5 俺がやるべきこと
「昼飯にするぞ。パスタでいいか?」
お母さんの写真を見ていた藤也さんが、俺の頭をポンと撫でながら立ち上がった。
「は、はい。パスタ、お、おいしくて、す、好きです」
「そりゃよかった」
もう一度ポンと頭を撫でた藤也さんが部屋を出て行く。慌てて荷物を片付けてから追いかけると、上着とネクタイをソファの背もたれに置く後ろ姿が見えた。そうしてシャツの袖をまくり上げながらキッチンに入っていく。
(……大人って感じでかっこいいなぁ)
急に藤也さんの全部がかっこよく見えてきた。
(いや、前から藤也さんはかっこよかったし)
それが毎日どんどんかっこよくなっている気がする。これまでスーツ姿の人はたくさん見てきたけど、その中でも藤也さんが断トツで一番かっこいい。そういえばスーツじゃない休みの日の藤也さんもかっこいいことに気がついた。
(藤也さんは全部かっこいい。それになんでも知ってるしなんでもできるし、すごい人だ)
スパゲッティをパスタと呼ぶことも藤也さんに教えてもらった。
(この匂いは……ミートソースだ)
このミートソースだって藤也さんの手作りだ。ほかにもいろんなご飯を作ってくれる。何度か作っているところを見たことがあるけど、俺には何をしているのかさっぱりわからなかった。
(かっこよくてなんでもできて、藤也さんって本当にすごいな)
しかもすごい力持ちで、うたた寝をしていた俺をほとんど片手で持ち上げたのにはびっくりした。しかもいい匂いまでしていた。
(あれって、たぶん藤也さんの香水だよな)
お店ではいろんな香水の匂いがしていたけど、どれも好きじゃなかった。だけど藤也さんの香水はいい匂いだと思う。あの匂いならいつまででも嗅いでいたい。
「もうすぐできるぞ」
藤也さんの声に慌ててキッチンに入った。ご飯ができるのに合わせて俺にはやることがあるからだ。まず、料理に合わせてお皿を選ぶ。これが結構難しくて、藤也さんが作る料理が何かわからないと選べない。
(ミートソースってことは……白がいいかな)
白いお皿を出してから、ミートソースが載っかっているのを想像してみた。
(……なんか違う気がする)
そう思って薄い緑色のお皿にした。こっちのほうが赤いミートソースがおいしそうに見える気がする。次にコップとフォークをテーブルに並べる。それから飲み物を選ぶのも俺の仕事だ。冷蔵庫にはレモン味の水と緑茶、それに炭酸水とコーヒーが入っていた。
(ミートソースはトマト味だからなぁ)
炭酸水とレモン味の水を見比べる。炭酸水でもいいような気がするけど、レモン味のほうがさっぱりしてよさそうだ。水が入ったガラス瓶を選んでコップに注いでいると、藤也さんが出来たてのミートソースパスタを持って来た。薄い緑色にパスタの白、上に載っかった赤いミートソースを見て、緑色にしてよかったとホッとする。
「今日の皿選び、なかなかいいぞ」
藤也さんに褒められて顔がにやけた。
「さて食べるか」
頷きながら急いで向かい側に座る。
「いただきます」
「召し上がれ」
最初はぎこちなかった二人で食べるご飯にも慣れてきた。
「今日はもう仕事に戻らないからな」
俺はコクコク頷いてからミートソースパスタに集中した。そうしないと食べるのに失敗してしまいそうだったからだ。
食べ終わると藤也さんが食洗機にお皿もコップも入れてしまった。おかげで俺の仕事がなくなった。
(どうしよう、やることが何もない)
ほかに何かできないかウロウロしたけど、結局何も見つけられなくて藤也さんに聞くことにした。
「あの、な、何かすること、ないですか?」
「本でも読んでろ」
「でも、」
「ほかにやることはねぇよ。あとは夕飯前に風呂の用意くらいだ」
「お風呂……じゃあ、入浴剤、え、選んできます」
急いで洗面所に行ってから入浴剤を選ぶことにした。棚にはいろんな種類があるからいつも迷ってしまう。
(今日は暑かったはずだから……)
天気予報でそんなことを言っていた。それならさっぱりしたやつがいいはず。“爽やか気分でリフレッシュ”と書かれた入浴剤を選ぶと、それを洗面所の脇に置いて部屋に戻った。ソファで本を読んでいた藤也さんがニヤニヤした顔でこっちを見ている。
「ほ、ほかにやること、ありますか?」
「ねぇよ。まったく、おまえは可愛いな」
「か、かわいい」
「あぁ、可愛い。あとは本でも読んでろ」
頷いたものの、開いたページの文字が全然頭に入ってこない。俺の頭の中は藤也さんの「可愛い」の言葉でいっぱいになっていた。
気がついたら夕方になっていた。結局一ページも読めないままだ。ダメだなと思いながら藤也さんがお風呂に入るのを見送って、出てきたら今度は自分が入る。そうしてお風呂から出たら夜ご飯の用意が終わっていた。
テーブルを見て足が止まった。お皿の上に焼き魚があったからだ。
「おーおー、一丁前に嫌そうな顔しやがって」
キッチンから顔を出した藤也さんが俺を見て笑っている。
「やっぱり魚は嫌いか?」
「き、嫌いじゃ、ないです」
「嘘つけ」
「う、嘘じゃ……なくは、ないけど……」
本当は魚が苦手だ。あまり食べたことがないせいかもしれないけど、なんとも言えない独特の匂いがあまり好きじゃない。
「嫌いなら嫌いってはっきり言っていいからな。そのくらいで俺は怒ったりしねぇよ」
チラッと藤也さんを見る。本当だろうか。黒色の目が電気のせいか不思議な色に見えた。でも怒っているようには見えない。
「ま、俺にも苦手なもんくらいあるからな」
「え?」
「四十の俺にもあるんだ、ガキのおまえならもっとあるだろ」
にやりと笑った藤也さんもかっこいい。思わず見惚れながら「全然四十歳には見えないな」と改めて思った。
(お父さんと同じくらいだろって言われたけど、そうなのかな)
一度もお父さんに会ったことがないから、よくわからない。
「どうしても食えないものは仕方ない。だがな、いろんなものが食えると人生楽しいぞ? 食えるものが多ければ世界中のうまいものを食べる楽しみもできるしな」
「せ、世界中……」
「そう、世界中だ」
そんなこと考えたこともなかった。いつも食べていたのはパンやもらった残りもので、通りの表にあるようなお店の料理を食べたことすらない。そんな俺が世界中のご飯を食べることなんてあるんだろうか。
「で、どうする? 食うか?」
「……ちょ、ちょっとなら」
小声で答えると、藤也さんがニヤッと笑った。
「少しずつでもいいから食べてみろ。そのうち好きになるかもしれないぞ」
そんな日が来るとは思えない。そう思ったけど、藤也さんの大きな手にポンポンと頭を撫でられたからか、がんばって食べてみようという気持ちになった。
焼き魚と格闘した夜ご飯のあと、俺にはまだ大変なことが待っていた。魚よりむしろこっちのほうが俺には大変な気がする。
(なんでもいいから見たいものを選べって言われても……)
ソファには藤也さんが座っている。片付けが終わってからはお酒の時間だとかで、テーブルには大きな氷が入ったコップが置いてあった。中身はお店で見たことがある薄茶色のお酒だ。藤也さんの前には大きなテレビが、そして床に座っている俺の前にはリモコンが置いてある。
「テレビ、見たいものないのか?」
「……み、見たことあんまりないから、よ、よくわかりません」
正直にそう答えたら藤也さんの顔が少しだけ怖くなった。
「予想はしてたが……じゃあ、とりあえず片っ端から見ていくか」
リモコンを取った藤也さんがいろんなボタンを押していく。テレビにはアニメや食べ物、どこかのお城、変な格好をした人たちや外国っぽいものが次々に映った。
(いいなぁ)
海外旅行のテレビなのか、見たことがない景色が映っている。俺は旅行をしたことがない。小学校も中学校もお金がなくて修学旅行にも行ったことがなかった。
(そういえば小学校のとき、いつか旅行に行けるかもって思ってたっけ)
家でプリントを見ながらどんなところか想像したりした。
(行けるはずないのに、俺ってやっぱり馬鹿だったんだな)
だから、中学のときはプリントを見ることもなかった。修学旅行の話を聞きたくなくて、終わった直後は学校にも行かなかった。
(もしかしてなんて、夢とか想像とかしても無駄なんだ)
とっくにわかっていたはずなのに、最近また少しだけ夢を見てしまっている。
(このまま藤也さんのところにいられたらいいのに……)
そんなとんでもないことを想像するようになった。叶うわけがないのに、毎日が楽しくて藤也さんのところにいたい気持ちがどんどん膨らんでいく。
(そんなの無理なのに……俺がここにいられるのは、風俗店か臓器売買に連れて行かれるまでなのに)
それなのに、藤也さんの話を聞くと楽しい未来が待っているような気がして夢ばかりみてしまう。藤也さんはきっと俺を楽しませようとしてくれているだけだ。優しい人だから、きっとそうだ。それなのに俺は勝手に夢を見て、勝手に苦しくなったりしている。
「旅番組にするか?」
藤也さんの声にハッとした。
「そうか、旅番組に興味があるのか。予想外だったな。そういや旅のクイズ番組もあったな……」
藤也さんがまたボタンを押し始めた。本当は旅行のテレビなんて見たくな。でも藤也さんが選んでくれたテレビなら見ないとダメだ。
それから俺は旅行とクイズが一緒になったようなテレビを見ることになった。藤也さんがいるときも藤也さんがいないときも、知らない国の景色と答えなんて想像すらできないクイズのテレビを見る。
(別に見たいわけじゃないけど……でも、テレビを見てる藤也さんを見るのはちょっと好きかも)
一人で見るときはつまらない。でも藤也さんと一緒なら少しは楽しい気がする。藤也さんと一緒にテレビを見ていたはずなのに、気がつくと藤也さんのことばかり見ていた。