7 ボスの提案
「おいおい、挨拶なしにいきなりそれか?」
「来るなと言ったはずだよな?」
「大丈夫、ここには静流しか連れて来てない。警察マスコミそのほかも綺麗に巻いておいたから気にしなくていい」
「……おまえな」
「万が一どこかに漏れたとしても俺のほうでうまくやっておくよ」
にこりとボスが笑った。藤也さんのほうは怖い顔のままだ。
「それよりソウくんにオートロックの使い方、教えておいたほうがいいんじゃないか? エントランスまで迎えに来てくれたぞ?」
「は? 部屋を出たのか?」
藤也さんが俺を見た。怖い顔がもっと怖くなっている。急いで謝ろうと口を開いた。それなのに喉が詰まったような感じがして声が出ない。
(な、なんで? 早く謝らないともっと怒らせてしまうのに、早く、早く謝らないと)
焦れば焦るほど喉がカチコチになった。
「誰かわからないのにエントランスに行ったのか?」
両手にグッと力を入れながら俯く。
「おい」
どうしよう、どんどん怖い声になっている。藤也さんが怒っていると思うだけで握り締めた両手がブルッと震えた。
「こ、声が、」
必死に出した声は変に高くて大きくて、慌てて口を閉じた。こんな声を出したら殴られる、そう思ったけど誰も殴ってこない。俺はもう一度口を開いて、「ボ、ボスの声が」と必死に口を動かした。
「こ、声が聞こえて、い、入り口を開けないとって、お、思って」
「声?」
藤也さんの言葉に俯いたままコクンと頷く。
「声って……モニターから聞こえたのか?」
「あまりにも反応がないから、おおーいって何度か呼んだな」
ボスの言葉に藤也さんが大きなため息をついた。
(ど、どうしよう)
藤也さんがすごく怒っている。怒らせるようなやつは邪魔だからと追い出されるかもしれない。気がついたら握り締めていた手がブルブル震えだした。
「おい、ソウくんが怖がってるぞ? おまえ自分が強面だってこと忘れてないか?」
「うるせぇ。おまえが来たのが原因だろうが」
「ちゃんと巻いてきたんだから問題ないだろう? それとも会社に出向いたほうがよかったか?」
「ふざけんな。俺の会社を潰す気か」
「俺が行ったくらいで潰れる会社じゃないよな」
「後始末が面倒くせぇだろうが」
「はいはい。じゃあソウくんにはオートロックの使い方、教えておくんだな。俺以外の奴が来たらどうするつもりだったんだ」
「本宅には会社の奴は誰も来ねぇよ。高宮すら来ねぇんだ、使い方なんて知らなくても問題ねぇだろうが」
「へぇ、懐刀の秘書も来ないのか。でも俺は来るよ?」
「来るんじゃねぇって言ってんだろ」
藤也さんの低い声に体がブルッと震えた。ボスの声は怒っているようには聞こえない。でも藤也さんは間違いなく怒っている。こんなに低くて怖い声を聞いたのは初めてだ。
(……藤也さんをここまで怒らせたのは俺だ……)
このままここにいたらもっと怒らせてしまう、そう思ったら背中を汗がダラダラと流れた。
(そうだ、俺がここにいるからダメなんだ。俺がここにいたら藤也さんをもっと怒らせてしまう。……そんなのダメだ。そんなことになるくらいなら……)
いまならボスがいる。ボスに頼めば風俗店でも臓器売買でも連れて行ってくれるはずだ。胸がキリキリと痛くなった。胸のあたりを右手でグッと押さえながら顔を上げた。
(言うんだ。言わないと藤也さんに迷惑がかかるだろ)
そうだ、これ以上藤也さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
「あ、あの」
声が掠れて言葉が詰まってしまった。ボスと金髪の人が俺を見ている。藤也さんも俺を見ていた。背中をまた汗が流れ始める。胸を押さえている拳に力を入れながら必死に声を出した。
「お、俺、風俗店、行きます。ぞ、臓器売買でも、いいです。す、すぐ、い、行けますから」
笑っていたボスの顔が少しだけ怖くなった。
「風俗店? 客として? ……まさか、働く側として?」
「まだそんなこと言ってんのか」
「藤也はソウくんを風俗に沈めようとしてるのか?」
「するか。俺は真っ当な商売してんだぞ」
「じゃあ、どういうことだ?」
藤也さんもボスも怖い顔をしている。もしかして何か間違えたんだろうか。でも、俺は悪いことをしてボスに捕まった。捕まったやつはどっちかに行くんだとサングラスの人たちが話していた。
「おまえはまだそんなこと考えてたのか」
藤也さんの呆れたような声に慌てて俯いた。目をギュッと瞑りながら「間違えた、何か間違えたんだ」と必死に考える。考えても何もわからなかった。馬鹿な俺には何を間違えたのかもわからない。
「勘違いって……あぁ、俺が売人だと言ったからか」
「どっちも違うって最初に言っておいたんだがな。頭の回転は悪くねぇのに思い込みが激しいんだよ」
「学んで推測する経験が圧倒的に偏っているんだ。それに情緒も不安定なんだろう。あんな環境で生きてきたんだ、そうなってもおかしくはないさ。とくに母親が消えてから十六になるまでは凄まじかっただろうからね。静流、書類出して」
「なんだ?」
「今日はこれを渡すために来たんだ。藤也も気にしていただろう? 戸籍関係も入れておいた」
「……おう」
藤也さんとボスが難しい話をしている。よくわからないけど、たぶん俺のことに違いない。
「どうにかしたいなら手を貸すが?」
「やるならうちの優秀な弁護士にやらせる」
「フッ」
「なんだよ、胡散くせぇ顔しやがって」
「いや、優しいんだなと思っただけだ」
「わかってて寄越したんだろうが」
「まぁな。藤也は昔から顔に似合わず小動物系が好きだったからな。それも庇護欲を誘うような悲惨なやつばかり可愛がる」
「んなことねぇだろ」
「いいや、そういうやつばかりに目をかけていた。大人になってからもだ。だからソウくんを預けた」
「ここは保育所じゃねぇぞ」
「わかっているさ。だがおまえはソウくんを放り出さなかった。これまで誰一人として手元に置かなかったのに今回は違う。信頼する秘書にも会わせず完全なプライベート空間に三週間も住まわせている。しかも囲うように一歩も外に出さない。俺が知らないとでも思ったか?」
「だからどうした」
「母親のことを気にしているのか?」
部屋が静かになった。どうしたんだろう。もしかして俺のせいでケンカになってしまったんだろうか。
「そんな怖い顔をするな。おまえが優しいやつだということは俺が一番よくわかっている」
「うるせぇぞ」
「おまえの好物も誰よりよく知っている。だからソウくんを預けたんだ。ソウくんはまるで生まれたての子犬、それも生まれながらの捨て犬だ。そのくせ蹴り飛ばされてもご主人様に必死についていくタイプときている。まったくもっておまえ好みだろう?」
「グダグダうるせぇって言ってんだろ」
「おいおい、顔が昔に戻っているぞ? そんな般若のような顔じゃあソウくんに嫌われるぞ?」
「用が済んだならさっさと帰れ」
「そうだな、ソウくんとテレビも見たし今日は帰るとするか。……で、風俗に沈めるのか?」
「しねぇって言ってんだろうが!」
藤也さんの大きな声に「ひっ」と悲鳴が漏れてしまった。慌てて口を閉じ、これ以上変な声が出ないように奥歯を噛み締める。
(へ、変な声出したらきっと殴られる)
あの人も「変な声を出すな」と言って殴った。毎日のように殴られて殴られて、これからずっとそういう毎日を送るんだとばかり思っていた。だけど十六歳になったあの日、紙に名前を書かされ、名前の横に親指のハンコを押したら部屋に戻された。それからあの人には会っていない。
(……もしかして、風俗店でも臓器売買でもなくて、あの人のところに連れて行かれるんじゃ……)
そう思ったら「ひ」と掠れた声が漏れてしまった。慌てて右手で口を押さえたけど、その手がブルブル震えてうまく押さえられない。
「いいことを思いついた」
「おまえのいいことなんてろくでもねぇ」
「失礼だな、藤也にとってもいいことだぞ? さてソウくん」
名前を呼ばれてビクッと体が跳ねた。
「ソウくんに一つ仕事を与えよう」
「……し、仕事」
「そうだ。とても重要で大事な仕事だ」
綺麗なボスの顔をおそるおそる見つめる。
「風俗店で働きたいなら練習をする必要がある」
「おまえはまた、」
「藤也は黙ってろ。いいか、ソウくん。風俗店に行きたいなら練習して上手にならないと駄目だ。そこでだ。ソウくんに最適な練習相手を用意してやろう」
「練習、相手」
「あぁ。そこにいる藤也だ」
「藤生!」
「うるさいな。藤也だって文句ないだろう? それともおまえ以外が練習相手でもいいのか?」
「おまえは……!」
「これが最善策だ。そうでもしないと勝手に出て行くかもしれないぞ? それで困るのは藤也、おまえだ」
「……おまえのやり方は乱暴すぎる」
「おまえが優しすぎるんだよ。このままじゃいつまで経ってもソウくんはこのままだ。おまえもわかっているはずだ」
「……」
「いやはや、まさかここまで本気になるとは思わなかったな。いや、いいものを拾ったな」
藤也さんが「チッ」と舌打ちした。どうかこれ以上俺のことで機嫌がわるくなりませんようにと祈りながら、口を押さえていた手でもう一度胸の辺りを押さえる。
「おまえにも本気になる相手ができてよかった。なぁ、静流?」
「静流と一緒にするんじゃねぇ」
「ひどいな、俺の一番のお気に入りだぞ?」
「俺はおまえと違っていろいろ真っ当な感覚なんだよ」
「別にいいじゃないか。俺たちは子どもを残す必要もないし思うままに生きることができる。自由を手に入れるためお互い努力もしてきた。藤也も好きにすればいいさ」
「そう簡単にはいかねぇだろ。どんだけ年が離れてると思ってんだ」
「あと一週間もすればソウくんは十八歳だ。選挙権が与えられ様々な契約もできる立派な大人だ。どこに問題がある? あぁ、あるとすればこちら側にとっていいカモになることくらいか」
「胸糞悪いことを言うな」
「心配するな、ソウくんのことは俺も気に入っている」
「おまえは昔っからそうだ。興味があるものもないものも一緒くたに混ぜる。混ぜてこねて最後はぐちゃぐちゃだ。そのうえ強欲ときたもんだ」
「強欲でけっこう。俺はほしいものを手に入れるためには何だってする。おまえもそうすればいい。……静流」
ボスの声に首がぞわっとした。
(……え……?)
ソファに座っているボスが仰け反るように上を向いた。そこに後ろに立っていた金髪の人が屈んで……キスをした。金髪の人のうなじをボスの手が撫でているのも見える。
「おいこら、未成年になんてもん見せてんだ」
「ふっ。これも性教育の一環だよ」
「ふざけんな」
「ふざけてなどいないさ。それにこれ以上のことをソウくんはやろうとしていた。そうだろう?」
ボスが俺を見た。俺は慌てて俯いた。具体的なことは考えていなかったけど、風俗店ならキスも、それ以上のことだってすることは知っている。
「ソウくんはある意味生まれたての雛のようなものだ。鳥の雛は親鳥を見て育つ。せいぜい立派な親になるんだな」
「どの口が言う。風俗店に行く練習をしろなんて言いやがって」
「おや、おまえの背中を押してやったつもりだったんだが?」
「用が済んだならさっさと帰れ」
ボスが笑いながら立ち上がった。ボスと金髪の人が部屋を出ていく気配を感じながら、俺は胸に当てた拳にグッと力を入れた。