6 ボスの来訪
藤也さんの家に来て三週間くらいが過ぎた。俺の仕事は掃除と洗濯、それに朝の食器洗いくらいで“次”はまだない。代わりにテレビを見る時間を増やされてしまった。
藤也さんが出かけたら食器を洗い、そのあと掃除や洗濯をする。ここまでは前と一緒だ。そのあとお昼ご飯までの間がテレビを見る時間になった。
「そうでもしねぇとおまえ、テレビ見てねぇだろ」
たしかに藤也さんがいない間は天気予報くらいしか見ていない。そんな俺に藤也さんはとっくに気がついていたらしく、「テレビを見ること、それがいまのおまえの仕事だ」と言われてしまった。
(見ても楽しくないのに……)
そう思ったのが顔に出ていたんだと思う。藤也さんが「言いたいことはちゃんと言え」と俺を見た。
「……テ、テレビは、よ、よくわからないっていうか、た、楽しくないっていうか……」
「なんで楽しくないんだ? 旅番組、じっと見てただろ?」
「そ、それは……たまたま、で……」
なんて答えていいのかわからなくて床を見る。
「言ってみろ。怒ったりしねぇって言っただろ」
「…………りょ、旅行、行ったことないし、い、行くこともないのに、な、なんで見るのかなって、思って」
「まさか修学旅行も行ったことないのか?」
低くなった藤也さんの声に慌てて頷いた。しばらくしてから大きなため息が聞こえてくる。
「こりゃ思った以上だな。……そうだな、じゃあこう考えてみろ。将来行くかもしれない場所の予習だ」
「よ、予習?」
「ついでに行きたい場所、探しとけ」
「で、でも、あのテレビ、が、外国ばっかりで」
「いいじゃねぇか。そのうち連れて行ってやるよ」
「え……?」
びっくりしすぎて顔を上げた。「連れて行ってやる」っていうのは、もしかして藤也さんが俺を外国に連れて行ってくれるということだろうか。ポカンとしている俺に藤也さんがニヤッと笑った。
「そのうち連れてってやるよ。それまでに行きたい場所、テレビ見ながら選んどけ。それなら見ていて楽しいだろ?」
テレビに映っていたいろんな景色が頭に浮かぶ。「ああいうところに行けるんだ」と思うとソワソワした。けれどすぐに「そんなことあるわけない」ということに気がついた。
(だって俺は風俗店か臓器売買されるんだから)
どっちになったのかはわからない。藤也さんも何も言わないけど、どちらかに連れて行かれることはわかっている。
(きっと俺を喜ばせようとしてくれてるんだ)
藤也さんは優しいから、ここにいる間だけでも楽しませようとしてくれているに違いない。それはうれしいけど、同じくらい胸がズキズキした。
「俺は嘘はつかない。連れてってやるからいろいろ見ておけ」
喉が詰まったような感じがした俺は、こくりと一度だけ頷いた。
(藤也さんと約束したから、見たくなくても見ないと……)
ノロノロとリモコンのボタンを押す。テレビに昨日の続きが映った。昨日はイタリアで、これからエジプトのクイズが始まるらしい。
(どっちも行きたいとは思わないけど)
それにどっちもよく知らない国だ。日本からどのくらい遠いのかもわからない。それでも藤也さんとの約束を破ることはできないから、よくわからない画面をじっと見る。
(……あれ? この声どこかで聞いたような……)
クイズを答えている声が気になった。
(最近どこかで……あ、チョコレートのやつか)
チョコレートのCMで聞いた声だ。ほかにお酒のCMでも聞いたような気がする。
(そういえば藤也さんが変なこと言ってたっけ)
俺の耳はとてもいいらしい。よくわからないけど藤也さんがそう言うならそうなんだろう。
(サングラスの人たちの声、必死に覚えてたからかな)
お店はいつも薄暗くて、似たような格好の人を見分けるのがとても難しかった。だから声で覚えるようになった。声を覚えて、持っていくお酒や呼んでくるお姉さんも覚える。そうしないと殴られるからだ。
お店のことを思い出していたら「ポンポーン」って音がして驚いた。ここに来てからチャイムが鳴ったのは初めてだ。びっくりしたまま玄関のほうを見ていると、またピンポーンと音がする。
(ど、どうしよう)
きっとお客さんだ。でも、こういうときどうすればいいか教えてもらっていない。じっとしていると、またチャイムが鳴った。足音を立てないように玄関に行き、そぅっとドアを開ける。
(……誰もいない?)
じゃあ誰がチャイムを鳴らしたんだろう。首を傾げていると、今度は「おおーい」という声が聞こえてきた。
(ボスの声だ)
ちょっと小さいけど間違いない。でも玄関の外には誰もいない。どういうことだろう。
(……あ、もしかしてビルの入り口にいるとか?)
連れて来られた日、藤也さんがビルの入り口でも鍵を開けていたのを思い出した。きっと鍵がかかっているから開けられないに違いない。
(でも開け方知らないし……)
またピンポーンと鳴った。「おおーい」という声も聞こえる。
(とにかく入り口に行ってみよう)
ボスを待たせるわけにはいかないと思って、急いでエレベーターに乗った。入り口に行くと予想どおりボスが立っている。後ろには金髪の人もいた。
慌ててドアに走った。開け方はわからないけどそのままにしておくわけにはいかない。ところが俺が近づくとドアが勝手に開いてびっくりした。
「迎えに来るなんて偉いな」
「あ、あの、と、藤也さんはまだ、か、帰ってきてません」
「知ってるよ」
そう言ってにこりと笑ったボスが入ってくる。そのままエレベーターに向かうのを慌てて追いかけた。金髪の人がボタンを押してボスが中に入った。どうしようと立ち止まっていると金髪の人が俺を見る。
(入れってことかな)
たぶんそうだ。でもボスみたいな偉い人と一緒乗ってもいいんだろうか。だからって入らなかったらいつまで経ってもエレベーターを動かせない。
(き、きっと大丈夫)
そろりと入ると金髪の人が入ってきてボタンを押した。すぐにエレベーターが動き出す。
「あ、あの」
「藤也なら一時間くらいで帰ってくるんじゃないかな」
「そ、そうですか」
「それまでソウくんに相手をしてもらうことにしよう」
「あ、相手」
何をすればいいんだろう。両手をギュッと握り締めながら俯こうとしたら、ボスにほっぺたを撫でられて「ひぇっ」と変な声を出してしまった。驚いて顔を上げると目の前に綺麗なボスの顔があって「ひぇっ」とまた変な声が出る。
「あはは、反応がいちいち可愛いなぁ」
そう言っておでこにチュッとキスをされた。俺の体はすぐにカチコチに固まってしまった。
「ボス」
「わかってるよ。これはただの挨拶だ」
ポンと音がしてエレベーターが止まった。ドアが開くと「さぁ、行こうか」と言ってにこりと笑ったボスが歩き出す。慌てて後を追いかけながらおでこを何度も撫でた。
(い、いまのってなんだったんだろう)
その後、俺はボスと付けっぱなしだったテレビを一緒に見ることになった。目はテレビを見ているけど頭には何も入ってこない。ソファに座っているボスが気になってチラチラと何度も見てしまう。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。「か、帰ってきました」とボスに伝えてから急いで玄関に向かった。ボスと二人なんてどうしていいのかわからない。金髪の人もいたけど、ボスの後ろに立っているだけでひと言も話さないからいないのと同じだ。
「お、おかえりなさい」
でも、藤也さんがいれば平気だ。そう思ってホッとしていると、いつもどおり「おう」と言った藤也さんの言葉が止まった。
どうしたんだろう。藤也さんの目が下をじっと見ている。そこにはボスたちの靴がある。
藤也さんの顔が怖くなった。靴を脱ぐとドカドカと足音を立てて部屋に入っていく。俺は慌てて後を追いかけた。
「ここには来るなって言っただろうが」
部屋に入って最初に聞こえたのは、そんな藤也さんの怖い声だった。




