっと、ここで暮らしていた人たちの笑い声や足音が、まだ重なって見えているのだろう。
(……本当に、終わったのか?)
瞬は、自分の胸の奥に問いかける。
ノワールは記録の一部を奪って消えた。時層柱の残骸は、今のところ大きな暴走を見せてはいない。大時裂の巻き戻り現象も、先ほどからは少しずつ弱まりつつあるように見えた。
表面だけを見れば、「一件落着」と言えなくもない。
しかし、胸の奥のざわつきは、まったく収まらなかった。
記録庫で見た、塗り潰された赤ん坊の記録。自分に酷似した顔。リエールで起きた大時裂。アンナの家族が消えた日。ノワールの仮面。
どれもが、まだ何も解決していない。
そのことが、夕陽に照らされた廃墟の静けさを、不自然に思わせていた。
「おーい、瞬、ちょっと来てくれ」
リュカの声が飛んできた。
瞬は我に返り、足元の瓦礫に気をつけながら彼のもとへ歩いていく。フィアは警戒態勢を崩さないまま、少し周囲を見回してから、ふたりに距離を詰めた。アンナはその場から動かなかったが、耳だけはこちらへ向けているのが分かる。
焦げた大地の中心近く。
かつて大時裂の裂け目が走っていたあたりだろう。地表には黒い焼け跡が広がり、地面がところどころ沈み込んでいる。割れ目の間には薄い霧が入り込み、時々、ぼんやりと光を反射していた。
その一角で、リュカは計測器を覗き込んでいた。
眉間に皺を寄せ、唇の端をわずかに吊り上げている。興奮と集中が入り混じった、彼らしい表情だ。
「どうしたの?」
瞬が尋ねると、リュカは顎だけで計測器を示した。
「見てみろ。ここの波形、さっき記録庫の近くで測ったやつと比べて――」
そこまで言って、ふと口をつぐむ。
代わりに計測器を瞬に向けて差し出した。
表面には、細かく震える光の線がいくつも重なっていた。上下に揺れながら、一定の周期で大きく波打つ部分がある。その山と谷が、妙に整ったリズムを刻んでいるのが素人目にも分かった。
「……なんか、きれい」
思わずそんな言葉が出る。
リュカが小さく笑った。
「そう、“きれいすぎる”んだよ」
フィアも覗き込む。彼女の視線が、光の線の動きをじっと追う。
「自然じゃない?」
「自然の時層崩落の残留波形は、もっと乱雑なんだ。ランダムに近い。あっちの端のサンプルがそうだ」
リュカは、並べていた別のサンプル瓶を指差す。
そちらの計測結果は、確かに線がぐちゃぐちゃだった。山も谷もばらばらで、一定のリズムが見つからない。波形が波形になりきれず、ノイズじみたうねりを描いている。
「でも、ここは違う。ほら、山と山の間隔がほぼ一定だろ。振幅も、一定のところで綺麗に揃ってる。これは……細かい制御が入ってた跡だ」
「制御……?」
瞬が聞き返す。
リュカは真剣な目で頷いた。
「誰かが“何かを使って”、時素の流れを意図的にいじった痕跡だよ。大時裂は確かに異常だけど、その異常の中にも“人の手”の形が残ってる」
瞬の背筋に、冷たいものが走った。
自然の暴走ではない。
誰かが、ここで何かをした結果として、大時裂が起きたのかもしれない。
「つまり――」
フィアが静かに言葉を継ぐ。
「これは“事故”じゃない可能性が高いってことか」
「まだ断定はできないけどね」
リュカは慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、自然崩落なら、こんな綺麗な波形は滅多に出ない。これは……誰かが意図的に“裂け目”を開こうとしたか、せめて、起きつつある崩落を利用して“形を整えた”痕跡に見える」
瞬は、焦げた地面を見下ろした。
黒く焼け焦げた大地。その下には、アンナの家族や、街の人たちの時間がまとめて落ちていったのだ。そこに、誰かの意思が関わっていたかもしれない――そう考えた途端、腹の底がきゅっと冷える。
自然の災厄ですら許せないのに。
そこにわざわざ「手を加えた」誰かがいるかもしれないなんて。
胸の奥がざわり、と波立つ。
「触らないで」
反射的に手を伸ばしかけた瞬の手首を、フィアが強くつかんだ。
いつの間にか、本当に触れようとしていたらしい。地面から薄く立ちのぼる時素の霧が、掌にまとわりつくような錯覚がした。
「ご、ごめん……」
「ここはまだ“生きてる”。素手で触るな。……それに」
フィアは顎でリュカを示す。
「コイツの大事な調査対象を壊すと、あとで延々と愚痴を聞かされる」
「ひどいな。僕はそんなにしつこくない」
そう言いつつも、リュカの口元は少しだけ緩んでいた。
だが、その目だけは真剣なままだ。
「フィアの言う通り、ここに余計な干渉を入れるのは危険だよ。自然崩落じゃないとしたら、なおさらね。誰かの“痕跡”が残ってる可能性がある。丁寧に読み取らないと」
誰かの痕跡――。
その言葉が、瞬の胸のどこか深い場所に、ぴたりと貼り付いた。
その情報を、アンナに伝えないわけにはいかなかった。
それが彼女にとってどれほど残酷な知らせになるか分かっていても、黙っている方が裏切りのように思えたからだ。
崩れた家々が並ぶ一角。かつて住宅街だったと思しき通りの影で、瞬とフィアはアンナのもとへ戻った。夕陽はほとんど沈み、街の輪郭は薄い群青に沈み始めている。石壁の残骸が、長い影を地面に落としていた。
アンナは、その影の中に立っていた。
さっきと同じように、街全体を見渡す位置に。けれど、その表情には先ほどまでの静けさの上に、さらに薄い膜のような疲労が重なっている。
こちらへ向けられた瞳の奥に、一瞬だけ不安の色が走った。
「……何か、分かったの?」
声は落ち着いている。けれど、その落ち着きは、いざというときに備えて心を固くするためのものだ、と瞬には分かった。最悪の答えが来ても崩れないように、先に自分を縛っておくような。
瞬は、一度息を吸う。
喉のあたりが少し痛い。言葉の選び方を誤れば、彼女の心に新しい傷を刻むことになる。そう理解しているからこそ、口を開くのに時間がかかった。
代わりに、フィアが先に口を開いた。
「まだ決定打ってわけじゃないが、リュカの分析だと――」
フィアの声は、いつもの戦場報告のトーンだった。感情をできるだけ挟まず、事実だけを並べるときの声。
「大時裂は、“完全な自然現象”とは言い難いらしい」
アンナの肩が、ぴくりと揺れた。
「どういう、こと?」
短く絞り出した言葉。
フィアは丁寧に説明を続ける。時素残留の波形が不自然に整っていたこと。自然崩落ならもっとノイズだらけになるはずだということ。誰かが意図的に時素の流れを操作した痕跡の可能性。
その一つ一つが、アンナの胸に重石のように積み重なっていくのが見えるようだった。
「じゃあ……」
アンナは、ゆっくりと顔を上げた。
夕陽の名残が、その横顔を斜めから照らす。瞳にわずかな光が宿る。その光が、怒りの色を帯びた。
「じゃあ、あれは――」
喉の奥で言葉が詰まり、一度、息を吸い直す。
「“誰かの意思で”起こされたってこと?」
静かな声だった。
大声を上げるわけでもなく、取り乱すわけでもない。けれど、その静けさの中に、燃えるような感情が潜んでいるのが分かる。
瞬は、視線をさまよわせた。
フィアは答えを選ぶように一拍おく。やがて、真っ直ぐアンナを見て、首を横に振った。
「そこまでは、まだ断定できない」
「でも、“自然じゃない”んでしょ」
アンナは食い下がる。
声がわずかに震えた。
「自然じゃない、ってことは……誰かが、何かをしたってことでしょう。意図か、実験か、事故かは知らないけど。……誰かが何かをやった結果、ここがこんなふうになったってことじゃないの」
その「誰か」という言葉には、長年押し殺してきた感情が乗っていた。
怒り。悔しさ。やるせなさ。全部が混ざって、喉の奥から込み上げている。それを、アンナは必死に言葉の形に整えようとしているようだった。
「もしそうなら……」
彼女は唇を噛みしめる。
拳が震えている。白くなった指先に、皮膚が引き攣れるほどの力が込められていた。
「もしそうなら、私の家族は、“誰かの実験の副産物”みたいなもので消えたってことになる」
その言葉に、瞬の胸がきゅっと軋んだ。
さっき自分が願ったこと――「過去を変えたい」という衝動が、別の形で胸に突き刺さる。変えられない過去。それを引き起こしたかもしれない誰かの存在。
「……アンナ」
名前を呼ぶことしかできない。
何か、言わなければと思う。けれど、安易な言葉は全部嘘になる気がした。
「ごめん。まだ、何もできなくて」
それでも、口から出てきたのは謝罪だった。
自分でも驚くほど、声が小さい。
「謝るのは、あんたじゃないでしょ」
アンナは即座に言い返した。
強い言葉だったが、その奥には、瞬を責める意図は感じられない。ただ、自分の矛先をどこにも向けられない怒りが、その場にとどまる場所を探しているようだった。
「謝るべきなのは、その“誰か”だよ。でも、そいつはきっと、ここにはいない。……それに」
そこまで言って、彼女はふっと息を吐いた。
拳を握りしめていた手が、少しだけ緩む。
「怒ったって、誰かを罵ったって、時間は戻らない」
さっきアンナ自身が口にした言葉が、再びこの場に戻ってくる。
瞬は、胸が痛んだ。
怒りと悲しみのあいだで揺れながらも、彼女は最終的にいつも同じ場所へ戻ろうとしている。自分を縛りつけるように、「戻らない」という現実を何度も何度も心に刻み直しているのだ。
彼女の肩が、かすかに上下する。
「……でも」
アンナは、目を閉じた。
長い睫毛が影を落とす。その影の奥で、揺れる感情をかろうじて押さえつけているのが分かる。
「“誰かの意思だったかもしれない”って知れただけでも、少し変わる」
「変わる?」
瞬が問い返す。
「今までずっと、ここを見に来るたびに、自分ばっかり責めてたから」
アンナは、ゆっくりと目を開いた。
「“私がもっと早く逃げてれば”とか、“もっと周りに声をかけてれば”とか。“私があのときこうしてれば、誰か助けられたかもしれない”って」
その「もしも」は、瞬にも痛いほど分かる。
自分が少しでも違う行動を取っていれば、結果は変わったかもしれない――そんな考えは、いつだって簡単に頭をよぎる。
「でも、誰かが意図的に何かをしてたのなら……」
アンナは、自分の胸に手を当てた。
「少なくとも、全部を自分一人のせいにする必要はなくなる。怒りの矛先を、“自分以外のどこか”に向けてもいいんだって、少しだけ思える」
それは、救いとも言えるし、残酷とも言える真実だった。
瞬は、自分の手を見下ろす。
さっき爪を立てた掌には、まだ赤い跡が残っている。指先に力を込めれば、その跡が再びじんと痛みを伝えてきた。
自分は無力だ。
今、この瞬間にできることは、彼女の話を聞き、そばに立つことだけ。それでも、自分がここにいることで、彼女の重さがほんのわずかでも軽くなるなら――そう願わずにはいられなかった。
フィアは、少し離れたところで黙ってふたりを見守っていた。
彼女の瞳は冷静だが、その奥には別の色――この街で失われたものへの、静かな弔いの感情が潜んでいる。不必要な慰めの言葉は口にせず、ただ必要なときにだけ口を開く準備をしている顔だった。
帰る時間が近づいていた。
廃都リエールの外縁部――崩れた城壁の途切れた場所が、事実上の“出口”になっている。そこから少し離れた場所に、彼らの簡易キャンプが張られていた。簡素なテントと、小さな焚き火の跡。今はすべて片づけられ、荷物はいつでも運び出せる状態だ。
夕陽は完全に沈み、空には青と黒が入り混じった薄闇が広がっている。
街の外へ吹き抜ける風は、街中よりも少しだけ澄んでいた。瓦礫の匂いと焦げた空気の残り香が薄まり、その代わりに、遠くの草原の匂いがほんのわずかに混じっている。
アンナは、崩れた城壁の端に立っていた。
その向こうに広がる暗い風景を見つめている。そこは、ここへ来るときに通った道であり、また彼女がこの街を離れるために通らなければならない道でもある。
彼女の背には、旅装の荷がひとつ。
肩から斜めにかけた古い鞄には、彼女がこの街で拾い集めたわずかな「残骸」が入っているのだろう。焦げた石の欠片。割れた陶器の一部。誰かの生活の名残を、彼女はひとつひとつ拾い上げてきた。
「……行くの?」
瞬の問いに、アンナは振り向いた。
目の下には、うっすらと疲労の影が見える。それでも、その瞳の奥には、以前より少しだけしっかりとした光が宿っていた。
「ここに、ずっと留まるわけにもいかないからね」
アンナは、苦笑のような微笑のような表情を浮かべる。
「この街のことを、誰かに伝えなきゃいけない。大時裂がただの“自然災害”かもしれない、なんて曖昧なままにしておきたくないし。……それに」
視線を瞬から少しだけ外し、フィアの方へ向ける。
「時政院にも、あんたたちにも、報告が必要でしょう?」
フィアは静かにうなずいた。
「アンナの証言は、これから先の調査にとって重要だ。……つらいことを何度も話させることになるかもしれないが」
「平気とは言わないけど、話すって決めたのは私だから」
アンナは肩をすくめる。
その仕草には、重たい覚悟と一緒に、少しだけ吹っ切れた軽さも混ざっていた。
瞬は、言葉を探した。
別れの挨拶――というには、この場があまりにも重い。何を言っても薄っぺらに聞こえそうで、舌がうまく回らない。
それでも、何も言わずに背中を見送ることだけは、したくなかった。
「アンナさん」
名前を呼ぶ。
アンナが、素直に瞬を見た。
「来てくれて、本当にありがとう」
彼女の方から、先に言葉が飛んできた。
瞬は目を瞬く。
「僕たちの方が……助けてもらった気がします」
「そう?」
「アンナさんが、自分のことを話してくれなかったら、僕はたぶん、この街のことを“事件のひとつ”としてしか見なかったと思います」
自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てきた。
「けど、アンナさんの話を聞いて、ここで暮らしていた人たちのことを、ちゃんと想像できるようになった。家族がいて、友達がいて、笑って、ご飯を食べて、喧嘩して、仲直りして……そういう時間が、ここには確かにあったんだって、思えるようになった」
それは、多分、誰もが当たり前だと思っている日常だ。
けれど、その当たり前が、「大時裂」という言葉ひとつでまとめられてしまう現実がある。何百、何千もの人生が、ただの「被害者数」として数えられてしまう世界。
「だから……ありがとう」
瞬は、深く頭を下げた。
アンナの靴の先が視界に入る。しばらくの沈黙のあと、かすかな衣擦れの音がした。顔を上げると、アンナが少し驚いたような、けれどどこか優しい目でこちらを見ていた。
「お礼を言うのは、私の方なのにね」
彼女は小さく笑う。
「この街に、もう一度ちゃんと向き合うきっかけをくれた。……それに」
アンナは、ほんの少しだけ視線をそらし、夜空を見上げた。
「“変えたい”って言ってくれたの、嬉しかったよ」
瞬の胸が、きゅっと熱くなる。
「危ない考えだって、自分でも分かってるんだけどね」
「ええ。私もそう思う」
アンナは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「でも、誰かが本気でそう願ってくれたって事実は、私にとっては救いだから。……だから、どうか、気をつけて」
「気をつけて?」
「願いっていうのは、時々、持ち主の足を引っ張るからね」
アンナは、少し寂しそうに微笑んだ。
「あんたの“揺らぐ願い”が、あんた自身を壊さないように。……それだけが、ちょっと心配」
瞬は、息を呑んだ。
自分の胸の奥を見透かされたような言葉だった。過去を変えたいという願い。その危うさを、彼女は誰よりも知っているからこその忠告だ。
「大丈夫です。……たぶん」
そう口にしながら、瞬は自分の拳をぎゅっと握りしめる。
「簡単には諦めないけど、目の前の今を壊してまで何かをしようとは、思ってません。少なくとも、今は」
「今は」という言葉が、思わず付け足される。
その自覚に、自分で苦笑したくなった。
「ふふ。やっぱり、危なっかしい」
アンナは小さく笑い、やがて真顔に戻る。
「それでも……あんたみたいな子がいてくれるなら、少しは未来に期待してもいいのかもしれないね」
そう言って、彼女は小さく頭を下げた。
「瞬。フィア。リュカにも伝えて。ありがとう」
フィアは、軽く顎を引いて応える。
「生きていてくれ」
それだけを告げる言葉に、彼女なりの祈りが込められていた。
アンナは背を向けた。
崩れた城壁の切れ目をくぐり、外の道へと歩き出す。旅衣の裾が風に揺れ、靴音が石から土へと変わる。背中に、街の埃と長い時間をまとったような重さがある。
瞬は、その後ろ姿を、いつまでも目で追っていた。
やがて、アンナの姿は、暮れかけた空と地平線のあいだに溶けていく。
彼女が振り返ることは、一度もなかった。
けれど、その歩みは、途中で止まることもなかった。
その背中を見送ること――それしかできない自分への歯がゆさを噛みしめながら、瞬は胸の奥にひとつの誓いを刻み込んだ。
(絶対に、あの“大時裂”のことを……黒幕を、見つけ出す)
アンナの家族の時間を奪い、リエールをこの姿に変えた何者か。その「影跡」を辿ることが、自分の願いと責任の、最初の一歩になる。
帰路は、暗闇の中だった。
リエールから少し離れた街道を、三人は歩いていた。先頭を行くフィアが、ランタンを掲げている。揺れる灯りが、夜の空気に小さな円を描きながら進んでいく。足元には起伏の少ない土の道が続き、その両脇には背の低い草が風に揺れていた。
遠くで、雷のような音がした。
空は晴れているのに、雷雲は見当たらない。あの音は、瞬にはもう聞き覚えがあった。時層の揺らぎが、どこか別の場所で軋むときに鳴る低い振動音。
「また、どこかで“揺れ”が?」
思わず空を仰ぐと、フィアが肩越しに答えた。
「この大陸のどこかで、ってくらいには大雑把な話だな。細かい位置までは分からん」
「安心していいのか、余計不安になればいいのか、分からないね」
リュカが言いながら、ランタンの明かりの外側にある闇をちらりと見やる。
彼の手には、リエールで集めた資料がぎっしり詰まったケースが抱えられていた。記録庫で奪われた分があるとはいえ、それでもかなりの情報が残っている。土壌サンプル、時素波形の記録、崩落跡の地形データ、アンナの証言。
リュカは、それを大事そうに抱えたまま、深い息をひとつ吐いた。
「で、さっきの続きだけど」
瞬が顔を向けると、リュカはランタンの光を避けるように少し後ろ側に寄り、声を潜めた。
「さっきは“可能性が高い”って言い方をしたけどさ。正直に言うと、僕の中ではもうほぼ確信に変わってる」
「確信?」
「大時裂は、人為的なものだ」
リュカの声には、興奮と同じくらいの緊張が混じっていた。
「誰かが、意図的に“裂け目”を開いたか、少なくとも自然発生した揺れを利用して、その規模を増幅させた。あの波形は、その証拠に近い」
瞬の心臓が、どくんと大きく脈打つ。
「……本当に?」
「僕の目と計測器を信じてもらえるなら、ね」
リュカは、少しだけ冗談めかした口調を挟みながらも、その目だけは真剣だった。
「もちろん、正式な報告や追加の検証は必要だ。でも、波形だけじゃない。崩落の中心部の地形も、妙に“整って”いた。自然崩壊なら、もっとばらばらに崩れるはずなのに、まるでどこかの誰かが“ここを中心に”と印をつけたみたいな、そんな形だった」
フィアが、前を向いたまま短く問う。
「誰が、何のために?」
「それが分かれば、とっくに全部解決してるよ」
リュカは苦笑するが、声の奥にある緊張は解けない。
「でも、少なくとも言えるのは――これはリエールだけの話じゃないってことだ」
瞬は、思わず足を止めそうになった。
「リエールだけ、じゃない?」
「同じ波形、まではいかなくても、“似た傾向の揺れ”が、他の崩落地でも報告されてる。まだ正式には公開されてないけど、研究所の中では噂になってたんだ」
リュカは、肩にかけたケースを少し持ち直す。
「今回のデータを持ち帰れば、その噂がただの噂じゃなかったって証拠になる。……つまり」
「黒幕がいるってことか」
フィアが、静かに言い切った。
ランタンの光が、彼女の横顔を斜めに照らす。影になった瞳の奥に、戦場での冷静さと同じものが宿っていた。
「そう。誰かが、どこかで“時間そのもの”を弄っている。大時裂は、その結果のひとつに過ぎない」
風が、ひゅう、と三人の間を抜ける。
草の葉が擦れ合う音が、妙に大きく聞こえた。遠くの空でまた低い振動音がする。それが、どこか別の場所で新しく生まれつつある「揺れ」なのか、それとも既にある歪みのうめきなのかは分からない。
瞬は、拳を握った。
掌に爪が食い込む。さっきまでこの手でアンナの肩に触れかけて、途中でやめた感触が、まだ指先に残っていた。彼女の背中。歩き去る姿。残された廃墟。
(誰かが、意図的に)
家族の時間を奪い、街を壊し、人々の人生を断ち切った。
その「誰か」は、今もどこかで同じようなことを続けているかもしれない。
「……また誰も、失いたくない」
心の中で呟いたつもりが、かすれた声になって漏れ出た。
リュカが横目で瞬を見て、少しだけ口元を引き締める。
「だからこそ、これを明らかにしないとね」
彼はケースを軽く叩く。
「リエールで起きたことを、“ひとつの悲劇”じゃなくて、“誰かの仕業の痕跡”として示す。そうすれば、時政院も、ギルドも、動かざるをえなくなる」
「動いた結果が、全部いい方へ行くとは限らないがな」
フィアが冷静に釘を刺す。
「権力は、ときに歪んだ形で使われる」
「分かってる。でも、何もしないよりはマシだよ。少なくとも、あのノワールってやつみたいな連中を野放しにしておくよりは」
ノワール――あの仮面の男の姿が、瞬の脳裏に浮かぶ。
記録庫の影から現れ、自分の名前を呼び、記録を奪って消えた存在。あの声。あの気配。あれもまた、「影跡」のひとつだ。
どれほどの時間が過ぎても消えない痕跡。
それを辿った先に、何が待っているのか。
瞬は、改めて前を見た。
ランタンの明かりが照らす道は、まだ先が長い。足元の土は固くも柔らかくもなく、ただ淡々と続いている。だが、その先に広がる闇の中には、確かに何かがいる。
大時裂を引き起こした誰か。
時間を弄ぶ者たち。
その「影」は、まだ姿を見せていない。けれど、その足跡は、リエールにくっきりと残っている。
(俺は――)
瞬は、自分の胸に問いかける。
(この“残る影跡”を、必ず辿る。揺らいだ時間の向こう側にいる何者かを、見つけ出す)
揺れるランタンの光が、彼の瞳に反射した。
その光の中に、一瞬だけ、砕けた時層柱の断面や、逆巻く瓦礫の光景が重なって見える。過去と今と未来が、ほんの束の間、ひとつの線で結ばれたような錯覚。
風が、またひとつ吹いた。
草の匂いと、遠い雷にも似た時層のうめきの音。そのすべてを背に受けながら、瞬たちは前へ進む。
リエールでの事件は、一応の収束を見せた。
だが、その足元には、消えない影の跡が残っている。
それは、これから始まる、もっと大きな物語へと続く道標のように、夜の中でひっそりと光を放ち続けていた。




