第19話「揺らぐ願い」
廃都リエールの風は、昼と夜のあいだをさまよっていた。
陽は傾き、崩れた建物の影が長く伸びている。割れた石畳の隙間には、昔は街路樹だったのだろう根の名残が黒くこびりつき、その上を乾いた砂が薄く覆っていた。風がひと筋そこをなぞるたびに、砂がさあっと舞い上がり、すぐにまた静かに沈んでいく。
音は少ない。
遠くで、崩れかけた壁が小さくきしむ。ひゅう、とどこからか入り込んだ風が、折れた街灯の鉄骨を揺らし、鈍い音を鳴らす。誰もいないはずの街路に、その音だけがしつこく残響した。
瞬は、その残響を背に受けながら歩いていた。
アンナとふたり、記録庫から少し離れた通りを進む。リュカは資料の被害を確認するため残り、フィアは周囲の警戒に回った。気づけば、今この廃都の片隅で、人の気配は自分たち以外に感じられない。
それが、やけに心細かった。
アンナは少し前を歩いていた。
背筋は真っ直ぐなのに、肩の線には重さが滲んでいる。長い旅の塵をまとったマントの裾が、足元でかすかに揺れた。横顔は見えない。ただ、うつむき気味に歩くその気配から、彼女が何かを考え込んでいるのは分かった。
(……さっきの記録、奪われたから)
そう思いかけて、瞬は自分の胸の内を確かめる。
記録庫でノワールと対峙したときの、あの何ともいえない感覚。見知らぬ仮面の男に名前を呼ばれ、自分の内部まで覗かれたようなあの気持ち悪さと、悔しさ。喉に刺さった棘のように、まだ引っかかっている。
けれど、今アンナがまとっている空気は、それとは別の色をしていた。
何かを「奪われた」怒りというより、もっと昔から抱き続けてきた何か――長く、深く沈殿した悲しみの匂い。
ふと、アンナの足が止まった。
彼女は、瓦礫の山の脇に立ち尽くす。崩れた壁と壁の隙間から、かつては広場だったらしき開けた場所が覗いていた。折れた噴水の残骸。ひしゃげたベンチ。吹きさらしの空間に、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
その光の中で、アンナは立ち止まった。
瞬も、慌てて足を止める。
アンナの横顔が、ようやく見えた。
頬にかかる髪が風に揺れ、彼女は遠くを見つめている。視線の先には、もう何もない。あるのは、崩れた石と、色を失った建物の輪郭だけ。それなのに、アンナの目には、そこに「何か」が見えているようだった。
喉の奥に、言葉にならない緊張がせり上がってくる。
胸騒ぎ――というより、胸の底がひやりと冷える感じ。
「……アンナさん?」
呼びかけると、彼女の肩がかすかに揺れた。
ゆっくりと振り向いたアンナの表情は、やはり固い。けれど、その固さは怒りや苛立ちではなく、何かを押しとどめようとする力だ。目の奥には、決意と、迷いと、まだ言葉になっていない感情が混ざり合っている。
アンナは唇を結び、しばらく何も言わなかった。
そして、拳を胸の前でぎゅっと握りしめる。
白い指先が、ぎり、と音を立てそうなほど強く。
「……聞いてほしいことがあるの」
細く、しかしはっきりとした声だった。
風が、その言葉をさらっていく。
瞬は、自然と背筋を伸ばしていた。足元の瓦礫から視線を外し、真正面からアンナを見つめる。
「うん。話して」
そう答えた瞬間、自分の声もまた少し震えていることに気づく。彼女の表情の硬さが伝染したように、胸の奥がぎゅうっと締まっていた。
アンナは、目を伏せる。
長い睫毛の影が頬に落ちる。その影が、一度、二度と小さく震えるのが見えた。
「……ずっと、言えなかった。言いたくないって、思ってた」
ゆっくりと絞り出すような言葉。
「でも、ここまで来て、あんたたちが記録庫で見たものも……あの“揺れ”も……全部、見てしまった以上は。もう、黙ってるのは違うと思う」
「違う」という言葉に、短く力が込められる。
瞬は、息を吸った。
ここが“家族喪失の現場”なのだと、あらためて思い知らされる。それを確かめるように、アンナは崩れた噴水の方へ視線を向けた。まるで、そこにまだ誰かが立っているかのように。
風が、ふたりの間をすり抜けていった。
壊れた街灯が、軋んだ音をひとつ鳴らす。その音が、何かの合図のように響いた。
アンナは、静かに話し始めた。
「大時裂、って言葉は……もう知ってる?」
問われて、瞬は小さくうなずく。
「教本で……少しだけ。時層崩落の中でも、規模が大きくて……」
「そう。きちんと名前がついてるくらいには、珍しくて、最悪の現象」
アンナの声には皮肉はない。ただ、淡々とした事実の確認。
「私の家族は、その大時裂に飲まれて消えた」
その一文が、あまりにもあっさりと口にされたので、瞬は一瞬だけ理解が追いつかなかった。
けれど、次の瞬間、胸の奥に重たい何かが落ちる。
「……ここで、ですか」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
アンナは頷く。
視線は遠く、何かを透かして見ているようだった。崩れた噴水の脇、歪んだ街路の真ん中。そのあたりが、彼女にとっての「入口」であり「終わり」なのだと、瞬は直感する。
「……覚えてるのは、光の色」
ぽつり、とアンナは言った。
「空が、裂けたの。雷みたいに。だけど、音はあとからついてきた。先に光と、風と、時間の匂いだけが押し寄せてきて……」
彼女の言葉に合わせて、瞬の頭の中に、見たことのない光景が浮かぶ。
空を走る亀裂。紫とも青ともつかない眩しい線が、雲を、空気を、見えない何かを裂いていく。地面が震え、建物が揺れる。
だが、その揺れはただの地震ではない。
「世界が……ばらばらになっていくみたいだった」
アンナは、握っていた拳をほどき、代わりに瓦礫の一つへそっと手を触れた。ひびの入った石の冷たさが、彼女の指先に伝わる。
「向こう側で昼だった時間が、いきなり夜になって、また朝に巻き戻っているのが見えた。道の向こうを走っていた人が、逆再生みたいに足を戻して消えていくのも。家の窓から笑っていた誰かの姿が、ガラスごと粉々になって、光の中に飲まれていくのも」
声は静かだが、その静けさの中に震えが混じる。
「時間の破片が、空中を飛んでた。時計の針とかじゃなくて、“瞬間”そのものの破片。さっきまでそこにあった会話とか、笑い声とか。全部、細かく砕かれて、光になって、私の目の前を通り過ぎていった」
瞬は、息を飲む。
喉が乾いて痛い。何度も唾を飲み込もうとするのに、うまくいかない。
「そのとき、私、まだ子どもで。何が起きてるのか、分からなかった」
アンナは、自嘲気味に笑ってみせる。だが、その笑みはすぐに消える。
「ただ、怖くて。泣き叫んで。そしたら、お母さんが私の前に立って、抱きしめてくれた。お父さんも、後ろから私を抱きしめて、両方の腕で挟んでくれて」
両親の姿を思い出すように、アンナは目を閉じる。
かすかに震える睫毛。ぎゅっと結ばれた唇。喉の奥で止められている何か。
「お父さんの手、すごく温かかった。お母さんの髪の匂いも、まだ覚えてる。こんなふうに風が吹くと、あのときと同じ匂いがする気がして……」
風が、彼女の髪を揺らした。
瞬は、言葉を挟めない。挟んではいけないと思った。
「……次の瞬間、全部消えた」
アンナは、ぽつりと告げる。
「気づいたら、抱きしめられていたはずの腕も、声も、匂いも。ぜんぶ。私の目の前には、この壊れた街と、裂けた地面と、止まらない“揺れ”だけが残ってた」
淡々とした語り口の中で、声がほんの少しだけ震えた。
「家族も……時間も、まとめて」
最後の一言は、かろうじて形を保っていた。
瞬は、胸の内側がぎゅうっと握りつぶされるような感覚に襲われる。
「……そんな……」
それ以上、うまく言葉が出てこなかった。
足元の石に視線を落とす。そこにあるのは、ただの瓦礫だ。けれど、今はそのひとつひとつが、彼女の言う「破片」のように思えた。笑い声の残骸。食卓の記憶の欠片。帰りを待つ人の思いの破片。
アンナの指先が、触れていた石から離れる。
その手が、かすかに震えているのが見えた。
「大時裂が収まったころには、私以外、ここには誰もいなかった」
目を開けたアンナの視線が、崩れた広場をなぞる。
「街全部が、時間ごとどこかへ落ちたみたいに。ここだけ、ぽっかり穴みたいになって……私だけが、その縁に取り残された感じ」
その「取り残された」という言葉が、やけに重く響いた。
風が、一度強く吹いた。
周囲の瓦礫の一部が、がらりと音を立てて崩れる。砂埃が舞い上がり、夕方の光を曇らせた。二人の影が、その中で揺れる。
廃墟の静寂が、ふたりを包み込んだ。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
瞬は自分の胸の奥のざわつきをどう扱っていいか分からず、指先をきゅっと握りしめる。爪が掌に食い込み、鈍い痛みがじわりと広がる。その痛みさえ、何かを紛らわせるためには足りない気がした。
(……こんなの)
喉の奥で、言葉にならない何かが渦巻く。
(こんなの、おかしい)
家族も、時間も、まとめて消えてしまうなんて。ひとりだけが取り残されて、こんな廃墟の中を、何度も何度も歩き直すことになるなんて。
自分が同じ立場だったら、と想像するだけで、足元がぐらりと揺れた気がした。
「……おかしいよ」
気づいたら、口に出していた。
アンナが、少し驚いたように瞬の方を見る。
「こんなの、おかしい……。アンナさん、何も悪くないのに。ここにいた人たちだって、ただ暮らしてただけなのに……なんで、時間が勝手に裂けて、そのせいで全部……」
最後まで言い切る前に、声が震えて崩れた。
瞬は拳をさらに強く握りしめる。
「そんなの、許せるわけないじゃないか……!」
怒りというには幼い、どうしようもない悔しさとやりきれなさが、胸の中で暴れる。地面を拳で叩きたい衝動が一瞬湧くが、ここにある瓦礫はアンナの記憶そのもののように思えて、手が出せなかった。
「瞬……」
アンナが、そっと瞬の名前を呼ぶ。
次の瞬間、彼の肩に、温かな感触が置かれた。
アンナの手だ。
そっと、震えをなだめるように、優しく乗せられている。
「ありがとう」
意外な言葉だった。
「え……?」
思わず顔を上げると、アンナは少しだけ頬を緩めていた。笑顔というには儚い、けれど確かに柔らかさを含んだ表情。
「怒ってくれて、悔しがってくれて、そう言ってくれて……それだけで、少し救われる」
そう言って、彼女は自分自身の胸元をぎゅっと握る。
「ずっと、ここに戻ってきても、自分ひとりで怒って、自分ひとりで泣いて、自分ひとりで全部飲み込むしかなかったから。……誰かが一緒に悔しがってくれるって、こんなに軽くなるんだね」
瞬は、胸の奥がまた別の意味で締めつけられた。
自分は何もしていない。ただ、聞いて、勝手に怒っているだけだ。それなのに、「救われる」なんて言われる資格が、自分にあるのだろうか。
けれど、アンナの目は嘘をついていなかった。
そこに灯った小さな光――ほんのわずかながらも、長い闇の中で見つけた火種のようなものが、揺れながらも消えずにいる。
(もっと、何か……)
何かできないか、と瞬は思う。
失われたものは戻らない。それが常識だ。ギルドでも、時層学の基礎でも、さんざん教え込まれてきた。「過去改変は禁忌」「時間への干渉には代償がある」。それでも――。
胸の底で、別の声が囁いた。
(本当に?)
本当に、何もできないのか。
大時裂は、ただの自然災害なのか。それとも、誰かが起こした「何か」の結果なのか。もし後者なら――もしそこに意図があり、仕組みがあるのなら――それを逆向きに辿る道も、どこかにあるのではないか。
記録庫で見た、塗りつぶされた名前欄。自分に酷似した赤ん坊の写真。ノワールの「君はまだ、自分が何者か知らない」という言葉。
それらが、頭の中で一気につながりかける。
そして、ひとつの危うい考えが、形を持ち始めた。
空の色が変わり始めていた。
夕暮れが、紫と青の境目に滲んでいく。崩れたビルの輪郭が濃い影になり、その向こうで時層の揺らぎがかすかに光るのが見えた。遠くの空間が、蜃気楼のようにゆらりと歪む。その歪みの中に、過去の断片がいくつも埋まっているのだと思うと、背筋がぞくりとする。
瞬は顔を上げたまま、口の中で言葉を転がした。
言ってはいけない。
けれど、言いたい。
そのせめぎ合いが、舌の上で何度も行ったり来たりする。
「……もし」
気づけば、声が漏れ出していた。
アンナが、隣で小さく息を呑む。
「もし、過去を――」
瞬は一度言葉を切り、喉の奥で息を整える。
それでも、止まらなかった。
「もし、過去を変えられたら……って、考えたこと、ありますか」
紫がかった空を見上げたまま、問う。
アンナはしばらく返事をしなかった。風の音だけが、ふたりの間を通り抜けていく。
やがて。
「あるよ」
静かな答えが返ってきた。
「何度も」
アンナは、自分の胸に手を当てる。
「ここに戻るたびに。目を閉じるたびに。“あのとき、別の道を選べていたら”って。あの時間に戻れたら、あの光が走る前に家族を連れ出せたら……って。そんなことばかり考えてた」
その告白は、ごく自然なものだった。
瞬の胸が、少し痛んだ。
「そう、ですよね……」
自分だったら、とまた考える。
自分の家族――ぼんやりとした輪郭しか思い出せないが――が目の前で消えたとして、それを「仕方ない」で片づけられるはずがない。何度でも頭の中でやり直しを試みてしまう気がする。
「でも」
アンナは、同じ手で自分の腕を軽く抱きしめるようにして、ひと呼吸置いた。
「変えちゃいけないって、知ってる」
静かに、しかしはっきりとした声だった。
「大時裂みたいな規模の崩落は、誰かがいじってどうにかできるものじゃない。もし無理にこじ開けようとしたら、今残ってるものまで全部壊れる。……この街だけじゃなくて、もっと広い、他の場所も巻き込んで」
その言葉には、ただの教本の知識ではない重みがあった。
「だから、私は“戻りたい”って思うたびに、自分で自分を叱ってきた。“ダメだ”って。“それをやったら、もっと多くを失う”って。……そうしないと、ここに立ってられなかったから」
瞬は、拳をほどいた。
開いた手のひらに、浅い爪跡がいくつも刻まれている。皮膚がうっすら赤くなり、じんじんとした痛みが残っていた。それを見つめながら、ぐっと唇を噛む。
「それでも」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
「それでも、もし……もし、時間を壊さずに済む方法があるなら」
喉の奥に、言葉がひっかかる。
けれど、それを押し出した。
「誰かがあんなふうに消えるのを、止められる道があるなら……僕は、探したいって思ってしまうんです」
アンナは、目を見開いた。
瞬は、視線を逸らさないように、あえて彼女の目を見つめる。その中に映る自分の顔は、まだ子どもっぽく見えるだろう。けれど、そこに浮かんでいる感情だけは、誤魔化しようがなかった。
「その考えが危ないってことも、頭では分かってます。ギルドでも何度も言われたし……さっきのノワールみたいに、時間を弄んでる奴らがいて、そのせいでこんなことが起きてるのかもしれないってことも」
記録庫で聞いた低い声が、耳の奥で蘇る。
君はまだ、自分が何者か知らない。
あの言葉もまた、瞬の背中を押しているような気がした。
「でも、アンナさんの話を聞いて……リエールのことを見て……」
胸に手を当てる。
そこには、まだ言葉になっていない叫びが渦巻いていた。
「“変えたい”って、思ってしまったんです。こんな悲しみ、誰にも味わってほしくないから」
夜が、ゆっくりと降りてきていた。
陽はとっくに地平の向こうへ沈み、空には暗い藍色が広がり始めている。崩れたビルの切れ端に、星々がぽつぽつと姿を現した。廃墟の輪郭が黒く沈み、代わりに天空が存在感を増していく。
風は冷たくなったが、その冷たさにはどこか澄んだものが混じっている。
アンナはしばらく黙っていた。
瞬の言葉は、軽いものではない。それを受け止めるには、時間が必要だったのだろう。彼女は目を閉じ、深く息を吸い込む。その胸の上下動が、薄暮の中でわずかに揺れる。
やがて、瞼がゆっくりと開かれる。
星の光が、その瞳の奥に小さく映った。
「……代償は、大きい」
最初に出てきたのは、その一言だった。
「過去を変えようとするってことは、“今”を壊すことと同じだから」
アンナは、握っていた腕をほどき、代わりに瓦礫に腰を下ろした。壊れた噴水の縁に座ると、足元で転がる小石をつま先で軽く転がす。
瞬も、その隣にそっと腰を下ろした。
石の冷たさが、服越しに伝わってくる。空を見上げれば、ビルの切れ端の間に、切り取られた空がある。そこだけは、まだどこか別の世界と繋がっているかのように澄んでいた。
「大時裂の研究者たちが、昔、似たようなことを考えたって、聞いたことがある」
アンナは、遠くを見るような目で語る。
「崩落が起きた瞬間に遡って、原因を消せばいいんじゃないか、って。原因となった時層の歪みを事前に取り除けば、被害はなくなるんじゃないか、って」
「……それで、どうなったんですか」
「成功した、っていう話は、聞いたことがない」
短い答え。
「代わりに、“試した跡”なら残ってる。別の場所で、別の小さな崩落となって。……辻褄を合わせようとした時間が、他の場所を切り捨てた形跡」
瞬は、背筋がぞくりとした。
「多分、世界は“帳尻”を合わせようとするんだと思う。どこかで失われるはずだったものを無理やり守ろうとしたら、別のどこかから何かを持っていく。ゼロにならないように」
それは、残酷な仕組みだった。
けれど、妙に納得もしてしまう。時間は、何かの意思を持っているわけではない。だからこそ、単純な「保ち」を優先する。どこかで大きな穴が空きそうになれば、別の場所を削って穴を埋める。
「……だから、戻りたいって、何度思っても」
アンナは、両手を膝の上で組んだ。
「いつも、最後はそこで止めてきた。“私が戻ろうとしたら、別の誰かの時間が壊れるかもしれない”って。私が欲張ったせいで、別の誰かが私みたいになるのは……嫌だから」
その言葉には、苦さと優しさが一緒に詰まっていた。
瞬は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
「アンナさんは、優しすぎます」
ぽろっと出た本音に、アンナは少し目を丸くした。
次いで、ふっと小さく笑う。
「そうかな。……ただの臆病かもしれないよ」
「臆病だったら、ここへは戻ってこないと思います」
瞬は、空を見上げたまま言った。
「怖くても、ちゃんとここへ来て、家族のことを思い出して……その上で、“それでも誰かを巻き込みたくない”って言えるのは、強い人です」
自分の言葉が、少しでも彼女の重さを軽くできていたらいいと願いながら。
アンナは黙って、少しの間だけ星空を見上げていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「瞬は、変な子だね」
「えっ」
「普通、自分のことでいっぱいいっぱいになるところで、ちゃんと他人のことも見てる。……危なっかしいけど」
最後の一言には、苦笑いが混じる。
「その危なっかしさが、“過去を変えたい”なんて言葉を出させるんだろうね」
図星を指され、瞬は口をつぐんだ。
自分でも、自覚はある。誰かが困っていると聞くと、すぐ「何かできないか」と考えてしまう。その「何か」が自分の手に余るものであっても、つい手を伸ばしてしまう。
今回も、そうだ。
過去を変えるなんて、ギルドの教本では禁忌中の禁忌。頭では理解している。大時裂のような悲劇を二度と起こさないために、触れてはいけないとされている領域。
それでも――。
「それでも、やっぱり……」
胸の中で再び渦を巻き始めた願いを、瞬は押し殺しきれずにいた。
星が、ひとつ増えた。
夜の色が濃くなる。風が少し強まり、廃墟の隙間をすり抜けて冷たい音を立てる。遠くの時層の揺らぎが、かすかな光となって空の端で瞬いた。
瞬は、その光と星を同じ視界に収めながら、静かに言った。
「……俺、知りたいです」
アンナが視線を横に向ける。
瞬は胸に手を当てた。
「この街で何が起きたのか。大時裂の本当の原因が何だったのか。……それに、僕が何者なのかも」
記録庫で見た、赤ん坊の顔が頭に浮かぶ。自分と同じ目。自分と同じ輪郭。塗りつぶされた名前欄。
「ノワールみたいな人たちが、好き勝手に“時間”を弄んでるなら……それを止める方法だって、どこかにあるはずだって思ってしまうんです。過去を変えるっていう形じゃなくても、誰かが消えるのを防ぐ手段が、きっと」
言いながら、自分でもその願いがどれほど無謀か分かっている。
けれど、それでも。
「誰も、アンナさんみたいな悲しみを抱えなくていい世界を……見てみたい」
それは、祈りにも似ていた。
アンナは、長いこと黙っていた。
風の音だけが、間を埋める。遠くで何かがまた崩れる音がし、その破片が石畳を転がっていく。
やがて、アンナは小さく息を吐いた。
「……ありがとう、瞬」
ほとんど囁きのような声。
「そんなふうに言ってくれる人がいるなんて、思ってなかった」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みの奥には、やはり涙の光があった。こらえきれずに零れるほどではないが、確かにそこにある水の気配。長い間乾き続けていた土が、ようやく一滴の雨を受け取ったかのような、そんな微かな潤み。
「でも……怖くもある」
アンナは、正直に続ける。
「あんたみたいな子が、本気で“変えたい”なんて願いを抱えたまま、時間の渦の中に踏み込んでいくのは。……その行き着く先が、どんな場所か分からないから」
瞬は、静かに頷いた。
「僕も、怖いです」
嘘ではなかった。
「怖いけど……それでも、願ってしまったものは、きっと消えないから」
胸に手を当てたまま、目を閉じる。
暗闇の向こうで、いくつもの残響が揺れていた。リエールで途切れた時間。大時裂で消えた家族の声。塗りつぶされた記録。仮面の男の低い声。そして、自分自身の「もしも」。
それらが渦を巻き、ひとつの方向を指し示している気がした。
「俺……変えたいです」
そう口にすることで、自分自身に刻み込む。
「過去そのものを変えるんじゃなくてもいい。誰かが消える未来を、別の形に変えたい。アンナさんみたいな人を、もうこれ以上増やしたくない」
星が、またひとつ増えた。
アンナは、空を見上げていた。その横顔はどこか遠くを見ているようで、けれど今ここに確かに存在している。彼女の瞳に映る星と廃墟と瞬の姿が、静かな絵のように重なっていた。
「……無茶だね」
少しだけ冗談めかした声。
「うん。自分でもそう思います」
「でも」
アンナは、そっと微笑んだ。
「嫌いじゃないよ、そういう無茶」
その微笑みは、哀しみと希望と不安を全部抱え込んだまま、それでも前を向こうとする人の顔だった。
冷たい風が、ふたりの頬を撫でていく。
頭上には、星々と、時層のかすかな揺らぎ。足元には、大時裂で砕けた時間の残骸。そのど真ん中で、瞬の願いは静かに形を取り始めていた。
揺らぎながらも、消えずに。
禁忌とされる領域へと、細い糸を伸ばしていく。その糸がいつか、自分自身の首を締める縄になるのか、それとも誰かを救うための命綱になるのか――今は、まだ誰にも分からない。
ただひとつ確かなのは、その願いが、この先の物語を大きく動かす“火種”になったということだけだった。




