8 したいこと
ボスが来た日、風俗店に行きたいなら練習をしろと言われた。相手は藤也さんで、藤也さんがすべて教えてくれるとも言っていた。
(それなのに藤也さん、なんで何も言わないんだろう)
何をすればいいのかも、いつから練習を始めるのかも教えてくれない。何もわからないまま日にちだけが過ぎるのは落ち着かなかった。
(もしかして俺が何もできないから教える気がなくなったとか……)
もしそうなら俺はどうすればいいんだろう。このままじゃ藤也さんを怒らせてしまうかもしれない。それにもっと迷惑をかけてしまうことになる。そんなことばかり考えてしまうからか段々不安になってきた。
(藤也さんはここにいろって言ってたけど……そんなの無理に決まってる。それにボスは藤也さんと練習しろって言った)
今度こそ風俗店に行くことになるに違いない。「本当はここにいたい」という気持ちと「でも迷惑はかけたくない」という気持ちがぐちゃぐちゃに混じって嫌な気持ちになる。こんなことじゃダメだと頭を振った。藤也さんのためにも早く練習して早く出て行かないといけない。
(だからって俺のほうから頼むことはダメっぽいし)
昨日、どうしても不安で藤也さんに練習のことを聞いてみた。「風俗店の」と言っただけでギロッと睨まれて、結局何も言えなかった。
(聞かなくても練習したいこと、藤也さんに伝えられるといいんだけど……)
洗濯物をたたみながらあれこれ考える。
(練習しなくても風俗店でやることなんて一つしかないけど……)
でも練習が必要だとボスが言った。もしかしたら特別なお店があるのかもしれない。「特別なこと……」とつぶやきながらお姉さんたちに聞いた話を思い浮かべる。
(体を洗ったり洗われたり……は普通か。値段で内容が違うのも普通だろうし……もしかして痛いことされるとか……?)
そういうことを専門にするお姉さんたちがいることは知っている。つまりそういうのも普通ってことだ。
(やっぱり練習しないとわかんないか)
内容はわからないけど格好ならわかる。
(そうか、お店のお姉さんたちみたいな格好すれば練習したいってわかってもらえるかも)
いい考えだと思った。ボスと仲がいい藤也さんなら、きっと格好を見ただけで俺がしたいことに気づいてくれるはず。
丁寧にたたんだ洗濯物をクローゼットにしまいながらお姉さんたちの格好を思い浮かべた。いつもは大通りで見かける人たちと同じ格好をしているけど、お店の中では短いスカートや下着みたいな格好をしていた。
(下着姿か……男の下着姿なんて、さすがに見たくないよな)
下着以外の格好は……お店の奥でサングラスの人たちが見ていたエッチなテレビの映像が頭に浮かんだ。おつまみを持って行ったとき、チラッと見た画面には真っ白なシャツ一枚だけ着た女の人が映っていた。サングラスの人たちいわく、ああいう見えそうで見えないのがいいらしい。俺はテレビに映っていた女の人を思い出しながら部屋を歩き回った。
あの格好をするにはシャツがないとダメだ。でも俺はシャツを持っていない。まずはシャツを手に入れないとあの格好はできない。
(……そうだ、藤也さんが捨てたシャツがあった)
ゴミ箱を漁るなんてどうなんだろうと思ったけど、これも練習のためだ。それに捨てたシャツだから俺が着ても藤也さんに怒られることはきっとない。
「よし」
気合いを入れて洗面所のゴミ箱をひっくり返した。
時計を見る。もうすぐ五時ということは藤也さんが帰ってくる時間だ。俺はもう一度洗面所にある大きな鏡で全身を確認した。いま俺が着ているのは一昨日藤也さんが着ていたグレーのシャツで、袖をどこかに引っかけたと言って捨てたものだ。たしかに穴は空いているけど小さいからほとんどわからない。
(まだ全然着られるのに捨てるなんてもったいないなぁ)
それにスベスベしてすごく気持ちがいい。なんとなく藤也さんの匂いがするような気がしてドキドキしてくる。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。慌てて玄関に行くと、ちょうど藤也さんがドアの鍵を閉めるところだった。背中に向かって「おかえりなさい」といつもどおり声をかける。
「あぁ、ただい……」
振り向いた藤也さんの言葉が止まった。まるで睨むように目が細くなる。
「なんだ、その格好は」
低い声に失敗したのだとわかった。やっぱり勝手なことをするんじゃなかった。怒っている藤也さんの顔を見ることなんてできるはずがなくて、そっと自分の足の指を見る。
(……女の人じゃないのにこんな格好するなんて、そりゃ気持ち悪いか)
ちょっと考えればわかることだ。シャツから見えている素足が恥ずかしくてしょうがない。裾を掴んでギュッと引っ張ったけど、太ももの半分も隠れない長さに泣きたくなった。
「その格好はなんだって聞いてるんだ。答えろ」
ヒッと首をすくめながら慌てて口を開いた。
「あの、お、俺、れ、練習したくて、そ、それで、」
声が震える。何度もつっかえてうまく話すことができない。
「……はぁ」
大きなため息に慌てて目を瞑った。
(どうしよう、怒らせてしまった)
もしかして怒鳴られるだろうか。それとも殴られるだろうか。
「藤生の言ったことは忘れろって言っただろうが。ちょっと来い」
「っ」
腕を掴んだ藤也さんに部屋までグイグイ引っ張られた。もつれそうになる足を必死に動かしながらなんとかついていく。歩きながら頭がどんどん真っ白になっていく。
(ど、どうしよう)
すごく怒っている。俺が変なことをしてしまったせいだ。頭の中に「ろくでもねぇな」と殴ってきたあの人の顔が浮かんだ。
(そうだ、俺はろくでもないやつなのに、なんでそのこと忘れてたんだろ)
俺は馬鹿で何もできないろくでもない奴だ。そんな俺が勝手に何かすれば怒るのは当然だ。そんなこともわからないなんて俺はどうしようもない馬鹿だ。
「座れ」
俯いたまま床に正座した。するとまた大きなため息が聞こえてきた。怖くて情けなくて、床を見ながら膝の上で両手をギュッと握り締める。
「そんなに風俗店に行きたいのか?」
「……ほ、本当は、ちょっと嫌、だけど……でもっ、俺、わ、わかってます。そ、それしか、迷惑な俺が、や、役に立てること、な、ないから」
「俺がいつ迷惑なんて言った?」
「でも、お、押しつけられたって、」
「そうじゃねぇって言ったの忘れたのか? それに初日にここに住めと言ったはずだ」
「で、でも、俺、迷惑だし、ボ、ボスも、れ、練習しろって、」
「あいつの言葉は忘れろ。大体子どもが細けぇこと気にしてんじゃねぇよ」
「で、でも、」
俺の世話をするのが大変なことくらいわかる。お母さんだって大変だったのに赤の他人の藤也さんが大変じゃないはずがない。だから役に立ちたくて掃除も洗濯もしたけど、こんなの全然役になっていないことくらい気づいていた。
「少しずつ教えりゃいいかって思ってたんだが、思った以上だな」
やっぱり俺は迷惑だったんだ。握り締めた自分の手を見ながら唇を噛む。
「そんなんでよく無事に生きてこられたな。ギリギリのところで守られてたのかもしれねぇが、十八になればそうはいかなくなる。大人になったおまえは自分で自分を守るしかない。だが、このままじゃろくでもねぇ人生になる」
「……お、俺、ろくでもない人間だって、わ、わかってます」
わかっているけど、どうしようもなかった。何をしたら立派な大人になれるのかなんて誰も教えてくれない。毎日生きていくことに精一杯で、生きていようと思ったのもお母さんを待たないといけなかったからだ。
「俺、どうすれば……」
ここにいても役に立たない。練習もできない。どうしていいかわからなくてシャツの裾をギュウッと握り締めた。
「おまえはどうしたい?」
「どう、したい、」
「何がしたい?」
どうしてそんなことを聞くんだろう。そんなことを聞かれたのは初めてだ。意味がわからなくて顔を上げると、目の前に藤也さんがしゃがみ込んでびっくりした。
「何がしたいんだ?」
俺と目を合わせながら同じことを聞かれたけど、なんて答えていいのかわからない。
「考えろ」
「は、はい」
俺が、したいこと……お母さんがいた頃は、お母さんのために働きたいと思っていた。少し前まではお金がほしかった。お金があれば家賃を払って、あの部屋でお母さんを待つことができるからだ。でもあの部屋にはもう帰ることができない。お母さんを待つことはできない。
(いまは……藤也さんの役に立ちたい)
そして、もし許してもらえるならここにずっといたかった。なんでもするから藤也さんのそばにいたいと思った。
「お、俺、掃除とか、洗濯とか、なんでもします。お、教えてくれたら、ほかのことも、し、します。だ、だから……」
「ここにいさせてほしい」という言葉が出てこない。それが一番言いたいことなのに、そんなことを言ってもいいのかわからなくて喉の奥が苦しくなった。
「どうしたいんだ?」
「お、俺……こ、ここに……」
「大丈夫だ、ゆっくり言えばいい。何を言っても怒らねぇからちゃんと言え」
不思議な色の目がじっと俺を見ている。見ているけど怒っているようには見えない。
ごくりと唾を飲み込んだ。「お、俺」と言ってから息を吸い、「ここに」と言いながらシャツの裾を掴む手にギュッと力を入れる。
「お、俺、ここに、い、いたいです」
「ちゃんと言えるじゃねぇか」
そう言った藤也さんがポンポンと頭を撫でてくれた。それだけでガチガチになっていた体から力が抜ける。ホッとしていると「さて、これからどうするかだが」と聞こえてきてまた体がガチガチになってしまった。
「追い出したりしねぇから心配するんじゃねぇよ」
「……で、でも」
「おまえはここにいたいんだろ?」
声が出なくて小さく頷く。
「いろいろ考えることはあるが、ま、おまえももうすぐ十八だしな」
藤也さんが俺の顎をグッと掴み、そのまま持ち上げた。そうして藤也さんの顔がグンと近づいてくる。
「腹ん中は決まった。そういう意味では藤生に感謝して……いや、そんなことしたら何言われるかわからねぇな」
ため息をついたけど、やっぱり怒っているようには見えない。もう怒っていないんだろうか。不安になりながら見ていると、かっこいい顔がニヤッと笑った。
「俺は守備範囲が広い。下は十代から上は六十代までイケる。女だけじゃなく男も、まぁ大体はイケるな。好みじゃねぇ奴は無視するが、基本的に据え膳もきっちり平らげる主義だ。商売柄未成年には手を出さねぇが十八になれば問題ない」
なんの話かわからない俺は、とにかくじっと藤也さんを見つめた。
「藤生が言ったとおり、おまえは俺のドストライクだ。小せぇ体にちょっと足りねぇ思考回路とド天然なうえに、この世に俺しかいないみたいに必死にあとをついて来る。俺のことしか考えてねぇってのもいい。そういう奴は俺の言葉をちゃんと聞くからな。たしかに躾け前のチビワンコってところかもしれねぇが、それも悪くない」
藤也さんの唇がニィッと笑った。それが怖いくらいかっこよくて心臓がバクバクしてくる。
「どうしようもねぇ人生も偏った頭もすこぶる庇護欲を誘う。ついでに言えば、これからおまえを俺好みに躾けられるって楽しみもある。俺にとっちゃあいいこと尽くしだが、おまえにとっても悪くない話だ」
「あ、あの……」
「蒼、俺のものになるか?」
「え……?」
名前を呼ばれてびっくりした。どうして俺の本当の名前を知っているのかわからなくてぽかんとする。
俺は本名を名乗らなかった。ボスにも言っていない。お店のお姉さんたちも俺の名前は蒼だと思っている。お母さんも二人でいるとき以外は蒼って呼んでいた。「誰にも名前を教えちゃダメよ」と言ったのもお母さんだ。それなのに藤也さんは俺の名前を知っている。
「俺のものになるならこのままここにいることができるぞ? その代わり、おまえには俺専用になってもらう」
「せ、専用……」
専用というのが何なのかはわからない。でも、それになれば藤也さんのそばにいることができるということだ。
「蒼、俺のものになるか?」
「な、なります」
「いい子だ」
何度も聞いている言葉なのに声が違う気がした。いつもより声が柔らかいというか、艶々しているというか、うまく言えないけど何かが違っている。
(俺、藤也さんの声も好きだな)
急にそんなことを思ってしまった自分が恥ずかしくなった。慌てて目を逸らすと、唇に柔らかくて温かいものが当たってびっくりする。
「十八になるまではキスだけだ。十八になったらこの先のことも教えてやるよ」
不思議な色の目がじっと俺を見ている。俺はよくわからないまま、コクコクと頷いて返事をした。