ハッシャクトパス 2
浜辺の空気は生ぬるく、潮の香りとともに不気味な静けさが漂っていた。
真夜中の海辺を訪れたのは、大学のオカルト研究会の四人だった。部長の木嶋、副部長の黒野、後輩の千田、そして唯一の女性メンバーである槇村紗英。
今回の肝試しの舞台は、「呪いのタコ穴」と呼ばれる潮溜まり。昭和中期、海女が次々と消息を絶ったことから、その名がついたという。
「なあ、やっぱ帰らね? こんなとこマジでヤバいって」
と千田が言いかけた瞬間、紗英が静かに口を開いた。
「ここ……変だよ。さっきから、誰かが海からこっちを見てる」
全員が海を見やった。
真っ黒な海面に、ぼんやりとした“影”が浮かんでいた。
そのときだった。
「ぽぉ……ぽぉ……ぽぉ……」
遠くから聞こえる、低く湿った音。それは何かの警鐘のようでいて、まるで女の口から漏れる呻き声のようでもあった。
「や、やべえぞ、あれ……何か来るっ!」
海から突如、巨大な影が這い上がってきた。
白く異様に長い女の腕……そしてタコの吸盤に覆われた八本の脚が、砂浜に粘ついた音を立てて広がっていく。
それは、八尺様のように異様に“高く”、だが同時に“這うように低い”。
女の姿にタコの脚、ひとつ目の顔面と波打つ墨袋。明らかに人ではない、混じりもの。
ハッシャクトパス。
「ぽぉ……ぽぉ……お前……返せ……」
ハッシャクトパスは、砂浜に落ちていた古いセーラー服をつかむと、引き裂くように握り潰した。
「逃げろ!」と木嶋が叫んだ瞬間、黒野の足に何かが巻きついた。
見ると、粘液にまみれた触腕が黒野の脚を絞め上げていた。
「ぐああああああっ!」
一瞬で、黒野は海へと引きずられていった。
そのまま、ぶくぶくと泡を立て、沈んでいく。
槇村紗英は涙を流しながら叫んだ。
「この穴……昔、女の子が殺されたって言ってた……その女の怨念が、タコに取り憑いて……!」
「そんな、バカな話が……!」
千田も木嶋も叫んだが、もう逃げるしかなかった。
背後から「ぽぉ……ぽぉ……」と響く声が、まるで風のように追ってくる。
砂浜はぬかるみ、海水のしぶきの中に、幾つもの触手が躍っていた。
木嶋は槇村の手を取って走ったが、後ろを走っていた千田の叫びが、突然、ぷつりと途絶えた。
振り返ると、千田の姿は消えていた。残されていたのは、千切れた靴と墨の混じる砂だけ。
槇村の唇が震える。
「もう、イヤ……もう誰もいなくなってほしくない……!」
ハッシャクトパスの影が、ふたりを追って波打ち際から這い寄ってくる。
そのとき、木嶋は近くに転がっていた御札のような板切れに目を留めた。
かつて、海女が祈りを捧げたとされる祠の残骸だった。
「これだ……!」
木嶋はその板を振りかざし、目をつむって叫んだ。
「この場に宿りし怨嗟よ、海に還れッ!」
波が高くうねり、ハッシャクトパスが叫ぶように「ぽぉぉぉぉぉおおお……!」と声を上げた。
波が打ち寄せ、触手の影をかき消すように海が引いた。が、そこ波の間を縫うように伸びた触手が、木嶋の足を掴んだ。
叫ぶ暇もなく、掴む暇もなく、呆気なく、木嶋は波とともに海中に消えた。
その次の瞬間には、海も砂浜も元の静けさを取り戻していた。
そこにはもう、誰もいなかった。
⸻
翌日、地元の新聞にはこんな見出しが載った。
「肝試し中の大学生行方不明 一人だけ生還」
生還した槇村紗英は、病院でうわ言のように繰り返したという。
「ぽぉ……ぽぉ……タコじゃないの……女なの……あれは、女の顔だったのよ……!」