第14話「泣く地脈のささやき」
森を抜ける道は、いつの間にか、見慣れたものとは少し違う表情をし始めていた。
風に揺れる木々の葉は、どれも同じ方向へと引き寄せられるように揺れている。強風というほどではない。むしろ風そのものは弱いのに、枝と影だけが、見えない流れに押し流されるみたいに、揃って一方へ靡いていた。
土の色も、どこか濃い。踏み固められた道の茶色が、足元からじわりと滲み出し、影と混じって長く引き延ばされる。太陽はまだ高いはずなのに、影がやけに伸びているように感じられるのは、角度のせいだけではない気がした。
瞬は、荷物のベルトを持ち直しながら、ひとつ息を吐いた。
(……なんだろう、この胸のざわつき)
胸の奥が、細かい砂を流し込まれたようにざりざりと騒いでいる。痛みとまではいかない。けれど、慣れた時層帯へ足を踏み入れるときに感じるあの“違う時間を踏んでいる”感じとも少し違っていた。
前を行く小柄な背中が、ふいに立ち止まる。
銀髪に近い淡い髪が、風もないのにふわりと揺れた。時霊種の少女――カスミは、少し首を傾げて、耳を澄ますようにあたりの空気を拾っている。
「……カスミ?」
呼びかけると、彼女は振り返らないまま、片手を軽く上げた。静かに、少しだけ待って、という合図。
風が、一定の周期で止まり、また吹く。その切り替わりの合間に、遠くで、小さくひび割れるような音がした。地面の奥で何かがゆっくり折れるような、そんな微かな音だ。
鳥の声が、その音の直前でぴたりと途切れた。
「……変な感じがするね」
ようやく追いついた瞬が、周囲を見回しながら呟く。
カスミは、少しだけ振り返って、いつもの調子よりわずかに真面目な声で答えた。
「うん。近いから」
「近い……?」
「リエールの方。時間のほう」
言いながら、彼女はまた前を向き、小さな靴で地面を確かめるように一歩を踏み出した。瞬もあわててその後を追う。
道端の草は、風に撫でられたようにしおれた動きを見せていた。茎が柔らかく揺れているというより、根元から力を失って、少しずつ沈んでいくような揺れ方だ。
遠くの空気の色が、わずかに揺らぐ。陽炎とも違う、透明の膜がひとつ、地平線の向こうに立ち上がっているように見える。けれど瞬が目をこすってもう一度見ると、何事もなかったように景色は元に戻っている。
(やっぱり……普通の時層ズレと違う)
ネルの診療所の、冷たい診察台の感触がふと蘇る。自分の中にある“複数の時間線の残滓”。その言葉が、こういう場所ではいつも以上に重く胸にのしかかってくる気がした。
カスミは数歩前を歩きながら、小さな背中で空気の変化を受け止めているようだった。普段の彼女なら、何かしらの冗談や、からかうような一言を投げてきてもおかしくない距離だ。だが今は、言葉を溜め込んでいる。
瞬は、少し歩幅を広げて、彼女の隣まで追いついた。
「……カスミ」
「なに?」
横顔だけが、こちらに向く。瞳はまっすぐ前を捉えたまま。
「その、“近い”って……やっぱり、リエールの跡地のこと?」
「うん。そこから漏れてくるもの」
カスミは、胸の前で指先をひらひらと動かした。空気に浮かぶ何かを撫でるような仕草。
「このへん、ちょっと……痛い感じ」
「痛い?」
瞬は思わず聞き返した。
「このあたり、誰か怪我してたとか、そういうのじゃなくて?」
「違うよ」
短く否定し、カスミは自分の胸にそっと手を当てる。
「えっとね……地面の、もっと下。時間が通ってるところ。――そこが、擦れてるみたいに。ひりひりして、ずっと泣きそうになってる感じ」
比喩なのか、比喩ではないのか。時霊種の言葉は、いつも感覚の端を撫でていく。
瞬は足元の土を見下ろした。
見た目は普通に見える。少し土色が濃いくらいで、石も混じっているよくある山道だ。だが意識を研ぎ澄ませると、靴裏から伝わるわずかな震えが、ほんの少しだけ普段と違う気がした。
地中から、“低いうめき”のような空気の震えが上がってくる。耳で聞こえるというより、骨の奥で響いているような感覚。
「……カスミは、それが聞こえるんだ」
「聞こえる、っていうのとはちょっと違うけどね」
カスミは困ったように笑った。笑っているのに、その目は笑っていない。
「時霊種は、時間の流れそのものを触るのが得意。だからね、こういう場所だと……あっちからも触られちゃうの」
「あっち?」
「地脈。時間の通り道のほうから」
そう言って、彼女は自分の胸に押し当てていた手を、そっと土へと下ろした。小さな指先が、地面に触れる。
瞬も、歩調を合わせて腰を落とし、そこに目線を合わせた。道端の草の影が、なぜか二重に見える。ひとつは今ここにある影。もうひとつは、ほんの一瞬だけ揺らめいて消えた、“昔の影”の残り香のようなもの。
風が草を撫でる。優しい音のはずなのに、その下で、何か別の低い音が続いている。掠れた声とも、うなりともつかない、地面の奥からの響き。
「……このあたり、ほんとに“ちょっと痛い”どころじゃないよ」
カスミが、小さく息を吐いた。
「長いこと、誰にも触られないで放っとかれてた傷、って感じ。表面は固まってるのに、中がずっと膿んでるみたいな」
瞬の背中に、冷たいものが走った。
(リエールの崩落って……そんなに)
ただの事故ではなかった。ガイルの口ぶりからも、ネルの診断からも、時政院の空気からも、何か“普通じゃないもの”があったのは感じていた。だが“土地自体が痛がっている”と表現されるほどの場所だとは思っていなかった。
道の向こう、まだ見ぬ跡地の方角へ視線を向ける。
空は晴れている。雲だってある。ただ、その輪郭が、どこかぼやけている。遠近感が少しだけ狂っているような、そんな景色。
「ねえ、カスミ」
「ん?」
「その……痛いって、聞こえるの、嫌じゃない?」
自分でも子供っぽい質問だと思った。けれど口から出てしまったものは戻せない。
カスミは一瞬だけ黙ったあと、ふにゃりとした笑みを浮かべた。
「好きか嫌いかで言うと、あんまり好きじゃないかな」
「だよね……」
「でも、慣れてる」
彼女はさらりと言う。
「時間がぐちゃぐちゃなとこって、そういう声が多いから。慣れてるし、聞いちゃったからには、できれば少しでも楽にしてあげたいって思うし」
その言葉には、冗談めかした響きはなかった。
時霊種として、時間に寄り添う者としての、ごく当たり前の責任感がそこにはあった。
「……カスミは、やっぱりすごいね」
瞬は、素直にそう言った。
「俺なんて、自分の中の時間だけでもういっぱいいっぱいなのに」
「瞬は瞬で大変だからね」
カスミは口を尖らせる。
「自分のなかに別の時間線の残滓抱えてる人間なんて、そういないよ? ある意味、ここの地面と同じくらい複雑」
「そんな風に例えられると、なんか嫌なんだけど……」
苦笑を返すと、カスミが少しだけ肩をすくめた。
「でもね、そういう瞬だから、ここにきてもらったんだと思うよ」
「俺だから?」
「うん。泣きっぱなしの地脈ってね、人の“選択”にすごく敏感だから」
意味深な言葉。瞬が問い返す前に、空の色が、ふいに揺れた。
曇りでもないのに、太陽の光が薄くなる。影がにじみ、色彩が少しだけ褪せる。風景全体が、昔の写真を重ねられたような色調に変わった。
瞬の息が、自然と浅くなる。
空気が、急に重くなった。
さっきまでの違和感とは違う。胸の奥に、冷たい水を注ぎ込まれたような重さが一気に広がる。肺が縮み、呼吸が浅くなる。足元の土が、わずかに沈んだように感じる。
「……止まって」
カスミが、小さな声で言った。
瞬は、反射的に足を止める。次の一歩を踏み出すはずだった靴先が、ぎりぎりのところで地面に届かず、宙でかすかに震えた。
周囲の風景が、ゆっくりと揺らいでいる。
木々の輪郭が二重になる。一本の幹から、過去と今、二つの影が伸びている。道端の石はそこにあるはずなのに、踏み出す一歩がわずかに空振りする感覚。時間の層が薄く剥がれ、その隙間から別の光景が覗き込んでくる。
自分の影も、一瞬だけ、二重に見えた。
カスミの影も、それに合わせるように揺らぎ、細かく千切れた影の断片が地面の上で震えているように見える。
風が吹いた。
だが、その風は木々を揺らさない。落ち葉だけが、地面からふわりと持ち上がり、逆流するように上方へ舞い上がる。通常なら地面に落ちてくるはずの葉が、何かに引き寄せられるように空へ戻っていく。
耳の奥で、低い音がした。
地面の下から響くような、かすかな泣き声にも似た振動。言葉にならない、押し殺した嗚咽のようなものが、土の層を通り抜けて骨の内側に伝わってくる。
「……やっぱり、ここ、ひどいね」
カスミが、小さく呟いた。
彼女はしゃがみ込み、両手でそっと土をすくう。指先の間からこぼれる土の粒が、ほんの数瞬だけ光を帯びたように見えたのは、光の加減のせいだけではないだろう。
瞬は、その横で膝を折り、息を飲み込む。
「カスミ……今の、全部……」
「うん。ここらへんから、急に強くなってきた」
彼女は、掌の土を軽く握りしめる。
「この土地の時間、まだね……」
一度、言葉を切る。顔を上げ、遠くの空を見た。瞳の中に映る空は、薄くにじんで見えた。
「まだ泣いてるよ」
その一言は、静かだった。感情を大きく揺らした声ではない。けれど、その静けさがかえって言葉の重さを際立たせる。
「泣いて……る?」
瞬の喉が、ひとりでに問いを押し出す。
カスミは頷く。
「たくさんの時間が、一度に切られて、引き裂かれて。その切り口が、きれいに閉じてないまま、ずっと残ってる。だから、地面の下で……“続きたかった時間たち”が、ずっと声を上げてる」
言葉にされると、背筋に冷たいものが走る。
続きたかった時間たち。
そこにいた人々の、これから先の朝や夕暮れ。約束されたはずの食事や、何気ない会話。怒り合って、笑い合って、やがて仲直りする予定だった時間。その全てが一度に断ち切られたのだとしたら。
その断面は、確かに叫んでいるだろう。
「……それは、その……怨念、みたいな?」
自分でも言いながら、軽い言葉だと思う。そういうふうにまとめてしまうのは、本当はよくないのかもしれない。
カスミは、少しだけ首を横に振った。
「怨念っていうより、“泣き声”かな」
「泣き声」
「うん。怒ってる声もあるけどね。でも、それだけじゃなくて、“まだ続きたかった”っていう声とか、“行き先がなくなっちゃった”っていう途方に暮れた感じとか……そういうのも全部混ざってる」
彼女は、掌に握った土をそっと落とした。
ぱらぱらとこぼれた土の粒が、元の場所へ戻るのを、まるで誰かの頭を撫でるみたいな仕草で見送る。
「時層崩落って、ただ時間が壊れるだけじゃないんだよ。そこにいた人たちの時間も、まとめて飲み込んじゃうから。地脈に傷が入ると、その“飲み込んだ時間”が行き場を失って、ずっとぐるぐるし続けるの」
瞬の胃のあたりが、きゅっと縮んだ。
(そんな場所に、俺たちは向かってるのか)
リエール。アンナの故郷。すべてを失った都。
あそこに行くということは、“続きたかった時間たち”の泣き声の真ん中に、自分たちの時間を持ち込むということだ。
「……怖い?」
隣から、柔らかい声がした。
見ると、カスミがこちらを覗き込んでいた。瞳には、無理に明るさを作ろうとする色はない。ただ、瞬の表情をそのまま受け止めようとする透明なまなざしだけがある。
瞬は、少しだけ迷ってから、正直に頷いた。
「……うん。正直、怖い」
「うん、怖いよね」
カスミも素直に同意する。
「わたしだって、何回か来たことあるけど、慣れないもん。あそこは、時間のほうから人を引きずり込んでくる感じがするから」
「それでも、行くんだよね」
「うん」
彼女は背筋を伸ばし、小さく笑った。
「だって、泣いてる声、ずっと放っとくの嫌だもん」
その笑顔は、どこか寂しげだった。けれど、それ以上に強かった。
瞬は、その横顔を見ながら、ゆっくりと息を吸う。
(そうだ。怖いけど……行かなきゃいけない)
ガイルが言った。「救えると思うな」と。過去を変えようなんて思うな、と。ネルが言った。自分の中には複数の時間線の残滓がある、と。時政院のどこかでは、自分の名前が“特異点候補”として記録された。
それでも。
今、自分の眼の前で“泣いている時間”が確かに存在しているのだとしたら、耳を塞いで通り過ぎることはしたくなかった。
その瞬間だった。
視界の色が、一瞬だけ変わった。
世界から音が抜ける。風の音も、葉擦れも、遠くの鳥の声も、全部が薄く膜をかけられたように遠ざかる。代わりに、自分の鼓動の音だけがやけに大きく響き出す。
どく、どく、と。
まるで自分の心臓が、世界のリズムと一瞬だけズレたかのように。
「……っ!」
瞬は思わず額に手を当てた。
頭の奥で、微かな振動が走る。目を閉じると、真っ暗な闇の中に、細い光の線がいくつも走っているのが見えた。一本、二本。絡まり、ほどけ、どこかでぷつんと途切れている線。その切れ目から、淡い光の粒が零れ落ちていた。
それは、まるで――。
「瞬!」
カスミの声が、遠くから飛んできた。
視界が現実の色を取り戻す。耳に、風の音と、彼女の足音が戻ってくる。気づくと、カスミがすぐ目の前まで来ていて、その瞳でじっと瞬の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「……あ、うん。ちょっと、クラクラしただけで」
息を整えながら答えると、カスミはじっと彼の目を見つめた。
「今、感じたでしょ」
「え?」
「さっきまでと違う感じ。地面の下の揺れ、前よりはっきりしたでしょ」
瞬は言葉を失った。
確かに――さっきまで“なんとなくざわついている”程度だった地面の震えが、今はもっと明確な波として感じられる。足元から、一定のリズムで押し寄せては引いていく波。波の一つひとつに、細い感情の色が混ざっているのが分かるような気がした。
「……うん。少しだけ、だけど」
正直に答えると、カスミは小さく肩の力を抜いた。
「そっか。よかった」
「よかった?」
「うん。瞬のからだ、ちゃんと“ここの声”にチューニングされてきてる」
それを“よかった”と言い切れる感覚が、瞬にはまだよく分からない。
けれど、カスミの表情はどこか安心していた。不安と責任感とが混じったその目が、ほんの僅かに柔らかくなっている。
「怖いかもしれないけどね」
彼女は付け加える。
「でも、瞬が感じられるってことは、この泣いてる地脈の声に、ちゃんと答えられる可能性があるってことでもあるから」
「……答える、か」
「うん。黙って見てるだけじゃなくて、どうしたいか決めるってこと」
瞬は、ゆっくりと頷いた。
胸のざわつきは、相変わらずそこにある。だが、そのざわつきの中に、今はほんの少しだけ“輪郭”が見えている。怖さの正体が、少しだけ形を持ち始めている。
再び歩き出す。
空気は重いままだ。だが、さっきよりも、自分の足でその重さを踏みしめられている気がした。
数十分ほど進んだころ、視界の先に、はっきりとした“線”が見え始めた。
遠くの地平に、光の断層のようなものが立ち上がっている。
山でもない。壁でもない。透明な何かが、地面から空へと垂直に伸びている。陽の光を受けているはずなのに、その内側だけが少し暗く、色が抜け落ちたように見える。
あたりの空気が、さらに重くなる。
風が、その境界線で止まるように感じられる。こちら側で吹いていた風が、向こう側へは届かず、目に見えない膜に阻まれている。音も、そこでわずかに変調する。遠くから聞こえていた鳥の声や街のざわめきが、その線を越えた途端に別の時間の音へと変わってしまうような、そんな気配。
地面の震えが、低く、一定のリズムで続いている。
心臓の鼓動とは微妙にずれたそのリズムが、足元からじわじわと這い上がってくる。
カスミが、ふいに立ち止まった。
瞬も、その隣で足を止める。
光の断層――リエール跡地の境界は、もうはっきりと視界に捉えられる距離にあった。
「……着いたね」
カスミが、静かに言った。
「あれが境界」
瞬は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
喉を通る音が、自分の耳にだけやけに大きく響く。
「ここから先が……リエール」
「そう。泣いてる時間たちの、本拠地」
カスミは、冗談を混ぜる余裕も見せずにそう言った。その横顔には、警戒と、静かな覚悟が刻まれている。
瞬は、深く息を吸い込んだ。
肺に入ってくる空気は重く、冷たい。けれど、それを吐き出すうちに、胸の中で何かが固まっていく。
(怖い。けど――)
アンナの顔が脳裏に浮かぶ。ガイルの、あの重い眼差しも。ネルの冷静な診断も。時政院の、白灰色の石壁の冷たさも。
全てを背中に感じながら、それでも前に進む足を止めたくないと思う。
目の前に広がる“泣く地脈”の声は、自分の中の“揺らぐ時間”とも、きっとどこかで繋がっている。そう思えてならなかった。
瞬は、一度だけ目を閉じて、ゆっくりと開いた。
視界の先、光の断層は変わらずそこにある。だが、その輪郭の向こうに、まだ見えない何かが確かに待っていることだけは分かった。
「……行こうか」
自分に言い聞かせるように呟く。
カスミが、隣で小さく頷いた。
風が、ふたりの足元を撫でて通り過ぎる。
泣き続ける時間たちのささやきが、かすかに強くなった気がした。




