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時層交錯ファンタジア  作者: トワイライト
第1章:ギルドと時層世界の門出

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第16話「封じられた面影」

 地下へと続く石階段は、まるで地面そのものが口を開けているようだった。


 崩れた建物の影の裏に、ひっそりと隠されるように開いた穴。その口から、湿った空気がゆっくりと吹き上がってくる。冷たいのに、生温かい。長く閉ざされていた部屋の息が、地上へ逆流している。


 瞬は、階段の縁に足をかけてから、一度だけ振り返った。


 廃都リエールの空は、どんよりと曇っているわけではない。雲は薄く、光も差しているのに、街全体にかぶさった見えない幕が、色彩を一枚剥ぎ取ってしまったような景色だった。遠くには、さっきまで見ていた光の断層が、まだかすかに脈打っている。


 そこから少し離れたこの一角は、巻き戻り現象の波から外れた比較的安定した「谷間」だとリュカは言った。だからこそ、こうして地下に潜る余裕がある。


 ひんやりとした石の感触が靴底越しに伝わってくる。瞬は息を整え、足を下ろした。石階段を踏むたびに、足音が鈍く響き、その残響がほんの少し遅れて耳に戻ってくる。


(……残響、というより)


 別の時間の自分の足音が、すぐ後ろから追いかけてきているみたいだ、と瞬は思った。


「ここが……記録庫?」


 背後で、リュカの声が弾む。わくわくを隠しきれていない調子だったが、その足取りは慎重だった。片手には、携帯用の光源と簡易端末が握られている。


「昔は……もっと綺麗でした」


 先頭を行くアンナが、小さく呟く。彼女の声は、地下から吹き上がる冷気にさらわれて、すぐに薄くなった。


 階段を下りきった先に、古い扉がひとつ、ぽつんと佇んでいた。


 厚い木板に鉄の補強が施された重そうな扉。金属部分には斑に錆が浮かび、触れたらぽろりと剥がれ落ちそうだ。だが、中心部の鍵穴の周囲だけは、不自然なほど錆が薄く、最近まで誰かが使っていた痕跡がある。


 ランタンの光が鉄を照らし、鈍い光沢を返す。扉の表面には、古いリエールの紋章が刻まれていた。今はもうどの地図にも載らない、その都の印。


 瞬は無意識に胸へ手を当てた。心臓の鼓動が、さっきから少し早い。何かがある――そんな胸騒ぎが、ここまで来て一層強まっていた。


「開けるよ」


 リュカが扉の脇に付いた簡易ロックを確認し、短く頷く。崩落後にギルドが設置した簡易封鎖で、既に解除コードはガイルから伝えられていた。


 カチリ、カチ、と乾いた音が連なり、小さなランプが緑に変わる。


 瞬は深く息を吸い、両手で取っ手を掴んだ。ひんやりとした金属の冷たさが掌を刺す。押すと、抵抗があった。長年動かされなかった扉の重さと、そこに染み込んだ時間の蓄積が、体重をかけないと動いてくれない。


 ギギィ、と長く軋む音が地下に広がる。その音さえ、ほんの少し遅れて返ってきた。


 黒い口を開いた記録庫の中から、冷えた空気と、紙とインクと埃が混ざった匂いが、三人の鼻腔を満たした。


 中は、思っていたよりも広かった。


 薄暗い室内には、天井まで届くほどの高さの棚が何列も並び、狭い通路を形づくっている。棚には箱や束ねた紙、古い記録媒体がぎっしりと詰め込まれていて、その一部は崩れかけ、床にも乱雑に積み上げられていた。


 リュカがランタンを掲げると、その灯りに照らされて、紙の端がかすかに揺れる。風はないのに、紙片たちは微妙に震え続けている。まるで見えない何かが、時々そこに触れていくように。


 瞬は、一歩中へ踏み込んだ。


 足元の石床は、外の瓦礫だらけの地面とは違い、意外なほど平らで、しっかりしていた。ここだけは、崩落の被害を何とか免れたのだろう。だが、それでも天井近くには小さな亀裂が走り、そこから落ちた塵が棚や箱に薄く積もっている。


 空気が重い。喉の奥に何かがまとわりつく感じ。呼吸をすると、肺の中に時間の粉塵まで吸い込んでしまいそうな気がした。


「……すごいな。これだけ残ってるとは思わなかった」


 リュカが、興奮を抑えきれずに声を漏らす。


「都市記録、住民登録、時層安定局の定期報告……少なくとも崩落前数十年分はありそうだ。いや、もしかしたらもっと古いのも」


「全部……リエールの人たちの」


 アンナが、棚の端にそっと指先を添える。埃を払う手つきは、どこか撫でるようで、懐かしいものに触れるときのそれだった。


「昔は、もっと明るくて、整理されていて……ここで働いていた人がいて……」


 そこで言葉が途切れる。


 瞬は、その横顔を見つめながら、胸のあたりをぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。アンナにとって、ここは単なる「資料の山」ではない。彼女の「元いた世界」の一部なのだ。


「仕分けの目星はついてる?」


 リュカが、現実的な問いを投げる。彼の声には優しさと焦りが混じっていた。限られた時間の中で最大限の情報を引き出さなければならないという責任感が、その背中に乗っている。


「はい。住民記録の区画はあちら側です。……崩落後、誰も触っていなければ、ですけど」


 アンナが指し示した先には、少し他より低い棚が並んでいた。そこには箱が均等に積まれ、側面に細かい文字で年代が書かれている。


 三人は、その方向へと足を向けた。


 歩きながら、瞬はふと視界の端で、何かが揺れたのを見た。


 棚の間の隙間を、影が横切った――気がしたのだ。人影のような、そうでないような、輪郭の曖昧な影。振り向いたときには、そこにはただ、埃をかぶった棚と箱があるだけだった。


(……気のせい?)


 瞬が眉を寄せると、足元の石床が、ほんの一瞬だけぐらりと揺れたように感じられた。すぐに収まったが、その間、視界の色調が少しだけ変わった。今と、過去が、半歩だけ重なったような感覚。


「瞬?」


 アンナが、不安そうにこちらを振り向く。


「ううん、大丈夫。ちょっと……目がくらんだだけ」


 瞬は笑ってみせた。嘘ではない。嘘ではないが、すべてでもない。


 記録庫の空気には、外の巻き戻り現象とは違う種類の「時のゆがみ」が漂っている。ここだけ時間の継ぎ目だらけで、別の瞬間の残り香が、いまだに棚の間を漂っているような、そんな気配。


 ページが擦れる小さな音が、あちこちから聞こえてきた。


 リュカが箱を開け、紙束を取り出し、手早く仕分けしている。アンナは別の棚から古文書を慎重に引き出し、一枚一枚めくっていく。風がないはずなのに、開かれたページが微かに揺れ、インクの文字が一瞬だけ滲んでは戻る。


「これは……年代が合わないぞ」


 リュカが眉をひそめた。


「時層安定局の報告書の日付が、次のページと十日もずれてる。それなのに、事件番号が連続している……」


「どうして……?」


 瞬が問い返すと、彼は紙束をひらひらと揺らしながら首を傾げた。


「巻き戻りや崩落の影響で、記録のほうも時系列が崩れてるのかもしれない。あるいは、意図的な改ざん。どっちにしても、“普通”じゃない」


 普通じゃない。そう言われるまでもなく、この場所の全てがそう感じられた。


 どれくらい時間が経ったのか、正確には分からなかった。


 記録庫の中には時計も、窓もない。薄い光とランタンの灯りだけが、時間の経過を曖昧に照らす。三人はそれぞれの棚と箱に向かい、ひたすら紙と向き合っていた。


 瞬の前には、住民登録の記録が並んでいた。


 名前、年齢、家族構成、居住区。細かな文字がびっしりと並んでいる。ところどころ、インクが滲んで読めない部分もあるが、大半はまだ辛うじて判別できた。


 読み進めるうちに、瞬は妙な気分になっていった。


 そこに記されているひとつひとつの名前が、もうこの世には存在しないことを知っている。彼らの家も、街も、生活も、あの巻き戻りと崩落の中で失われた。


 なのに、紙の上では、彼らは「今もそこにいる」。


 名前の隣に並ぶ年齢と家族の記述。住所欄に書かれた区画名。きちんと書類として整理されているその情報が、時間から切り離されたまま、ここに閉じ込められている。


(封じられた、面影――)


 そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。


 紙をめくる指先が、ふと止まる。


 見慣れない印の付いた封筒が、一枚の台帳の間に挟まれていた。周囲の紙と違って、やや厚手で、封は既に切られている。側面には、簡単な分類記号と日付だけが殴り書きされていた。


「……これは?」


 瞬が手に取り、そっと中身を引き出す。


 ぺらり、と柔らかい紙が折りたたまれた状態で出てきた。その間に、薄い板状の記録媒体――小さな透明板に挟まれた古い写真のようなものが一枚、滑り落ちそうになる。


「あ、ちょっと貸して」


 すぐそばにいたリュカが、慌てて手を伸ばして受け止めた。


「危ないなぁ。こういうのは壊したら情報ごと消えるんだから、もっと丁寧に――」


 苦言を言いながらも、その目はもう透明板の中身に釘付けになっていた。


 板の中には、小さな影が映っている。


 古い記録媒体特有の、色の抜けたような、わずかにセピアがかった映像。だが、その輪郭ははっきりしていた。


 布にくるまれた赤ん坊。


 寝かされているのか、抱き上げられているのか、背景はぼやけて判然としない。ただ、小さな顔だけが灯りに照らされている。その顔立ちが。


 瞬は、呼吸の仕方を忘れた。


 自分を、見ている。


 そんな錯覚が、胸に突き刺さる。


 丸い頬、少しだけ上を向いた鼻。閉じられた瞼の形。口の端の線。まだ幼いはずのその顔に、今の自分と同じ骨格の影が透けて見える。


「……これ……」


 喉がひゅ、と鳴る。声がうまく出てこない。


 リュカも、一瞬言葉を失っていた。眼鏡の奥で目が大きく見開かれ、透明板を持つ手がわずかに震えている。


「似てる……」


 かすれた声で、ようやくそれだけを絞り出す。


「似てるなんてもんじゃない。これは……」


「瞬くん?」


 少し離れた棚にいたアンナが、二人の様子に気づき、歩み寄ってきた。彼女は透明板を覗き込んだ瞬間、息を止めた。


 瞳に驚きが走り、その奥に、別の色が滲む。どこか懐かしさと、鋭い痛みを混ぜたような、複雑な光だった。


「……どういう……こと……」


 アンナの声は、呟きというより、漏れた息に近かった。


 瞬は、自分の手に視線を落とした。透明板を受け取る手が、驚くほど強く震えている。抑えようとしても、震えは止まらなかった。


「……これ……僕……?」


 自分でも、その言葉を口にすることが怖かった。


 リュカは唇を結び、すぐには答えなかった。その代わり、透明板を一旦机代わりの箱の上に置き、封筒から引き出された紙のほうに目を通し始める。


 湿気を帯びた空気が、急に重くなったように感じられた。記録庫全体が、三人の周囲にじわじわと近づいてくる。


 紙には、簡体化された表が印刷されていた。


 出生記録。


 日付、場所、医療担当者の署名。測定された体重と身長。体温。時層安定度指数。項目ごとに数字や文字が記入され、いくつかは赤インクで丸を付けられている。


 そして、上部にあるはずの「氏名」の欄だけが――


 黒く、塗りつぶされていた。


 べったりと、乱暴に。文字の形を完全に消し去るように、何度も何度も上から重ね塗りされたような黒。


 縁の部分には、微かなインクの滲みが残っていて、そこに何かがかつて書かれていたことだけが、かろうじて想像できた。


「名前欄だけが……消えてる」


 リュカが低く呟く。


「これは偶然じゃない。紙の他の部分は残ってるのに、ここだけが明らかに後から塗りつぶされてる。意図的だ」


「誰かが……隠した?」


 瞬の声は、自分でも驚くほど小さかった。


 リュカは頷き、指で別の部分を指し示した。


「それに、ここ。出生日時と、時層安定度の数値……」


 瞬とアンナが顔を寄せる。


 記録に記された日付は、リエール崩落の、かなり前だった。瞬の記憶にある自分の生年――ギルドに拾われたときに聞かされた年と照らし合わせても、理屈が合わない。


「……おかしい」


 瞬がかぶりを振る。


「僕は、もっと後の生まれのはずで……ガイルさんからも、そう聞いてて……」


「そうだね」


 リュカが、真剣な目で瞬を見る。


「少なくとも公式記録上は。だけど、この赤ん坊の“顔”は、今の君とほぼ同一だ。骨格、目鼻立ち、額の形。成長差を考えても、ここまで一致するのは同一人物か、近親クローンか……それくらいだ」


「く、クローンって……」


 瞬が顔をしかめる。


「それに、ここ。時層安定度指数」


 リュカは、赤インクで丸が付けられた数字を軽く叩いた。


「通常の新生児の平均値の、三倍近い。明らかに“異常値”。しかも横の欄には、『時層適応性:特異/要経過観察』って書いてある。時層異常に強く反応する体質……まるで、今の君みたいだろう?」


 瞬の背筋に、冷たいものが走る。


 自分の体質。その正体を探るためにここまで来た。そして、今、目の前に突きつけられているのは、「ここに似た存在がいた」という事実。


 アンナは、紙から目を離せずにいた。


「この記録……いつのものなんですか?」


「ここに年号がある。崩落の、十数年前。リエールがまだ“普通”だった頃……のはずだ」


「そんなはず……」


 アンナは、記録庫の奥を振り返るように、一度視線を宙にさまよわせた。


「その頃、こんな子がいたなんて……聞いたことがない。少なくとも、私が知っている範囲では……」


 震える声。


「でも、ここに書かれているのは事実のはずでしょう? この紙も、写真も……」


 瞬は言葉を失った。


 自分に酷似した赤ん坊。名前を消された記録。時層異常に関する特異な数値。そして、自分と合わない出生時期。


 頭の中で、それらの情報がぶつかり合い、はじけ飛び、まとまった形になってくれない。


(僕はいったい……何者なんだ)


 ずっと抱えていた問いが、ここへ来て形を変えた。今までは「自分の過去が分からない」という漠然とした不安だったものが、「もしかしたら、自分には“本来の位置”が別にあったのかもしれない」という、もっと具体的で、もっと恐ろしい疑念へと。


「……落ち着いて」


 肩に、そっと手が置かれた。


 アンナの手だった。指先に力はほとんど入っていない。けれど、その温度が、記録庫の冷たさの中で、はっきりと伝わってきた。


「今はまだ、断片だけです。全部を一度に飲み込もうとしたら、潰れてしまいます」


 彼女の声は、自分自身にも言い聞かせているようだった。


「リエールで何が起きたのかも、この子が誰なのかも……まだ、全部は分からない。だから……」


 瞬は、ぎゅっと目を閉じ、深呼吸をした。


 肺の中の空気を入れ替えるたびに、埃っぽい匂いと一緒に、胸の奥のざわめきが少しずつ落ち着いていく。


「……そうだね」


 小さく答えてから、瞬はゆっくりと目を開いた。


 それでも、恐怖が消えたわけではない。紙の上の情報と、透明板の赤ん坊の顔が、視界の端でちらつき続けている。


 だが、その隣に、別の感情も生まれ始めていた。


(知りたい)


 怖い。できれば見たくない。関わりたくない。


 けれど、それでも。


 自分が何者で、なぜこの世界の“時の乱れ”に巻き込まれ続けるのか。その答えが、どこかにあるのだとしたら。


 目を背けたままでいることのほうが、今は怖かった。


 机代わりの箱の上に、関連しそうな資料を次々と広げていく。


 出生記録だけでなく、同じ年に起きた時層異常に関する報告書、医療局の内部メモ、時政院からリエール宛に送られた照会文書など。バラバラだった紙片が、徐々に一つの山を形づくっていく。


 リュカは、手早く必要な箇所に目を走らせ、端末にメモを取りながら、いくつかの繋がりを見出していく。


「……ここ、見て」


 彼が指さしたのは、出生記録の端に記された小さな注記だった。


 そこには、「時政院指定案件につき、本件に関する追加記録は別枠保管」と記されている。さらに、その横には、見慣れない分類コードが書き込まれていた。


「別枠……?」


「通常の住民記録とは別に、時政院の要請で作られた特別ファイルだろうね。特異体質者や、重要案件の関係者にだけ付与される分類コードだ。つまり、この赤ん坊は生まれた瞬間から、上に“マーク”されていたってことになる」


 リュカは、背筋をぞくりと震わせたようだった。それは恐怖ではなく、未知の構造に触れたときの研究者特有の興奮と緊張の混じった反応だ。


「時間の歪み……あるいは、“特異点”の萌芽、として」


「特異点……」


 瞬は、以前どこかで聞いたその言葉を思い出す。時政院が特別に監視対象とする存在の呼び名。世界の時間構造に影響を与えうる“点”。


(イェルンさんたちが見ている資料の中にも、僕の名前が……)


 そんな想像が、頭をよぎる。


「リエールの崩落と……関係が……?」


 アンナが、震える声で訊ねる。


「少なくとも、完全に無関係とは思えないね」


 リュカはそう言いながらも、軽々しく断定はしなかった。


「この時点では、あくまで“可能性”だ。時系列も、記録の整合性も崩れている。時間が歪んでいる場所で作られた資料だからこそ、逆に信用度が下がる部分もある」


「でも、だからって……」


 瞬は、資料の山を見下ろしながら呟く。


「だからって、何も見なかったことには、できない」


 自分の震えを認めるように、両手を強く握りしめる。


「この子が誰で、どうして名前を消されたのか。リエールで何が起きて、どうして僕が今ここにいるのか……全部、知りたい」


 その言葉に、リュカはゆっくりと頷いた。


「僕も知りたい。単なる好奇心じゃない。これは、時層世界全体の安定に関わる問題だ。特異な体質と、都市規模の崩落。……それが一本の線で繋がるなら、その構造を解き明かすことは絶対に必要だ」


 彼の瞳には、理屈と責任と興奮が混じった色が宿っていた。


 アンナは、少しだけ視線を落とし、静かに口を開く。


「私も……知りたいです。リエールで何が起きたのか、本当はどうだったのか。あの日からずっと、時間が止まったままの気がしていて……」


 彼女の指先が、あの透明板の縁にそっと触れた。


「もし、この子が何かの鍵なら……あなたが何かの鍵なら……それを知らないままでいるほうが、きっと残酷です」


 記録庫の奥から、微かな振動音がした。


 まるで、遠くで誰かが本を閉じたような、小さな音。あるいは、別の時間の誰かが、同じ資料に手を伸ばした瞬間の、重なり。


 机の上の紙が、わずかに揺れた。


 瞬は、背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。


「……じゃあ、行こう」


 自分に言い聞かせるように呟く。


「ここだけじゃない。別枠保管の記録があるなら、この記録庫のどこかに、もっと深い層があるはずだ」


 リュカが、わずかに口の端を上げた。


「中央区画。時層安定局と時政院の共同保管庫があったはずだ。崩落でどこまで残っているか分からないけど……行ってみる価値はある」


 アンナは、二人を見回し、小さく微笑んだ。その笑みはまだ痛みを含んでいるが、さっきよりも少しだけ柔らかかった。


「中央区画への通路は、上階から繋がっています。案内しますね」


 三人は、資料を慎重に封筒に戻し、透明板を布で包んで保護した。


 記録庫を出る前に、瞬はもう一度だけ、中を振り返る。


 棚の間には、まだ数えきれないほどの記録が残されている。触れられず、読まれず、時間のざわめきだけを吸い込み続ける紙とインクの山。


 そこには、彼らがまだ知らない秘密が、いくつも眠っているのだろう。


(全部は無理でも、できるだけ……)


 心の中でそう約束してから、瞬は扉へと向き直った。


 階段を上る。ひんやりとした地下の冷気が、背中にまとわりついてくる。だが、上から差し込むわずかな光が、その冷たさを少しだけ和らげた。


 地上に出ると、廃都の空気が、一瞬だけ胸いっぱいに流れ込んできた。


 冷たい風。崩れた建物の影。遠くで、まだ光の断層が脈打っている。


 さっきまで息苦しく感じていたこの空気が、今は不思議と心地よく感じられた。記録庫の重さに比べれば、ここはまだ「息ができる」場所だ。


「……知りたい。全部」


 自然と、言葉が口をついて出た。


 リュカが隣で笑う。興奮を隠さない、研究者の笑みだ。


「その意気。データも現象も、真相も。あの赤ん坊の正体も、リエールの崩落も、君自身のことも……全部、解き明かそう」


 アンナは少し先で振り返り、二人に頷いた。


「次は、中央区画です。……あそこには、もっと“濃い”記録が残っているはず」


 三人は、崩れた街の中を、再び歩き出す。


 背後で、地下への扉がゆっくりと閉じる。ギギィ、と軋む音が再び鳴り、その音は今度は残響を引きずることなく、静かに消えた。


 記録庫の中に封じられた面影は――赤ん坊の顔も、塗りつぶされた名前も――まだそこに留まり続ける。


 だが、その面影はもう完全な闇の中ではない。瞬たち三人の記憶に刻まれ、これから進む道のどこかで、必ず再び姿を現すだろう。


 冷たい風が、頬を撫でた。


 瞬は一度だけ後ろを振り返り、薄暗い地下への入口を見つめる。


 胸の中で渦巻く不安と、わずかな決意。


 それらを抱えたまま、彼は前を向き、崩れた中央区画へと続く道を、一歩、また一歩と踏みしめていった。

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