第2話「未来の影」
朝の光はまだ柔らかく、窓枠を斜めに照らして木製の机や棚に淡い金色の縁を与えていた。時層ギルド支部の事務所は、いつものように紙と油の混ざった匂いがほんのり漂い、木の床は踏むたびに控えめな軋みを返す。瞬は机の下に手を突っ込み、昨日仕分けしたはずの紙束を探りながら、小さく息を吐いた。
昨日の出来事――時層ズレの小事故――は、胸の底でまだざらついた感触を残していたが、それでも朝の空気に触れると「まあいいか」と思えてしまう。自分が何かをした、と言い出すほど自信があるわけでもないし、あれが本当に自分の錯覚だったのかもしれない。そうやって曖昧にして流してしまうのが、瞬という人間の癖でもあった。
奥からガイルのぶっきらぼうな声が飛ぶ。
「瞬! その紙束見つかったか!」
「あ、今探してます! たぶんここに――うわっ」
机の下から紙束を引っ張り出した瞬間、思っていたより重くてよろけた。抱え直すと、ふわりと紙の乾いた匂いが鼻をかすめ、そこへメリルがコーヒーのカップを片手に近づいてくる。
「おはよ、瞬。寝癖ひどいよ? 昨日の片付けで疲れたでしょ」
「……そんなにひどいですか?」
「うん、まあ“いつも通り”くらいにはね」
からかうように笑ったメリルの軽口が、事務所の空気を和ませる。ミナトは隣の作業机で小型装置を調整しており、「あっ」と小さく声を漏らすと、装置の端から青い火花が散った。
「ミ、ミナト、大丈夫?」
「だ、大丈夫です! 調整値ちょっとズレただけで!」
工具がガチャガチャと音を立て、油の匂いがわずかに強まる。こういう騒がしさが、瞬にはどこか心地よい。昨日の違和感がじわりと胸に残っていても、「大丈夫だろう」と思わせてくれる日常の匂いが確かにあった。
瞬は紙束を抱え直しながら、そんな空気の中に穏やかな安心を感じていた。今日も、いつもの日だ。そう思った矢先――
ドアの向こうで、控えめだが確かな足音がした。
誰かが来た? この時間に?
瞬が紙束を抱えたまま視線を向けると、ドアノブがゆっくり回り、隙間から冷たい空気が滑り込んできた。ギルドの賑やかさが一瞬だけ凍り付くように静まり、瞬の胸に微かな緊張が走った。
扉が静かに開いた。朝の光を背にした逆光の中、凛とした細身の少女が立っていた。影の中でも、その姿勢の正確さが分かる。動きに一切の無駄がなく、足音の間隔すら均等だった。
瞬は息をのみ、抱えていた紙束を無意識に胸元へ引き寄せた。
見た目は、年齢的にほとんど自分と変わらない。だが――何かが決定的に違う。
空気の密度が変わったような、温度すら下がったような感覚が、皮膚の表面をさらりと撫でた。ギルドの雑然とした温かい空気とは、あまりに異質だった。
少女は視線だけを動かし、瞬を射抜くように見つめる。その目は深く澄んでいるのに、戦場の残響を宿したような静かな緊張を帯びていた。
「……一ノ瀬瞬さんですね」
その声は無駄な揺らぎが一切なく、よく研ぎ澄まされた刃物のようだった。
「え……あ、はい……?」
瞬の返事は間抜けなほど遅れた。頭では「初対面の少女」だと理解しているのに、身体がびくりと強張る。理由の分からない圧に、胸の奥がざわついた。
少女は軽く会釈をした。その動きでさえ軍隊の礼のような正確さを持ち、しかし同時にどこか、瞬にだけ向けられた特別な意図が隠れているようにも思えた。
紙束が手から滑り落ちそうになる。瞬は慌てて持ち直しながら、その目を逸らせなかった。視線が絡み合う瞬間、胸の鼓動が強く跳ねた。
誰なんだ、この子は。
そう問いかけるように瞬が口を開きかけた――そのとき、奥からガイルが歩いてきた。
「客か? この時間に珍しいな――」
ガイルの言葉が途中で止まった。少女の姿を見た瞬間、普段の荒っぽさが影を潜め、瞳に警戒と緊張が走る。
少女は静かに、胸元から身分証のようなカードを取り出した。差し出す動作も流れるようで、まるで儀式の一部のような整った所作だった。
そこには、見慣れない紋章が刻まれている。金属光沢を帯びた紋章が微かに光を反射し、この時代の技術とは明らかに異なる雰囲気を放っていた。
「未来戦場からの派遣者、フィア・レムナント。任務の提示に参りました」
「……未来、戦場、だと?」
ガイルの眉間にくっきりと皺が寄る。瞬も思わずガイルに視線を向けたが、返ってくるのは困惑そのものの表情だった。
未来? 戦場?
そんな遠い物語のような言葉が、少女の口から自然に紡がれたこと自体が信じられなかった。未来の時層帯から来る人間がいる――理屈では知っていても、実際に目の前に立たれると現実味を失う。
「未来戦場……って、本当に?」
「事実です」
フィアは揺らぐことなく答えた。声音には熱も迷いもなく、ただ淡々と、真実だけを述べるようだった。しかしそのまっすぐな目の奥には、瞬には理解できない影が潜んでいる。
「派遣って……誰が、何のために?」
瞬はつい問い返してしまった。少女の存在が、あまりに自分の日常から遠いものだったから。
フィアはほんの一瞬だけ視線を瞬に向け、そのわずかな沈黙が逆に重さを帯びた。そして次の言葉が、落ちる。
「任務内容は、この後すぐに説明します」
その声は、何かを覚悟しているようでもあり、何かに縛られているようでもあった。
事務所の空気が、さらに重く沈んだ。窓を揺らす風の音すら遠のき、フィアの声だけが鋭い輪郭を持って耳に届く。
「本日より――」
フィアは無駄なく一歩進み、瞬の正面に立った。その距離の近さに、瞬の心臓が一段強く脈打つ。
「あなたの護衛兼、行動監視を担当します」
言葉の意味は理解できる。だが、受け止めるにはあまりに重たかった。
「……え?」
瞬は思わず後ずさる。護衛はまだ分かるとして――監視?
「待ってください、僕は……何もしてません! 監視って……どういう……」
言葉が宙に散る。昨日の“時層ズレで感じた何か”が脳裏をかすめ、胸の奥に冷たいものが広がった。
ガイルも手を止め、苦々しい表情でフィアを見た。
「監視とは……ずいぶん物騒な任務を背負ってきたな」
「任務ですので」
フィアは淡々と答える。その冷静さが、逆に心の奥で軋む音を生んだ。
しかし――その直後、ほんの一瞬だけ。
フィアの視線が揺れた。瞬を見つめる目に、微かな痛みのような、遠い記憶の影のような、説明のつかない温度が滲んだ。
瞬には、それが何なのか理解できなかった。ただ、胸の奥に小さな震えが走った。
緊張が少しずつ解けていくと同時に、事故の後のような静けさが事務所に戻ってきた。空気は冷えたままで、木の床を踏む音さえためらわれるほどだった。
ガイルが深く息を吐く。
「……とにかく、今日はここまでだ。瞬、少し休め」
「あ……はい」
瞬の返事は弱々しく、自分でも驚くほど力がなかった。フィアの言葉の重みがまだ胸に残っている。護衛と――監視。自分がそんな特別扱いされる理由が分からない。
フィアが静かに口を開く。
「私の配置場所を案内してください」
「わ、分かりました……」
ぎこちない返事をした瞬の横で、ガイルが頭をかきむしる。
「ったく……未来なんて言われても、どうしろってんだ……」
その言葉の裏には、瞬の体質について「何か知っている」気配が滲んでいた。しかしガイルは何も言わない。それが余計に胸のざわつきを深くした。
瞬はそっと視線を逸らし、胸の奥の微かな不安を押し隠すように歩き出した。背後から静かに続くフィアの足音は、なぜか妙に確かな重さを持って耳に届く。
「……よろしく、お願いします……?」
自分でも情けないほど小さな声だった。
フィアは答えず、ただ柔らかく一度だけ瞬を見た。その視線には、任務だけでは説明できない何かが宿っていた。
未来からの影は、もう確かに瞬のすぐそばにあった。




