第13話「沈む記憶の呼び声」
朝の光が、ギルドの窓から斜めに差し込んでいた。
まだ人の出入りもまばらな時間帯。受付カウンターの上には、昨日処理しきれなかった書類の束が、少しばかり不機嫌そうに積み上がっている。紙の角が何度もめくられたせいで丸まり、その影が机の木目に細い線を落としていた。
瞬は、その一番上の書類を手に取り、目を細めて内容を追っていた。文字を読んでいるはずなのに、視線の奥は、昨夜ネルの診療所で聞いた言葉にまだ絡め取られている。
――複数の時間線の“残滓”。
自分の中に、そんなものがあると言われても、実感はない。ただ、時層に近づいたときに胸の奥がざわつく理由を、誰かに名前をつけられてしまったような居心地の悪さだけが残っていた。
(俺は……普通じゃない、んだろうな)
そんなことは、薄々気づいていた。ガイルに拾われた日から、時間のざらつきはいつもそばにあったし、最近のミッションでの“感応”も、自分でも異常だとわかっている。
それでも――。
ペンを取ろうとした指が、ふと止まった。
風が、止んだ気がした。
さっきまで窓の隙間から入り込んでいた、街の喧噪の名残りや、遠くの鐘の音が、急に遠ざかる。代わりに、入口の扉の向こうに、わずかな“影”の気配が固まっていくのを、瞬はなぜか背中で感じた。
「……?」
顔を上げる。
扉の曇りガラスに、長い影がひとつ、ゆっくりと重なっていた。細いが、折れそうではない線。じっと立ち尽くしているのに、どこか深く沈んでいる印象を与える輪郭。
コン、と控えめなノックの音が響いた。
さほど強くはない一打。それなのに、ギルドの中の空気が、その瞬間だけわずかに震えたように感じる。
奥の部屋から、重い足音が近づいてきた。
ガイルだ。
彼は扉の手前で一度だけ立ち止まり、その気配を正面から受け止めるようにじっとした。瞬からは表情までは見えないが、横顔の線がいつもより少し鋭くなったのが分かる。
「入れ」
短い声。
扉の鍵が回され、ゆっくりと開いた。
「……失礼します」
低く、掠れた声だった。
姿を現したのは、見覚えのない女性だった。
年は、瞬より少し上か、もしかしたら十代の終わりから二十代の半ばあたり。肩までの髪は淡い茶色だが、ところどころに焼け焦げたような黒ずみが残っている。旅装のコートは、長い年月を歩いてきた布の重さで少し歪み、裾には乾いた泥と、ところどころ焦げの跡が混じっていた。
彼女が一歩踏み入れた瞬間、外から入り込んでいた風が、まるで押し出されるようにすっと引いていった。
瞬は反射的に姿勢を正す。
(知らない人……でも、普通の依頼人じゃない)
そう思わせる何かが、彼女の周囲には確かにあった。
視線を向けると、女性の眼差しが一瞬だけこちらへ流れかける。けれど、そのすぐ手前でふと止まり、床のあたりに落ちていってしまう。その動きが、何度も何かを見失ってきた人のそれのように見えた。
ガイルは無言で彼女を見た。
大きな体を扉の横に少しずらし、道を開けることも忘れない。だが、その姿勢全体が、見知らぬ危険を測る獣のような警戒を含んでいる。
「……あんたが、ここを探したのか」
短く問う。
「はい」
女性は静かに頷いた。
「時層ギルドの……支部だと聞いて。案内されて……」
言葉が、途中で細く途切れた。喉の奥に、何か重いものを押し込めているような声音。
ガイルの眉間に、わずかな皺が刻まれる。
「中で話を聞こう」
彼はそう言って、顎で椅子を示した。
ギルドの空気が、静かに、しかし確実に引き締まっていく。
簡易の応接スペース。と言っても、ギルドの一角に机と椅子を無理やり置いただけの場所だが、そこは自然と“話をする場”の雰囲気を帯びていた。
窓からの光が斜めに差し込み、机の上に長方形の明るい枠を作っている。その少し外側、影と光の境界線に、女性――アンナは腰を下ろしていた。
名前は、そう名乗った。
アンナ・クローデル。
その声音には、名を口にするたびに失われた何かをなぞるような、微かな震えが混じる。
アンナのコートは、近くで見るとさらに痛々しかった。布のあちこちに、小さな焦げ跡やほつれがある。手首のあたりには、火傷の癒えかけた皮膚の痕が細く見えた。袖口から覗く指は細く、節ばっているが、不思議なほど静かで落ち着いていた。その掌に絡め取られているのは、古びた布の紐だ。何かを結んでいた跡だけが残り、本体はとうに失われている。
アンナは、その紐を話し始める前から、ずっとぎゅっと握りしめていた。
ガイルは彼女の正面に座り、両腕を組んで黙っている。
顔の表情はいつも通り読みにくい。だが、視線の奥には、静かな警戒と計算が確かに灯っていた。相手の言葉を逃さぬように。だが、あまり追い詰めぬように。
瞬は、少し離れた位置に椅子を引き、半ば控えとして座っていた。本来ならガイルとメリルだけで対応する案件かもしれない。だがガイルは、アンナが扉をくぐった瞬間から一言も彼を下がらせなかった。
(見ておけ、ってことなのかな)
そう感じる一方で、自分がここにいていいのかという緊張もあった。アンナの肩にまとわりつく空気が、あまりにも重いからだ。
「……案内を、お願いしたくて」
沈黙を破ったのは、アンナだった。
顔を上げず、視線を机の縁あたりに落としたまま、彼女はかすかな声を絞り出す。
「案内?」
ガイルが短く問い返す。
「どこへだ」
アンナの指が、布紐を握る力を強めた。節の浮き出た指の骨が、白く浮かび上がる。
長い沈黙が落ちる。
時計の秒針が、部屋の隅でカチ、カチ、と規則正しく音を刻んだ。窓の外の風音が遠のき、外界とこの小さな空間の間に、厚い膜が降りたように感じられる。
やがて、アンナは唇を開いた。
「……失われた都、リエールへ」
名前を発する瞬間、彼女の声はほんの少しだけ震えた。
「……連れていってほしいんです」
空気が、沈んだ。
比喩ではなく、本当に。部屋の中の温度が一瞬で下がった気配を、瞬は肌で感じた。呼吸をひとつするだけで、胸の奥に冷たい水が入り込んでくるような感覚。
「リエール……?」
瞬は、無意識にその名を繰り返していた。
聞き覚えのない地名。地図で見たこともない。だが、その響きには、どこか“過去形”の影がくっついているように感じた。“ある町”ではなく、“あった町”の名だ。
ガイルは、その名を聞いた瞬間から、完全に表情を固めていた。
「……本気で言っているのか」
低い声。さっきまでの事務的な響きはすっかり消えている。代わりに滲んだのは、過去の何かを慎重になぞる人間の声音だ。
アンナは、ゆっくりと顔を上げた。
灯りに照らされたその横顔は、若いはずなのに、長い年月を越えてきた人のような影をまとっていた。目の下には薄い隈。瞳の色は落ち着いた緑だが、その奥底には色の抜けた灰色の層が見える。
「ふざけて言うような場所じゃ、ありません」
彼女は静かに答えた。
「リエールは……わたしの故郷です」
瞬は息を呑んだ。
ガイルの視線が、アンナの顔からその手元へ移る。布の紐。焦げた跡。そこに、何が結ばれていたのかを、彼はたぶん瞬よりも早く見抜いた。
「……失われた都、って言ったな」
ガイルは、少しだけ目を細める。
「自分でそう呼ぶ奴は多くない。大抵は“あの日”の話を避けたがる。――あんたは、唯一の生き残りのひとりか」
「ひとりです」
アンナは、かすかに首を振った。
「他には、もう……誰も、いません」
その一言に込められた密度に、瞬の胸が痛んだ。
かつてそこにあった街。人。生活。笑い声。怒鳴り声。パンを焼く匂い。夕暮れの鐘の音。そういったものがすべて、あの日、時層崩落に呑み込まれて消えたのだと、瞬は想像するしかない。その想像だけで、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
「時層崩落の被害地だ」
ガイルが言った。
「公式記録では、“到達不能領域”。現地の時層は完全に崩れ、今も安定していないとされている。――そこへ案内しろ、ってわけか」
「はい」
アンナは、まっすぐに頷いた。
その瞳には、涙は浮かんでいなかった。泣き尽くしたのだと、瞬は直感した。泣いた先に何も残らなかった人間の、からっからに乾いた覚悟だけが、そこにある。
「……あそこで、置いてきてしまったものがあるんです」
かすかな声が続いた。
「わたしが、目を逸らしてしまったものが。――あそこに行かないと、わたしは前に進めない」
布紐を握る指が、さらに強く締まる。
ギルドの空気は、ますます重く沈んでいった。
ガイルはしばらく何も言わなかった。
机の上に置かれた古い地図に手を伸ばし、ゆっくりと広げる。紙は何度も折り畳まれたせいで、角が柔らかくなっている。広げられた地図には、大陸の輪郭と、そこに走る時層帯の線、主要都市の名が細かく書き込まれていた。
その一角。山脈と河川の交差するあたりに、小さな丸印と、薄く刻まれた×印が重なっている。
かつて“リエール”という名があった場所。
今は、その上から古いインクで斜線が引かれ、隣に小さく「到達不能」と書き込まれている。
ガイルの指が、その場所の上を軽くなぞった。
「ここだ」
低く呟く。
瞬は、身を乗り出して地図を覗きこんだ。自分の指先が、無意識に地図の端を押さえる。アンナが身を寄せるようにして、その場所を見つめるのを、支える形になる。
窓の外から、一陣の風が吹きつけた。ガラスが微かに鳴り、地図の端がふわりと浮きかける。三人の影が、紙の上に歪んで重なった。
「……命の保証はないぞ」
ガイルは、地図から視線を上げずに言った。
「時層崩落の後に残るのは、壊れた時間だ。地形も、空も、空気も、昔のままじゃない。“昨日のまま”止まっている場所もあれば、何百年も先走ってる場所もある。――そこへ足を踏み入れるってのは、自分の時間を賭けるってことだ」
「分かっています」
アンナの声は震えていた。だが、それは怖さだけの震えではなかった。
「怖いです。……行きたくないって思ったことも、何度もあります。あの光景を、もう一度見るのがどれだけ苦しいか、想像するだけで息が苦しくなる」
彼女は一度、目を強く閉じた。
「それでも……」
瞼の裏に沈んだ記憶が、きっとそこにはあるのだろう。燃える家。崩れ落ちる塔。時間の裂け目から溢れ出す光。瞬は想像することしかできないが、その断片だけでも、胸の内側がひりついた。
「それでも、行かないと。……わたしは、あの日あそこで、何かを置き去りにしてきました。置いてきてしまったから、今も、夜になると呼ばれるんです」
アンナは胸元のあたりを押さえた。
「ここから。――沈んでいくみたいに、どんどん深く沈んでいく声が、それでも“戻ってこい”って、ずっと」
“沈む記憶の呼び声”。
言葉にならないイメージが、瞬の頭の中にも広がった。暗い水の底に沈んでいく街。その中から伸びてくる、かすかな手。拾い上げようとすれば、自分まで水底へ引きずり込まれるかもしれない。
怖い。だが、目を逸らしてはいけない気もした。
「……ギルドとしては、簡単に頷ける話じゃない」
ガイルは、ようやく視線をアンナの方へ戻した。
「危険度が高すぎる。時政院の監視も厳しい。勝手な出入りが知られれば、こっちが締め上げられる可能性もある」
「それでも、ですか?」
アンナが、身を乗り出した。
椅子が床を軽く軋ませる。瞬はあわてて地図を押さえ、紙が滑り落ちないように掌で支えた。
「それでも、“案内”だけは、ギルドにしか頼めません。他の誰かに頼んだら、きっとあの場所は、また違うふうに利用されてしまう。わたしは、あそこを……」
言葉が詰まる。喉の奥が、一瞬詰まったように見えた。
「……あそこを、ただ“終わらせたい”んです」
かすれた声。
「時層崩落の被害地、って言葉だけじゃなくて。誰かの失敗や、誰かの計画の結果としての“例”じゃなくて。――そこにいた人たちの生活の終わりだっていうことを、ちゃんと見届けたい」
瞬は、拳を膝の上で握りしめていた。
失われた都。そこにあったはずの人の生活。誰かにとっての帰る場所。アンナにとって、ここまで言葉を絞り出させるほどの“呼び声”。それらが頭の中で一度に膨れ上がり、自分の胸の中の何かに触れてくる。
(俺には……何ができるんだろう)
リエールという名前は知らない。けれど、“時間に呑み込まれて消えていく場所”という意味では、自分がいつか行き着く先かもしれないものにも思えた。
ガイルは、じっとアンナを見ていた。目の奥で何かを天秤にかけている光が揺れる。
メリルの姿は今ここにはないが、彼女がこの話を聞いたら、きっと顔をしかめるに違いない。裏依頼どころか、表の記録すら残っていない危険地帯。そう簡単に首肯できる話ではない。
それでも――。
「……分かった」
ガイルは、低く言った。
その一言が、部屋の空気をわずかに揺らす。
「今すぐ、とはいかない。必要な情報を洗い直す。時政院の目もかいくぐらなきゃならん。こっちの準備が整うまで、時間をもらうことになる。それでもいいか」
「はい」
アンナは、深く頭を下げた。
その背中から、ほんの少しだけ、張り詰めた糸が緩むのが見えた。完全に楽になったわけではない。むしろ、これからの方が苦しいかもしれない。それでも、“向かう先”がようやく輪郭を持ったことで、彼女の中の何かが確かに動いたのだろう。
「依頼として預かろう」
ガイルは言葉を続ける。
「ただし、条件がある。あんた自身の覚悟だけじゃなく、この街、このギルドにどんな影が落ちるかも考えなきゃならん。その上で――」
視線が、ちらりと瞬の方へ流れた。
「……連れて行く人間も、選ぶ必要がある」
瞬の心臓が、大きく跳ねた。
(俺……も?)
問いかけるようにガイルを見ると、彼はすぐに視線を外した。その横顔には、いつものように、若い見習いに余計な期待を抱かせないための無愛想さが貼り付いている。
だが、ほんの一瞬。瞬の胸の奥で、小さな決意の芽が顔を出したのを、自分自身がはっきりと感じていた。
(もし選ばれるなら――怖い。でも、逃げないでいたい)
自分の中の“揺らぐ時間”。ネルに言われた“複数の時間線の残滓”。ガイルから聞かされた「過去を変えるな」という警告。時政院のどこかで、自分の名前が“特異点候補”と記された紙の上で静かに息を潜めていることも、瞬はもう知らないままではいられない。
時間の歪みを巡る仕事から、目を背けたくないと思ってしまったのだ。
窓の外で、遠くの街の鐘が鳴った。
いつも通りの時刻を告げる音。それなのに、今この瞬間だけは、新しい何かの始まりを告げる合図のように聞こえる。
「ありがとうございます……」
アンナがゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだ深い影があった。失われたものは戻らない。リエールの人々も、街も、あの日の時間も。だが、その影の底に、ほんの僅かな光が生まれつつあるのが見えた。
ガイルは椅子から立ち上がり、机の上の地図を丁寧に畳んだ。折り目に指を滑らせ、紙が乱れぬように端を揃える。その仕草に、この男が軽い気持ちでこの依頼を受けたわけではないことが滲んでいる。
「今日は一旦ここまでだ」
彼は淡々と告げた。
「あんたの所在と連絡手段をメリルに伝えておけ。準備が整い次第、こちらから連絡する。それまでは……あまり目立つ行動はするな。リエールの名を、気軽に口にするな」
「分かりました」
アンナは再び頭を下げた。その肩が小さく震える。だが、その震えを押さえつけるように、彼女は胸元の布紐をそっと撫でた。
誰かの形見なのだろう。
沈んでしまった記憶から、唯一浮かび上がってきた、細い糸。
瞬は、その紐から目を離せなかった。
(失われた都、リエール……)
その名が、胸の内側で重く響く。
沈んだ記憶の底から伸びてきた呼び声に、自分も少しずつ巻き込まれていく予感がした。それは怖くて、同時に、逃げたくないと感じさせる種類の恐怖だった。
窓から差し込む光が、いつの間にか弱まりつつあった。影が長く伸び、室内の輪郭を柔らかく溶かしていく。
新しい依頼が、静かに、しかし確実にギルドに落ちた。
それが、この先どれほど深いところまで世界を揺らすことになるのか、まだ誰も知らないまま。




