第15話「途切れた時の残響」
城壁だったものの輪郭が、地平線の向こうからじわじわと立ち上がってきた。
近づくにつれ、それが「街の入口」ではなく「断ち切られた時間の縁」に見えてくる。半分ほど崩れ落ちた城壁は、石が不規則な山をつくっているのに、影だけは規則的に同じ方向へ長く伸びていた。太陽の位置と合わない角度で、地面に黒い線を描いている。
風が吹く。けれど、その風は音を運んでこない。
瞬は喉の奥がきゅっと渇くのを感じた。唾を飲み込む音だけが、やけに自分の耳に大きく響く。
(……ここが、リエール)
足を止めて見上げた先、崩れた城壁の向こうには、濃い灰色の建物群が沈んでいた。陽光は降り注いでいるはずなのに、その光はどこかで折れ曲がり、表面に吸い込まれてしまう。明るいのに暗い、そんな矛盾した景色。
横に立つフィアが、無意識の癖のように、腰の銃――未来戦場時層の携行銃器の安全装置に指を触れた。カチリと小さな音がする。彼女の視線は廃都の中を素早く走り、射線と退路を同時に確認している。
反対側では、リュカが眼鏡を少し押し上げ、いつもの黒いケースから計測装置を取り出していた。白い指で起動スイッチを弾くと、装置の表面に淡い光のラインが走る。
「……残ってる」
小さく息を呑んで、彼は画面に目を凝らした。
「時素の揺れが強すぎる。普通の崩落跡じゃない」
「見れば分かる」
フィアが短く応じる。その声には、兵士としての冷静さと、何度も戦場を渡ってきた者だけが持つ本能的な警戒が混ざっていた。
「気を抜くな。ここは“生きてる”」
その言葉を、瞬の背骨がそのまま飲み込む。
後ろを振り返ると、アンナが立っていた。リエールの唯一の生き残り。旅路の間も控えめで、あまり多くを語らなかった女性は、今、崩れた故郷を前に、足取りが目に見えて重くなっている。
服には長い旅の塵がまとわりつき、裾には古い泥がこびりついていた。握り締められた手の甲には、薄く白い痕が残っている。そこに込められた力の強さが、そのまま彼女の胸の内を物語っていた。
「アンナさん……」
瞬が声をかけると、彼女はぎこちなく微笑もうとした。それは笑顔と呼ぶにはあまりにも脆く、今にも崩れそうな表情だった。
「……大丈夫です。ここまで来られるとは、思っていませんでしたから」
低く、押し殺した声。視線は、城壁の向こうに沈む街へと釘付けになっている。
風が、四人の足元を抜けていく。だがその風は、音を連れてこない。遠くの鳥の声も、人の気配も、何も。
本当に――音が死んだみたいだ、と瞬は思った。
城門だったであろう場所は、歯抜けのように欠けていた。石材が崩れたまま放置され、その隙間から、四人は廃都の内部へと足を踏み入れる。
一歩踏み込んだ瞬間、背中に冷たいものが走った。
外の空気と、内側の空気は、明らかに違う。気温そのものはそう変わらないはずなのに、ここには目に見えない膜のようなものが存在していて、それが肌にべったりと貼り付いてくる感じがする。
建物の影が、一瞬だけ揺れた。
風のせいではない。影は、光源の動きとは関係なく、微妙に形を変えて見えた。二つの時間で別々に伸びた影が、無理やり重ねられているような、そんな違和感。
地面に散ったガラス片が、同じ角度で光を返す。太陽光に反射しているだけなのに、それぞれの光がどこか同じ瞬間を繰り返しているような感覚があった。
瞬の胸がざわつく。
足を踏み出すたびに、周囲の風が止まるように感じられる。自分たちの足音だけが、やけにくっきりと響き、そのすぐ後ろで、世界そのものの気配が一瞬だけ息をひそめる。
(……変だ)
思わず周囲を見回すと、フィアがすぐ隣に視線を寄越した。彼女の目も、同じものを感じているらしく、眉間に薄い皺が刻まれている。
「瞬。感じるか?」
「……少し、変だ」
言葉にすると、それがやけに心臓に重く落ちてきた。
リュカは、手にした計測装置の画面を覗き込みながら、歩みを緩めない。装置の端に走る光の線が、不規則に跳ね、波形ががたがたと震えている。
「空間波形が、完全に崩れてる。時層境界が何本も折り重なってるっていうか……これは、数値にするだけで一冊論文書けるレベルだね」
「遊びに来たわけじゃない」
フィアが冷たく釘を刺す。
「分かってるって」
リュカは肩をすくめたが、目の輝きは抑えきれていなかった。理屈っぽく皮肉屋でありながら、未知の現象に対する好奇心は誰よりも強い。それが彼の強みであり、危うさでもある。
アンナは、そんなやり取りにもほとんど反応を示さなかった。
彼女の視線はひたすら前方の一点――街の奥へと向けられている。両手は胸の前で固く組まれ、指先がかすかに震えているのが見えた。
瞬は、その震えに気づきながらも、何と声をかければいいのか分からなかった。この場所で軽い言葉を投げることが、どうしようもなく場違いに思えたからだ。
遠くで、風が建物の隙間を擦るように鳴った。低く、くぐもった音。まるで古い鐘が、誰にも聞かれないまま鳴り続けているかのような、寂しい響きだった。
最初の“それ”は、本当に唐突に起きた。
四人が、広場だったと思しき開けた場所に差しかかったときだった。周囲には崩れた家屋がいくつも並び、広場の中央には、半ば倒れた噴水らしき石造りの柱が残っている。
石畳の上には、崩れ落ちた屋根の瓦や、砕けた壁の欠片が散らばっていた。そのひとつひとつが、長い時間の中で風雨に晒され、角の取れた鈍い形になっている。
瞬がそのうちのひとつを横目で見た、その瞬間。
瓦礫が、吸い込まれるように動いた。
「……え?」
声にならない声が喉に引っかかる。
瓦礫の山を構成していた石片たちが、まるで逆再生の映像のように、ふわりと持ち上がり、元の位置へと戻っていくのが見えた。砂埃が沈むのではなく、浮き上がっていく。割れたガラス片が、バラバラの状態から滑らかにつながり、割れ目のない窓ガラスへと戻っていく。
広場の端で、どこからか飛んできた小さな鳥が、崩れた欄干の上に止まっていた。その羽ばたきが、一瞬止まる。次の瞬間、鳥は羽をたたんだ状態に逆戻りし、そのまま逆行するように空へと飛び上がっていった。羽根の一枚一枚が、さっき自分たちが見た動きとは逆方向へと震え、彼方へ消えていく。
空気が逆流した。
肺の中の空気が、一瞬にして押し出されるような感覚。耳の奥で、ゴゴッ……と、重たい何かが巻き戻される音が鳴った。世界そのものが一拍遅れて、さっきの状態へと引き戻される。
瞬はその場に立ち尽くす。
足元で、崩れた瓦礫が「元の形」を取り戻す。さっきまで石片の山だった場所に、ほとんど原形をとどめないはずの壁が、形だけは蘇る。ひび割れのひとつひとつまでが再構築され、ほんの数秒の間だけ、そこに「あった頃の姿」を取り戻す。
そして――もう一度、崩れ落ちる。
今度は、静かに。音もほとんどなく、砂のように崩れていく。だが、それは確かに二度目の崩壊だった。
「……今、戻った……?」
掠れた声が、自分のものだと気づくまでに、少し時間がかかった。
隣で、リュカが息を呑む音がした。
「間違いない!」
彼は計測装置を握り締め、画面を睨みつける。
「時間が……巻き戻ってる! 局所的に、短い区間だけだけど……これは……!」
興奮と恐怖が入り混じった声。彼の指先は震えているが、それでも画面から目を離さない。
フィアは、辺りを鋭く見渡しながら、眉間に深い皺を刻んでいた。
「範囲は? 私たちも巻き込まれるのか?」
「今のは、ここから十メルテくらい先の領域だけだと思う。波形からすると……巻き戻りの長さは、数秒から十数秒程度。ただ、頻度は……」
リュカが言葉を探しているあいだに、また空気が微かに震えた。
アンナは、両手を胸に当てたまま、かすかに震えていた。
彼女の目は、さっき瓦礫が蘇った場所をじっと見つめている。その瞳の奥には、現在ではない何か――この街がまだ生きていた頃の景色が、重なっているのかもしれない。
「……あの時も……」
かすかな呟きが、風に消えそうになる。
「え?」
瞬が振り向くと、アンナは小さく首を振り、唇を強く噛みしめた。目の端には、涙の光が滲んでいる。それでも、彼女はそれをこぼそうとはしなかった。
瓦礫が再び静寂へと戻る。だが、その静けさは、今や単なる「音のなさ」ではない。いつまた巻き戻りが起きるのか分からない、張り詰めた沈黙だった。
リュカは、広場の端にしゃがみ込み、計測装置を地面に置いた。透明な板状の画面に、波形が幾重にも重なって表示される。
「……見て」
呼ばれて、瞬とフィア、アンナが近づく。
波形は、不規則に見えて、どこかで同じパターンを繰り返していた。小さな山がいくつか連なり、そのあとに大きな振れ幅が来る。それが少し間を置いて、また繰り返される。
「完全ランダムじゃない。巻き戻りには周期性がある」
リュカの声には、興奮だけじゃない、冷静な分析の色も乗っている。
「このピークのタイミングで、さっきみたいな局所巻き戻りが起きてる。周期は……まだ正確には出せないけど、十数分に一度くらい。それも、街の奥から波が来てる感じだ」
「自然現象じゃないってことね」
フィアが短く言う。
「誰かが仕掛けたものか、あるいは、崩落の後に残った“何か”が自動的に動いてるのか……どっちにしても、放っとけば街の構造だけじゃなくて、周辺の時層帯にも影響が出るレベルだよ。さすがに“ギルド標準任務”とは言えないかな」
冗談めかした言い方だが、笑いは混じっていなかった。
瞬は、計測器の波形を見つめながら、自分の胸の奥に意識を向ける。
さっきの巻き戻りの瞬間、自分の中でも何かがひっくり返されたような感覚があった。地面の震えが、単なる揺れではなく、“逆向きに流れる時間の波”として感じられたのだ。
(これって……ネルさんが言ってた“残滓”と関係あるのかな)
複数の時間線を抱えていると診断された自分の内側と、この街の“途切れた時”。それらがどこかで共鳴しているような――そんな嫌な予感。
「顔色、悪いぞ」
フィアの声に、肩を跳ねさせる。
「え、あ、いや……」
「無理はさせない。でも、何か感じたなら言え」
短い言葉。けれど、その視線は真剣だった。監護役としての冷静さと、瞬個人を気遣う感情とが、そこには一緒にあった。
瞬は、一瞬だけ迷ってから、正直に口を開いた。
「さっき、巻き戻った瞬間……街じゃなくて、俺の中の時間も、ちょっと引き戻されたような気がして」
「引き戻された?」
「うまく言えないんですけど……前に、ネルさんのところで診てもらった時みたいに、自分の中にいくつか“線”が見える感じがして。そのうちのいくつかが、この街から来た波と一緒に揺れた、みたいな」
リュカが、興味深そうに瞬を見た。
「やっぱり、君の体質はこの街の異常と相性がいいらしいね。いや、“相性がいい”って言うと語弊があるけど」
「褒められてる気が全然しないんだけど」
「褒めてないからね。危険だって言ってる」
フィアが無表情で割り込む。
「巻き戻りのタイミングに誤って踏み込めば、肉体ごと数秒前に戻される可能性がある。何度も繰り返されれば、情報と物質の齟齬で、身体が持たなくなる」
「……分かってる。だからこそ、中心地を探す必要がある」
リュカが言う。装置の波形を指でなぞりながら、その延長線上を街の奥へと向けた。
「波形の強度からして、ここはまだ“縁”だ。本当のピークは……もっと奥。巻き戻りが生まれてる場所がある」
アンナの肩が、かすかに震えた。
彼女は両手をぎゅっと組み、視線を落とす。
「……あの時も」
掠れた声。
「ここで、同じ現象を見ました。家が……人が……一度戻って、また壊れて……」
言葉がそこで途切れる。喉の奥で何かがつかえたように、声が出ない。
瞬は、その横顔を見つめることしかできなかった。
あの時――リエールが崩落した瞬間。アンナはどこにいて、何を見ていたのだろう。巻き戻りを目の前で見せつけられ、それでも生き残ってしまった彼女の記憶は、この街以上に時間を止められているのかもしれない。
「無理はさせない」
フィアの声が、静かに落ちる。
「辛くなったら、すぐ言え。戻ることも選択肢に入れる」
「……いえ」
アンナは首を振った。握りしめた手に、爪が食い込む。
「ここまで来たら……戻れません。あの時、何が起きたのか、ちゃんと見ないと……きっと、私は前に進めないから」
その決意は、震えていながらも、固かった。
遠くで、また微かな逆流音がした。今度は、さっきより少しだけ大きい。
四人は、広場を抜け、街の奥へと視線を向ける。
崩れた建物の群れの向こう、遠くの空に、薄い“光の断層”が見えた。まるで空間そのものにひびが入り、その部分だけが別の光を透かしているような、細い縦の筋。
それが――脈打っている。
淡く、しかし確かに。一定の間隔で、その断層が少しだけ明るさを増し、すぐに元に戻る。光と影の境目が膨らみ、縮む。そのたびに、街全体の空気がわずかに震えるのが分かった。
微かな脈動音が耳に触れる。心臓の鼓動とは違うリズムで、空気ごと押し返してくるような音。波が、あの中心から放たれ、この街全体に広がり、また戻っていく。
「あれが、中心地か」
フィアが目を細める。
「波形のピークと方向は一致してる」
リュカが装置の画面と照らし合わせながら答える。
「間違いなく、巻き戻り現象の発生源。時層崩落の痕跡か、あるいはその後に誰かが仕掛けた何かか……どっちにしても、真ん中を見ないと話にならない」
瞬は、喉の奥で固く息を飲んだ。
遠くの断層は、美しいと言えなくもなかった。光のカーテンのように揺らぎ、時おり、そこだけ別世界へと繋がっているかのように見える。
だが、その美しさの裏側にあるのは、途切れた時の断末魔だ。
アンナが、静かに涙を拭った。頬を一筋だけ伝った涙が、指先で吸い取られる。彼女は深く息を吸い込み、真正面から光の断層を見据えた。
「……お願いします」
かすかに震えた声で、それでもはっきりと。
「どうか、あそこまで連れていってください」
フィアは、小さく頷いた。
「任務の目的地も、あそこだ」
戦場に向かうときと同じ、研ぎ澄まされた目をしている。恐怖がないわけではない。だが、それ以上に、やるべきことが彼女を支えていた。
リュカは、装置を握り直し、胸の前で軽く持ち上げた。
「こんなサンプル、二度と取れないだろうしね。――もちろん、できるだけ安全に、だけど」
半ば冗談めかした言葉。その裏に隠れた緊張を、瞬は感じ取る。
自分の番だ。
瞬は、拳を握りしめた。指先に力を込める。掌に爪が食い込み、痛みが少しだけ思考をクリアにする。
(怖い。けど――行くしかない)
途切れた時の残響が、ここには満ちている。巻き戻り続ける時間の断片たち。その中心に、自分が踏み込んでいくことが、どんな意味を持つのか、まだ分からない。
それでも、アンナの「前に進みたい」という言葉を聞いた以上、自分だけここで立ちすくむわけにはいかなかった。
「行くしかない、よね」
自分に向けるような声で言い、同時に三人へ向けて問う。
フィアは短く頷き、リュカは肩をすくめ、アンナは両手を強く組み直した。
「……うん」
彼女の答えは、震えながらも確かなものだった。
光の断層が、また脈打つ。
そのたびに街の空気が揺れ、四人の時間をも、わずかに揺さぶる。
途切れた時の残響が、遠くから、近くから、幾重にも重なって響いている。その真ん中を目指して、四人は、廃都の奥へと歩き出した。




