第10話「影の取引」
午前中の光は、少し斜めだった。
時層ギルド支部の大きな窓から差し込むそれは、紙束の山と木の机に細長い光の帯を落とし、ところどころを白く照らし出している。床板にはまだ夜の冷えが残っていて、瞬がそこを歩くたびに、靴裏を通してじんわりとした冷たさが伝わってきた。
受付カウンターの中では、メリルが書類の束を抱えて走り回っていた。いつものことと言えばいつものことだが、その動きには今日に限って、どこか落ち着きのない小さな乱れがある。ペンを耳に挟んだまま、扉の方をちらり、窓の外をちらり、と何度も視線を投げている。
瞬は、その様子を横目に見ながら、受付前の机の端で、今日受ける可能性のある軽めの雑用依頼一覧を整えていた。紙の角を揃え、名前順に並べ替え、クリップでまとめる。単純作業だが、こういう整え方ひとつで、午後の混乱が減るらしいとメリルに教えられて以来、真面目にやることにしている。
ただ、今日は――。
(なんか、騒がしいな)
視線を上げると、ギルド内はいつもとさほど変わらない光景のはずだった。ミナトは奥で工具を広げ、フィアは壁際の椅子に腰掛けて薄い報告書を読んでいる。時折誰かが出入りし、靴音と扉の軋む音が混じって消えていく。
それでも、胸の奥に引っかかる感覚があった。空気の表面が、薄くざわざわしているような――普段聞き流している雑音のどこかに、聞き慣れない音が紛れているような。
「瞬くん」
名前を呼ばれて振り向くと、メリルがすぐそばに立っていた。さっきまでカウンターの向こう側にいたはずなのに、気づけばいつの間にか近くにいる。その顔には、笑みが張り付いているが、目つきは仕事モードの鋭さだ。
「はい」
「その書類、ありがと。……でね」
メリルは手招きして、瞬を窓際に少し引っ張っていった。周囲から半歩だけ外れたその場所は、光が柔らかく当たる代わりに、人の耳も届きにくい。
「今日はね、お客さんが来るかもしれないから」
「お客さんなら、いつも来てますけど」
「そうなんだけど。えっと……君には、あんまり前に出てほしくないタイプの、ね」
メリルは苦笑しながら、窓の外を覗いた。街路を行き交う人々の群れ。荷車を引く商人、子どもを連れた母親、肩に工具を担いだ職人。どれも見慣れた風景なのに、メリルの目は、その中のどこか一点を探るように細められている。
「そんなに危ない人なんですか?」
瞬は思わず聞き返した。危険、と言われれば、どうしても昨日までの時層調査やノワールの影を思い出してしまう。だがメリルの緊張は、あれとは別の色をしている気がした。
「危ないっていうか……面倒っていうか……」
彼女はしばらく言葉を探し、肩を竦めた。
「まあ、慣れたら平気。いい人ではないけど、悪い人とも言い切れない、みたいな」
「余計わからないんですけど」
「そういう“余計わからない”人が一番やっかいなんだよ、この仕事」
メリルは苦く笑い、それから瞬の胸元を軽く指先でつついた。
「だから今日は、もし変な雰囲気になってきたら、受付の前から一歩下がってて。質問されても、余計なことは言わない。『見習いなので分かりません』って顔してればオッケー」
「……はい?」
「うん、その顔。その顔」
メリルは満足げに頷き、再びカウンターの中へ戻ろうとした。その背中はいつも通り軽やかだが、足取りの速さにはやはり、どこか落ち着きのなさが滲む。
(“上”の人たちとは違う種類の、嫌な予感……)
先日訪れた時政院の使者とは別の方向から、何か重たいものが近づいてきている。瞬はそんな気配を、まだ形にならないまま、胸の奥に抱えた。
そのとき、ギルドの扉の方で、低い金属音がした。
カチャ、と何か細工の施された留め金が外れるような音。そのすぐあとに、ギイ、と扉の軋む音が続く。
瞬が振り返るより早く、メリルの肩がぴくりと跳ねた。
「……来た」
小さな呟きと共に、彼女は営業用の笑顔を間に合わせるみたいにぱっと浮かべた。
扉から入ってきたのは、奇妙な存在感をまとった男だった。
くたびれた深緑のコートは、何度も修繕された跡がありながら、ところどころ妙に装飾的な金属の飾りが縫い付けられている。襟元には、色あせたスカーフ。手首には、小さな歯車や古い硬貨を繋いだ腕輪が幾重にも巻かれていて、そのひとつひとつが動くたびに、かすかな金属音を奏でた。
鼻をくすぐるのは、香草とオイルと、どこか焼けた金属の匂いが混ざった、都市の裏側特有の香りだ。
「よぉ、メリルちゃん」
男は、まるで馴染みの酒場にでも来たかのような軽さで、片手を挙げた。口元には薄い笑み。目は細く笑っているようでいて、その奥にはいつでも計算を始められる冷静さが潜んでいる。
「今日も朝から光ってるねぇ、この支部は。……いや、光ってるのは窓かな? それとも、受付の看板娘かな?」
「その口調やめろって、何回言えば覚えるの、バジル」
メリルは大きくため息をつきながらも、きっちり名前を呼んだ。声音には呆れが混じっているが、その呼び方には、完全な拒絶ではなく、奇妙な“慣れ”がにじんでいる。
瞬は、少し遅れて男――バジルと呼ばれた人物をまじまじと見つめた。
(この人が……)
闇市場の仲介屋。裏の取引を斡旋し、禁制品や情報を売り買いする危険な連中のひとり――そんな単語が頭に浮かぶ。教本の中では名前しか知らなかった世界が、突然、目の前に立っている。
バジルはギルド内をぐるりと見渡した。フィアが視線だけで鋭くこちらを一瞥し、すぐにまた報告書へ目を戻す。その一瞬のやり取りすら、バジルは逃さなかったようだ。
「お、怖いお嬢さんもいるね。相変わらず、ここの支部は人材豊富でうらやましいこって」
「人材扱いしないでくれる?」
「褒めてるんだよ。俺、嘘は言わない主義なんだ」
どこまでが本音で、どこからが冗談なのか分からない軽さ。瞬は思わず一歩、受付の後ろに引いた。メリルの言っていた“前に出ないで”という忠告が、思いのほか自然に守られてしまう。
バジルの視線が、ようやく瞬の方へ向いた。
「で、坊主は新人か?」
「ぼ、坊主って……あ、はい。見習いです。一ノ瀬瞬って言います」
とっさに名乗ると、バジルは目を細めた。
「ほう。一ノ瀬ねぇ……」
名前を舌の上で転がすように繰り返しながら、彼は一歩だけ近づいてきた。その距離の詰め方が、普通の客とは決定的に違う。商人でも依頼人でもない、“嗅ぎつける側”の人間の動きだ。
瞬は思わず背筋を伸ばした。バジルの身から漂う匂いが、微妙な違和感と一緒に鼻腔に広がる。
「そんな顔しなくても取って食いやしないさ。ただ、名前は覚えておくよ。……いろんな意味で」
「バジル」
メリルの声が少しだけ低くなった。
「今日はその“いろんな意味”を広げに来たんじゃないでしょ。用件、早く言って」
「怖い怖い。仕事の話をしに来てるのに、その扱いはないだろう?」
バジルは肩をすくめ、しかし歩みを止めずにカウンターへと近づいてくる。外套のポケットを探り、ひとつの封筒を取り出した。茶色い紙に、何度も折り目がついている。
封筒の中で、何か硬いものがかちゃ、と当たる音がした。
「さて――商売の時間だ」
封筒が、受付カウンターの上に置かれた。
その瞬間、さきほどまで軽口を叩いていた空気が、ひとつぶんだけ密度を増す。メリルは軽く息を吸い込み、表情を仕事用の真顔に切り替えた。
「……表の依頼じゃない顔してるけど?」
「さすが。見る目がある」
バジルは指先で封筒をとん、と軽く叩く。そのたびに、中の金属片がかすかな音を立てる。
「開けてみな」
「……」
メリルは一瞬躊躇したが、すぐに封を切った。紙を破る音が、やけに大きく聞こえる。中から出てきたのは、手書きの依頼書らしき紙と、小さな金属片だった。
依頼書はギルドの公式フォーマットではなく、端が少し欠けた普通の紙切れだ。だが、文字は妙に整っていて、余白の取り方などに、書いた者の几帳面さがにじむ。そこに記されている言葉のいくつかを、瞬は横からちらりと目にした。
(時層品……回収……危険度、規定外……)
目を引いたのは、手のひらに乗るほどの金属片の方だった。淡い光沢を帯びたそれは、不自然に冷たく、周囲の空気から温度を奪っているように見える。表面には、細かい線が網目のように走っていて、角度を変えるたびに微弱な光が走った。
瞬はその線に、どこかで見たような既視感を覚えた。時層の綻びの近くで見えた、空間を走る亀裂の模様。光の裂け目。
「……時層品の欠片?」
メリルが金属片を指先でつまみ上げ、目の高さまで持ち上げる。指輪をつけたバジルの手がその動きを追い、口元に笑みが浮かんだ。
「そう。“例の筋”から流れてきた品さ。これ一つでこの冷たさだ。これがまともな状態で動き出したら、近隣一帯の時間がちょっとした踊りを踊ることになる」
「洒落にならない冗談やめてくれる?」
メリルは睨むように言った。
「うちは表向き、“危険な時層品の管理と回収”が仕事なんだよ。何でその危険物を、裏市場経由でわざわざ……」
「表の窓口が信用ならねぇからさ」
バジルの声が、少しだけ低くなった。
「正規ルートで届け出たら、必要な場所に届く前に、どこかの役人の棚に永住するか、変な研究所に送られて実験台になる。あるいは、別の闇市場に再び流される。俺はそういう“途中で横流し”を何度も見てきた」
瞬は息を呑んだ。メリルも、目を細める。
「だからギルドに回す。“表向き”じゃなく、“裏口”からな」
バジルは笑う。
「お前のところは、変に理想主義すぎず、かといって腐ってもいない。ちゃんと危険物は潰してくれるし、必要なら有効活用もしてくれる。……そうだろ?」
「褒めてるつもり?」
「もちろん。俺、嘘は――」
「言わない主義でしょ。さっきも聞いた」
メリルは、ため息をひとつ挟んでから、依頼書に目を落とした。瞬も、隣からそっと文字を追う。
依頼内容は、要約するとひとつだった。
――行方不明の時層品の本体を、指定の廃倉庫から回収し、ギルド側で保管・処理すること。
ただし、その時層品は、すでに一度“闇市場”を経由して取引されたものだという。名目上は骨董品の一種として売買されていたが、実際には時層に干渉する力を持っているらしい。買い手と売り手の間でトラブルが起き、現在は所在が曖昧になっている。
「……面倒ごとの塊じゃない」
メリルが低く呟いた。
「売り手も買い手も、正規登録されてない連中。表に出せる情報なんてほとんどない。危険度は高い上に、誰かの恨みも買いそう。ほんとにギルドに回す仕事?」
「だからこそ、だろ」
バジルは、机の縁を指先で軽く叩いた。指輪がコツコツと音を立てる。
「表の依頼に出せるような綺麗な案件じゃない。けど、このまま放っときゃ、どっかの路地裏で小規模な“時層崩れ”がぽこぽこ増えるだけだ」
その言葉に、瞬の脳裏には止まった畑や揺らぐ空気の光景が浮かんだ。
小さな綻びが、人の生活を簡単に奪ってしまうことを、彼はもう知っている。
「ギルドは“表の窓口”でもあるが、“最後の掃除屋”でもある。……俺はそう理解してるけど?」
「その理解、半分だけ合ってるよ」
メリルは依頼書を机に置き、組んだ指の上に額を押し当てた。
「うちは、“全部”は拾えない。拾おうとして潰れた支部だって、いくつか知ってる」
「だから、俺が選んで持ってきてやってるんだろ?」
バジルはさらりと言う。
「手を出す価値がありそうなものだけ。少なくとも、何もせずに見て見ぬふりをするよりはマシな案件だ」
瞬は、複雑な気持ちでそのやり取りを見ていた。
(ギルドと、闇市場が……繋がってる)
頭では理解できる。世界が複雑で、表と裏が完全に切り離されているわけではないことくらい、想像はしていた。だが、こうして目の前で、実際に“橋渡し”が行われているのを見ると、胸の中で何かが揺れる。
「瞬」
名前を呼ばれ、顔を上げると、メリルがこちらを見ていた。
「……どう思う?」
「え、僕が、ですか?」
「そう。現場に出る見習いとして」
メリルの目は真剣だった。仕事の判断に、瞬の意見を全て乗せるつもりはないだろう。それでも、“この現実をどう感じているか”を知りたがっている。
瞬は、金属片と依頼書とバジルの顔を順番に見た。胸の奥で、いくつかの感情がぶつかり合う。嫌悪でもなく、単純な正義感でもなく、ただ――。
「……放っておけない、と思います」
気づけば口が動いていた。
「危ないから嫌だ、とも思いますけど。でも、これが放置されて、どこかで誰かが巻き込まれるかもしれないなら……」
一度、止まった畑で膝をつくハルトの姿が脳裏に浮かぶ。
「“危険だから関わらない”って選ぶのは、僕には、なんか……違う気がして」
言葉を探している自分が、歯がゆい。綺麗ごとだと笑われても仕方がない。バジルがどんな顔をするのか、怖くもある。
だが、返ってきた声は意外にも軽かった。
「ほらね。だからここに持ってきた甲斐がある」
バジルは笑みを深めた。
「坊主、見かけによらず肝が据わってる。……それとも、ただの無謀か?」
「両方よ」
メリルが肩をすくめる。
「でも、その無謀を現場でちゃんと制御するのが、うちの仕事だからね」
彼女は依頼書をもう一度手に取った。目を閉じて、短く息を吐く。
「……分かった。ガイルさんには、あとで私から話しておく」
「お、受けてくれると?」
「“正式な依頼”という形で受ける余地を、検討するだけ。まだ“はい”とは言ってない」
メリルはあくまで慎重に言葉を選んだ。
「報酬条件も、リスクの分だけ上乗せする。こっちが一方的に損する話は飲まない。……それが、うちとあんたの“取引線”でしょ?」
「そうそう。その線を守ってくれるから、長い付き合いができる」
バジルは満足げに頷き、椅子の背にもたれかかった。
「じゃあ、その“検討”が終わったら、いつものところに知らせてくれ。俺も、これ以上この“爆発寸前のオモチャ”を手元に置いておきたくはないんでね」
そう言って、机の上の金属片を指先で弾いた。ひやりとした空気が、瞬の腕の肌を撫でる。
「……分かったわ」
メリルは頷いた。
交渉の場は、一応の区切りを迎えた。
バジルが腰を上げた。
その動きは軽く、椅子の軋む音すらどこか楽しげに聞こえる。彼は外套の裾を払って整え、帽子を被り直した。金具が小さく音を立てるたび、室内の空気がわずかに振動するように感じる。
「いやぁ、今日もいい取引ができそうな気配だ」
「まだ成立してないって言ってるでしょ」
「商売は“見込み”が大事なんだよ、メリルちゃん」
軽口を叩きながらも、バジルは肝心な物――金属片だけはカウンターの上に置いたままだった。指先できゅっと押さえ、メリルの方へ押し戻す。
「これは、もうそっちの管理下ってことで。返せなんてケチなこと言わないさ」
「……あんたが一番ケチくさい取引してくるくせに」
「それは互いさまだろ?」
バジルは笑い、今度こそ本当に入口へ向かって歩き出した。その途中で、もう一度瞬の前に立ち止まる。
「坊主」
「はい」
「世界は、表の道だけじゃない」
彼はふっと笑みを薄めた。珍しく、少しだけ真面目な色が混ざる。
「表の道だけを歩いてるつもりでも、いつの間にか裏道の影を踏んでたりする。逆もまた然りだ。……どっちか一方だけを見てると、足元をすくわれるぜ」
「……はい」
瞬は、正直その全てを理解できてはいなかった。ただ、その言葉が何か大事なことを含んでいる気がして、自然と背筋が伸びる。
「怖がるなって意味じゃない。怖いと思いながら見ろってことさ」
バジルは片目でウインクし、扉の前で振り返りもせずに片手を軽く上げた。
「じゃあな、ギルドさん。いい返事を期待してるよ」
扉が開き、街のざわめきと冷たい風が流れ込む。外套の裾がひらりと揺れ、そのままバジルの背中は光の中へ溶けていった。
扉が閉じる。
ギルドの空気が、さっきと同じように、一気に少しだけ軽くなった。
静寂が落ちた。
さきほどまで漂っていた香草と金属の匂いが、ゆっくりと薄れていく。その代わりに、古い木の匂いや紙の匂いが戻ってくる。ミナトの工具の音も、いつの間にか再開されていた。
瞬は、自分の肩に入りっぱなしだった力を抜いた。指先がじんと痺れている。いつの間にか、机の端を強く掴んでいたらしい。
「……大丈夫?」
メリルが、カウンターから出てきて瞬の横に立った。さっきまでの営業用スマイルではなく、少しだけ心配そうな、素の表情だ。
「は、はい。ちょっと……緊張してただけで」
「そりゃそうだよね。あの人、初見殺しだもん」
メリルは苦笑し、机の上の金属片を眺めた。薄い光が、内部を通ってちらちら揺れている。
「ねえ、瞬くん」
「はい」
「さっき、“ギルドってこういうのも受けるんですか?”って顔してた」
「……そんな顔、してました?」
「してた」
即答され、瞬は目を逸らした。自覚していなかっただけに、恥ずかしさと、見透かされていたことへの悔しさが混ざって胸に湧く。
「別に、責めてるわけじゃないよ」
メリルは柔らかい声で言った。
「ギルドは、“正義の味方”じゃない。かと言って、“ただの商売人”でもない。いろんな人と、いろんな線で繋がってる。さっきのバジルみたいな人ともね」
「……うん」
「表の依頼だけ受けてたら、楽だと思うよ。規定の紙に書いてあることだけやって、危ない匂いがしたら全部“規則違反です”で切って。そういう支部も、実際ある」
メリルの視線は、どこか遠くを見ているようだった。
「でも、そうやって切り捨てられた“危険物”や“人”が、どこへ行くかって言ったら……たぶん、さっきバジルが言ってた通りのところ」
誰にも見られない路地裏。管理されない闇市場。時層の綻び。
「うちは、それを全部拾えるわけじゃない。拾おうとして潰れた支部だって、さっきも言ったけど、知ってる。でも――」
メリルは、金属片に指先を近づけ、すぐに引っ込めた。その冷たさを、触れずとも感じ取ったように、小さく肩を震わせる。
「“見てしまった”ものを、まるごと無視するのは、うちらにはできないんだよ」
その言葉に、瞬の胸の奥が、じん、と痛んだ。
「……怖くないんですか?」
気づけば口を突いて出ていた。
「闇市場の人たちと繋がってるって、バレたら。時政院とかに」
「あー……」
メリルは額に手を当て、天井を見上げた。
「それはまあ、怖いね。監察官が来たときなんか、胃がキリキリする」
あの時政院の使者の姿が頭をよぎる。監察官――これから正式に派遣されてくる予定の人物。その目が、このギルドの“表”と“裏”を同時に見ようとするとき、何が起こるか。
「でもさ」
メリルは、瞬の肩を軽く叩いた。
「さっきのバジルも、時政院も、ガイルさんも、私も。みんなそれぞれ、自分の“正しさ”と“都合”で動いてる。ギルドはその真ん中で、できるだけマシな選択をしようとしてるだけ」
「“正しいこと”じゃなくて、“マシなこと”……」
「そう。残念ながら、世の中には“全員が笑える正解”なんて、ほとんどないからね」
メリルは笑いながらも、その目には疲れが滲んでいた。
「瞬くんには、できれば、“綺麗な方”だけ見ていてほしかったんだけど」
「……でも、さっき“いつか関わるから”って」
「うん。だから、先に少しだけ見せた」
メリルは正直に頷いた。
「どうせ隠し続けられるものじゃないし。知らないまま巻き込まれるよりは、知った上で選んでほしいから」
「選ぶ……」
「うん。“どこまで関わるか”“どこで線を引くか”。それを決めるのは、本当はガイルさんじゃなくて、瞬くん自身だからね」
その言葉は、少し重かった。だが同時に、瞬はそれを、どこかありがたく感じてもいた。子ども扱いではなく、一人のギルド員として見てくれている証のようで。
机の上の封筒を、瞬はそっと手に取った。紙のざらつきが指先に伝わる。中に記された文字は、さっき読んだばかりだというのに、もう少し別の意味を帯びているように見えた。
「僕……」
言葉を探す。胸の奥で、恐怖と興味と、わずかな高揚感が絡まり合う。
「世界がこんなにややこしいって、ちゃんとは分かってなかったです」
「それは良いことかもね。分かりすぎてたら、ここに来ようなんて思わなかったでしょ?」
メリルは冗談めかして言った。
「でも、今日ちょっと知っちゃった。……それでも、やっぱり、仕事はしたいです」
自分でも意外なほど、迷いなく出てきた言葉だった。
「時層の綻びとか、止まった畑とか。怖いけど、見なかったフリはできない。さっきの時層品も、怖いけど……放っておいたらもっと嫌なことが起きそうで」
「うん」
「だから、たぶん僕、これからも“見ちゃう”んだと思います。表も、裏も。でも、そのうえでどうするかは……ちゃんと考えたいです」
メリルは、しばらく瞬の顔を見つめていた。やがて、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。
「……そっか」
彼女はぽん、と瞬の背中を叩いた。
「じゃあ、今日のこれは、ちょっとだけ“世界の裏側”を覗き見た記念日ってことで」
「記念日にしていいのか、これ」
「いいの。大きくなったら笑って話せるようになろ?」
メリルはそう言ってから、真顔に戻った。
「怖くなったら、ちゃんと言ってね。無理して平気なふりされるのが、一番厄介だから」
「はい」
瞬は素直に頷いた。
窓の外では、日が少し傾き始めている。斜光は角度を変え、机の上の金属片に差し込んで、細い光の筋を浮かび上がらせた。その光はまるで、表と裏の世界を繋ぐ細い“取引線”のようにも見えた。
その線の上を、自分もこれから歩いていくのだろう。
まだ足は震えている。だが、その震えごと、その線を踏みしめる覚悟が、ほんの少しだけ、瞬の中に生まれ始めていた。




