9 専用になる練習
俺は“藤也さん専用”になることにした。そのための練習もする。“藤也さん専用”の意味がいまいちわからないけど、専用になれば藤也さんのそばにずっといられる。そのためならなんだってやろうと決めた。
(今日から練習するって言ってたけど……)
何をするかは教えてもらっていない。そのせいか朝から気になってしょうがなかった。
(……そろそろ帰ってくる時間だ)
もう何度見たかわからない時計は五時を過ぎていた。時計ばっかり気になって今日見たテレビの内容は全然覚えていない。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。いつもならすぐに走って行くのに緊張して手と足が一緒に出てしまう。ギコギコなんて音が聞こえてきそうな歩き方で廊下に出ると、靴を脱いだ藤也さんがこっちに歩いて来るところだった。
「お、おかえりなさい」
「おう、ただいま。いい子にしてたか?」
ポンと頭を撫でられただけで心臓がポンと飛び跳ねた。俯きながら後を付いていくと、「なに緊張してんだ」と言って藤也さんが笑う。
「だ、だって」
「ははん、練習内容が気になってどうしようもなかったってところか。そういやおまえ、風俗店のこと詳しいんだったか?」
「ちょ、ちょっとは」
「それと似たようなことだよ」
「えっ」
「なんだ、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「だ、だって、お店に行く練習は、し、しないって」
「店には行かねぇがやることは大体同じだ」
笑っている藤也さんを見るのが恥ずかしくて慌てて俯いた。まさか風俗店に行くときのような練習をするとは思っていなくて心臓がドコドコうるさくなる。
「今度は耳まで真っ赤にして。なんだ、恥ずかしいのか?」
「だ、だって」
顎を掴まれてグイッと持ち上げられた。
「知識だけで経験がないってのもいいもんだな」
「い、いいもの」
「あぁ。ちょっとした言葉遊びでも真っ赤になるだろうし、そういう初心な反応ってのは久しぶりで心をくすぐられる」
不思議な色の目にじっと見つめられて息をするのが苦しくなってきた。「目を瞑れ」と言われて慌ててギュッと目を瞑る。
ふに。
唇に柔らかくて温かいものが当たった。それが何回もくっついたり離れたりする。
(……これって……藤也さんの唇だ)
くっついていた唇が少し離れて、またくっついた。くっついたかと思ったらまた離れる。優しく当たっているのが優しい藤也さんっぽくてうれしくなった。それにすごく気持ちがいい。ふにふにされて頭が段々ぼんやりしてきた。
急に唇をペロッと舐められてびっくりした。慌てて目を開けると、ニヤッと笑っている藤也さんの顔がすぐ目の前にあってまたびっくりする。
「ま、初回はこんなもんか。そういやおまえ、キスしたことあるのか?」
慌てて首をブンブン横に振った。俺にキスする相手なんているはずがないのに、どうしてそんなことを聞くんだろう。
「なんだ、ファーストキスだったのか。それはそれで……」
顎を掴んでいた手が離れた。その手で口元を押さえながら藤也さんが何か言ったけどよく聞こえない。
「しっかし、いまどきキスすらしたことがねぇ高校生がいるなんてなぁ。いや、蒼は高校に行ってねぇから高校生じゃないか」
名前を呼ばれるといまでも少し緊張する。そういえば最後に蒼と呼ばれたのはいつだっただろう。
(お母さんが呼んでくれたのはいつだったっけ……)
そもそもお母さん以外に名前を呼ばれることなんてこれまでなかった。学校では友達なんていなかったから当然呼ばれることはなくて、先生も名字だけで蒼と呼ぶことはない。でも、藤也さんは名前を呼んでくれる。お母さんとは違うけど、呼ばれるだけで心がぽかぽかしてうれしくなった。
(藤也さん専用になったら、こうやって名前もずっと呼んでもらえるのかな)
想像しただけでうれしくて手が震えた。体の奥がソワソワして変な気分になる。どうしていいのかわからなくてTシャツの胸の辺りをギュッと掴んだ。
「蒼」
名前を呼ばれて慌てて顔を上げた。藤也さんの顔が近づいてくるのがわかって、今度は言われる前に自分から目を瞑る。今度も柔らかくて温かい唇がふにっと当たった。くっついたり離れたりが気持ちよくて顔がにやけそうになる。
「なんだ、キスが好きなのか?」
初めてしたから好きかどうかなんてわからない。でも、たぶん好きなんだと思う。だって唇が当たっていると気持ちがよくて、もっとくっついていたいと思った。
目を瞑ったままコクコクと頷いたら「どんだけ可愛いんだ」と藤也さんが笑った。笑いながら、またふにっと唇がくっつく。ふにふにするのが気持ちいい。もっと気持ちよくなりたくて唇をヌッと尖らせた。
(あ、)
またろくでもないことをしてしまった。慌てて顎を引こうとしたら、大きな手に後頭部を掴まれてびっくりした。そのまま藤也さんの唇がぶつかってきたことにびっくりして慌てて胸を押す。でも俺なんかの力でどうにかできるはずがなくて、そのままグーッと唇を押しつけられて息ができなくなった。
「ん、んぅ、んんっ、ん――!」
苦しくて気がついたら唸っていた。それに気づいた藤也さんが唇を離して「鼻で息をしろ」と笑っている。頷きながら藤也さんの胸を押していたことに気がついた。目の前には胸のあたりのシャツを両手で力いっぱい握り締めている自分の手がある。
(ど、どうしよう)
体がブルッと震えた。フワフワして気持ちよかったのが一気に消えてなくなる。
「どうした?」
「お、俺、手、嫌なんじゃなくて、こ、これ、」
シャツを掴んでいた手をそっと離した。ひどい皺が寄っているのが見えてますます体が震える。
「あ、あの、俺、シャツ、いつの間にか握ってて、その、ご、ごめんなさい」
「気にするな」
「で、でも俺、ちゃんと練習、し、したいと思ってて、それなのに、」
「落ち着け」
「お、俺! ちゃんと、やります! なんでもす、するから、だから、」
捨てないでと言いかけた言葉を慌ててとめた。そんなことを俺から言えるはずがない。言いたいのに言えなくて目の前がグルグル回り始める。
「安心しろ」
また後頭部を大きな手に掴まれた。そのまま胸にギュッと押しつけられる。
「俺がおまえを捨てることはねぇよ。理由もなく怒鳴ることもない。あぁいや、理由があっても怒鳴るのはよくねぇな。そこは俺も気をつける。あとはそうだな……俺はおまえを絶対に殴らない」
体がビクッと震えた。殴らないと言われたのに散々殴られたことを思い出してお腹の奥がぎゅうっと痛くなる。
「俺はおまえを殴らない。悪いことをすれば叱るが手は上げない。絶対にだ。信じろ」
ますます顔を胸に押しつけられた。息が苦しくなってきたけど、それより藤也さんの温かい体にどうしてか泣きたくなった。
とくん、とくん、とくん。
藤也さんの心臓の音が聞こえる。グルグルしていた気持ちが少しずつ落ち着くのがわかった。
「俺のそばにいる限り痛いことも怖いこともない。そういうことをする奴らから俺が守ってやる。忘れるな、俺と一緒にいる限りおまえは絶対に安全だ。俺のそばにいる限り怖いことも痛いこともない」
うまく声が出なくて、代わりに何度もコクコクと頭を動かした。
「おまえは俺のために生きればいい。生きるための道は俺が用意してやる」
藤也さんの言葉は難しくてよくわからない。それでも俺は何度も頷いた。藤也さんのために生きれば藤也さんのそばにいられる。藤也さんのそばにいられるならなんだっていい。
「おまえは俺専用だってことを忘れるんじゃねぇぞ」
最後にいつもどおりポンポンと頭を撫でられた。大きな手が頭から離れていく。それが残念でそっと顔を上げた。
「おう、一丁前にそんな顔しやがって」
「か、顔?」
「可愛い顔してるって言ってんだよ」
ボッと顔が熱くなった。
「そういやおまえの誕生日、明後日だったな」
「は、はい」
「年齢的には立派な大人だが、年を取れば自動的に大人になれるってわけじゃない。言ってる意味、わかるか?」
「は……はい」
「まぁ難しいことは追い追いでいいか。まずは普通の生活ができるようになってからだな」
「ふ、普通、」
「そうだ。毎日飯を食って風呂に入って寝る。娯楽からでいいから世の中に触れる。いろいろわかってきたところでやりたいことや知りたいことに挑戦すればいい。勉強がしたけりゃ手助けしてやる。おまえはまだよちよち歩きの赤ん坊みたいなもんだ、少しずつ大人になっていけばいい」
やっぱり藤也さんの言うことは難しくてよくわからない。でも、そういうことをするのが“藤也さんの専用になる”ことなんだということはわかった。
「お、俺、藤也さんの専用になるの、が、がんばります」
そう答えたらニヤッと笑われてしまった。
「言ってる意味、わかってんのか?」
耳元で囁かれて「ひぇ」と変な声が出た。首と耳がゾワゾワして腰のあたりが変な感じになる。
「誕生日、楽しみにしておけよ」
ニヤッと笑った顔にドキドキした。
(お姉さんたちが話してた「国宝級のイケメン」って、藤也さんみたいな人のことを言うんだ)
間違いない。だって毎日テレビを見ているけど藤也さんよりかっこいい人を見たことがなかった。俺はいま、そんなかっこよくて優しくてすごい藤也さんのそばにいる。これからもそばにいていいと言ってくれた。
(俺はこれからもずっと藤也さんのそばにいたい。いや、いるんだ)
こんなに強く何かを思ったのは初めてかもしれない。
「さて、飯にするか」
そう言ってキッチンに行くかっこいい背中をじっと見つめた。




