第1話「軋む時間」
薄い朝霧の名残が街路に漂い、時層ギルド支部の窓から差し込む光はまだ白く冷たかった。瞬は肩に掛けた古びた麻袋の重さを感じながら、倉庫から受付へと続く廊下を歩いていた。足元の床板はところどころ軋み、誰がいつ付けたのか分からない擦れ跡が薄く残っている。鼻先には乾いた木箱の匂いと、夜のうちに閉め切られていた紙の湿り気が混ざり、眠気をごまかすように深呼吸をすると、胸の奥が少しだけ温まった。
今日も雑用だ、と瞬は苦笑した。だが、この場所に自分の仕事があり、声をかけてくれる人たちがいるというだけで、不思議と足取りは軽くなる。視線を上げれば、壁には色褪せた時層地図が掛かり、支部周辺の時層帯の変動を示す無数の線が走っている。その下では、ちょうどメリルが机いっぱいに書類を広げ、赤いペンを忙しなく走らせていた。
「おはよ、瞬。こっち手伝ってー。今日も山ほど入ってきちゃってさ」
メリルは片手で自分の栗色の髪をまとめながら、瞬の肩に書類束をどんと載せてくる。その仕草はいつも通りの明るさに満ちていて、瞬は自然に口元が緩んだ。
「おはようございます、メリルさん。……これ、また依頼増えたんですか」
「そうなのよ。時層ズレの予報、ここ数日ぜんっぜん当たらなくてね。現場も大混乱だし、こっちで振り分けるのも一苦労」
その言葉に苦笑しながら、瞬は紙の束を抱え直す。受付カウンターの奥では、ミナトが工具箱を抱えて走り回っており、机の脚にぶつかってひっくり返りかけた瞬に、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい先輩! 計測器の調整が終わらなくて!」
「落ち着けよ、ミナト。走ると危ないって――うわっ!」
ミナトが足を取られて再びよろけ、工具がカラカラと音を立てて転がる。そのすべてがいつも通りで、少し騒がしい朝の光景だった。
そこへ、背後から低く通る声が響く。
「おい瞬、こっちの箱も運んどけ! いつまで朝の散歩してんだ!」
振り返れば、支部長のガイルが腕を組んで睨んでいた。口調こそ荒々しいが、視線には妙な温かさが混ざっているのを瞬は知っている。
「はい、すぐにやります!」
返事をしながら荷物を抱え、瞬は慌ただしい空気の中を縫うように動いた。ギルドの朝は、今日もいつもと変わらない――そう思っていた。
掲示板に新しい依頼書を貼り替えていた時だった。壁に掛かった時計の針が、不意に「カチ、カチ」と逆に二目盛りだけ戻った。瞬は目を瞬かせ、息を呑む。直後、何事もなかったかのように秒針は元のリズムを刻み始めた。
……今の、何だった?
指先にじんと冷たい汗が滲む。寝不足だろうか、と自分に言い聞かせながら時計を見上げるが、そこに異常の気配はどこにもない。むしろ、静かすぎるほどだ。周囲の物音が一瞬遠のいたような錯覚まであった。
「瞬? どうしたの、フリーズして」
いつの間にか背後にいたミナトが覗き込んでくる。工具を握ったままの手が小刻みに揺れ、興味半分、不安半分といった表情を浮かべている。
「今、時計……逆に動いたような……」
「え、動いてましたけど? ほら、普通普通。気のせい気のせい」
軽い調子で肩を叩かれ、「ああ……そう、かな」と曖昧に答えたものの、胸の奥のざらつきは消えなかった。同時に、隣の机の上に置かれた書類の日付が、一瞬“昨日”に見えた気がして目を細める。しかし瞬きする間にいつもの今日の日付に戻っている。
メリルが書類を束ねながら、ため息とともにぼやいた。
「また時層ズレ予報、外れちゃってるんじゃない? 朝から嫌な空気よねぇ」
その言葉に反応したわけでもないだろうが、窓の光が不意に少し暗んだ。影が揺れたように感じて瞬は振り返る。しかしそこにはいつも通りのギルドが広がっているだけだった。
気のせいだ。そう思って流した――その時は、まだ。
空気が、揺れた。
瞬がそれに気づいたのは、倉庫から運んできた箱を机に置いた直後だった。室内の光がふっと夕暮れの色に染まり、影が伸びた。天井に吊られたランプが薄く二重に見え、壁の時計が「カ、カカ」と不規則な音を立てる。
「……なに、これ」
言葉が喉の奥で固まる。足元が急に重くなり、床がわずかに沈んだような感覚がした。耳鳴りがして、視界の端で棚の上の箱が“戻る前の位置”と“今の位置”を重なるように行き来している。
「うわっ、本格的にヤバい方きた!」ミナトの声が裏返る。
「瞬! 机から離れなさい!」メリルが書類の山を押さえながら叫んだ。しかしその声でさえ、ほんのわずかに遅れて届く。まるで音が膜を通っているかのようだ。
瞬は一歩踏み出そうとしたが、足がうまく動かない。身体が鉛のように重く、時間そのものがねじれているような違和感が全身を包んでいた。
「お前ら、その場から動くな!」
遠く、倉庫の奥からガイルの怒鳴り声が響く。しかしその声だけが異様にはっきりしていて、逆に異常を際立たせた。
光が瞬いた。空気に細い亀裂が走った――ように見えた。息を吸い込むと、胸の奥に冷たい針が刺さるような感覚が走り、瞬は反射的に胸元を押さえた。
怖い。けれど――助けなきゃ。
自分が何を助けるつもりなのか、分かっていなかった。ただ、空間が軋んで崩れていく気配に、体の奥のどこかが強く反応した。
気がつけば、手が上がっていた。目の前の“ひび割れた光”へと伸びるように、伸ばしてしまっていた。
音が、消えた。
代わりに、深い海鳴りのような唸りが遠くから届く。視界が薄い膜越しになり、色彩の境目がすべて滲み合っていく。胸の奥が熱くなり、そこから何かが流れ出していくような、不思議な感覚が全身を駆けた。
その瞬間――光の筋が、すっと収束した。
世界が一呼吸ぶん止まり、「コトン」という小さな音とともに、すべてが元の位置に戻った。
「……え?」
瞬は自分の手を見つめた。触れていない。なのに、あれは。
何をした――?
事務所に戻ってきた現実の音は、妙に重く響いた。椅子を立て直す音、紙束を拾う音、工具が床を転がる乾いた音。それらがゆっくりと耳に馴染んでいく。しかし瞬の耳には、まださっきの“軋む音”が薄く残っていた。
「怪我はないか」
ガイルが全員を見回しながら低く言う。メリルとミナトが「ありません」と口を揃える。瞬も慌てて頷いた。
ガイルはしばらく言葉を続けず、ただ瞬をじっと見た。その視線は刺すように鋭く、しかし何かを測るような静けさも宿している。そして、ほんの一瞬だけ時計の針に視線を滑らせると、すぐに話題を切った。
「ならいい。後片付けを急げ。午前中には巡回隊も来る」
「はーい、了解了解。いやー、まいったねー……ほら瞬、これ拾って」
メリルが笑いながらペンを差し出してくる。いつも通りの調子だが、息の乱れがまだ少し残っていた。
「瞬ってさ、時層酔いしないよね。普通ならあの揺れで吐いてるよ? すごいよほんと」
「……え、そうですか?」
「そうそう。私なんか慣れてても足ガクガクよ。ね、ミナト」
「うん。ていうか、今のデータ取れてたら絶対面白かったのになぁ」
呑気な声。瞬は曖昧に笑い返しながら、ふと自分の右手を見つめた。手のひらには、さっきの痺れがまだ微かに残っている気がする。
あれは気のせいじゃない。そう思いかけた瞬間、メリルの呼ぶ声に思考が interrupt された。
胸の奥には、説明できないざわつきがまだ沈殿している。世界のどこかが、ゆっくり軋んでいくような――そんな嫌な予感だけが、ずっと消えずに残っていた。




