4 新しい生活
怖い顔の人は藤也さんという名前だった。「おまえは?」と聞かれて、いつもどおり蒼と答えた。
俺の一日は朝七時に起きるところから始まる。着替えて顔を洗ったら、藤也さんが作ってくれたご飯を藤也さんと一緒に食べる。それが仕事なんて変な話だけど、「それがいまのおまえのやることだ」と言われたら頷くしかない。
ご飯を食べ終わると、八時半頃に藤也さんが出かける。たぶん仕事に行くんだろう。それを見送ってから食器を洗うのが次の仕事だ。それから藤也さんの部屋に入って洗濯物を集める。シーツは三日に一回でいいと言われたから今日は枕カバーとパジャマだけだ。それを洗面所に持っていって、タオルや俺の洗濯物も一緒に洗濯機に入れる。あとはボタンを押すだけで洗濯機が乾燥までやってくれる。
勝手に洗剤が出てくるのも乾燥までできるのも初めて見た。最初はおそるおそるボタンを押していたけど、いまはポンと勢いよく押せる。なんだか自分がすごい人間になった気がしてちょっと楽しい。
(それにしてもすごい洗濯機だな)
俺が住んでいたアパートには誰でも使える洗濯機が置いてあった。二層式と書いてある古いやつで、ここにあるものとは全然違う。
(しかも乾かしてくれる洗濯機なんてすごすぎる)
すごいとは思うけど、俺は外に干すほうが好きだ。でもこの部屋はビルの一番上だから洗濯物を外に干すことはできないらしい。今日みたいに天気がいい日は外に干したほうが気持ちよさそうなのに残念だ。
(そうだった、今日は布団を乾燥させる日だ)
同じ理由で布団も干せない。代わりに布団乾燥機でフカフカにする。
(“梅雨の晴れ間”ってのは貴重だから、外に干したら気持ちいいんだけどなぁ)
朝、藤也さんと一緒に見た天気予報で“梅雨の晴れ間”で“貴重な洗濯日和”だと言っていた。聞きかじりの言葉を思い浮かべてにんまりする。なんだかちょっとだけ頭が良くなった気がするのは気のせいだろうか。
(こういう日は何もかも外に干してたっけ)
アパートにいたときはそうしていたけど、ここではそれができない。俺のできることが一つ減った代わりに、全自動洗濯機と布団乾燥機が使えるようになった。
(先に藤也さんの布団をフカフカにして、それから俺の布団にしよう)
「俺の布団」と思うだけで顔がニヤニヤしてしまう。
(まさか自分の部屋がもらえるなんて思わなかった)
しかもベッドまで用意してくれた。それどころか着替えや下着まで買ってきてくれた。だからというわけじゃないけど、いまでは藤也さんを見ても怖い顔だと思わない。
(……いや、まだほんのちょっとは怖い顔だと思うけどさ。でも中身は優しいってわかったから全然怖くない)
藤也さんはこんな俺にも優しくしてくれる。
(だから、俺は藤也さんの役に立ちたい)
いや、役に立たないとダメだ。迷惑をかけた分、役に立たないと……きっと捨てられる。そう考えただけでブルッと震えた。お母さんの顔を思い出してますます怖くなる。
(次の場所に行くまでの間しかいられないのはわかってる。でも、こんなに優しくしてくれた人、ほかにいないから……)
藤也さんの顔を思い浮かべると、お母さんとは違う感じで胸が痛くなる。お母さんがいなくなったときより藤也さんがいなくなることのほうが怖いと思った。だから捨てられないように役に立たないといけない。でも、俺にできることは教えてもらった洗濯と掃除くらいしかない。
ここに来て二週間くらいが経った。それなのにそれっぽっちしかできない自分が嫌になる。
(身の回りのことから教えてやるって言ってたけど、次のこと教えてくれるのいつだろう)
藤也さんは少しずつだと言っていた。その“少しずつ”をもう少し早く教えてもらうことはできないだろうか。一昨日、勇気を出して次のことを聞いたけど、「それならテレビと本を見ろ」としか言われなかった。
(そんなの、仕事のわけないのに)
さすがの俺でもそのくらいのことはわかる。
(……俺、やっぱり迷惑なんだろうな)
布団乾燥機を藤也さんのでかいベッドに入れてから、丸い掃除機のスイッチを入れた。本当は決まった時間に動くからそんなことしなくていいらしいけど、そこまで掃除機にされたら俺のやることがなくなってしまう。だから毎回俺がスイッチを入れることにしている。
洗濯機も布団乾燥機も掃除機もスイッチを押した。これで俺の仕事は全部終わってしまった。あとはテレビを見るか本を読むことしか残っていない。
(きっと俺が何もできないからテレビと本って言ったんだろうなぁ)
テレビのリモコンを見たけど、結局テレビをつけないまま床で丸くなった。不安で心配なとき、アパートではいつもこうしていた。お母さんがいなくなった日も丸くなって寝た。そうすれば悲しいのも苦しいのも忘れられたのに、いくら丸くなっても不安な気持ちは消えてくれない。
(もっと藤也さんの役に立ちたい)
それに、役に立てれば連れて行かれる日が延びるかもしれない、なんて下心もあった。
(せめて料理が作れたらなぁ)
ご飯は三食とも藤也さんが用意してくれる。お店で買ってくることもあったけど、それだって藤也さんが用意してくれるのと同じことだ。
(でも、藤也さんに料理はするなって言われたし……)
だから勝手に料理をするわけにはいかない。そもそも大した物は作れないし、失敗したら藤也さんに迷惑をかけることになる。そう思って料理は諦めた。
(そういえば今日はお昼過ぎに一度帰るって言ってたっけ)
藤也さんが帰ってくるまでに、もう少しできることをしておこう。のそりと起き上がってから、とりあえずテレビをつけてみた。教えてもらったとおりチャンネルを変えてみるけど、いままでテレビを見たことがなかったからどれがいいのかよくわからない。それならとテレビを消して本を開いたけど、ページをめくる前に飽きてしまった。
(本なんて小学生のときしか読んでなかったし、たぶん俺には向いてない)
本を閉じて部屋をぐるりと見回す。こんな高そうな部屋に置いてくれる藤也さんのため、俺に何ができるだろう。本当はもっといろんなことをしたい。藤也さんの役に立つことをたくさんやりたい。
(せっかく一緒にいてくれる人ができたのに、これじゃきっとすぐに捨てられる)
あの日、玄関を開けて誰もいない部屋を見たときの気持ちが蘇った。ブルッと震えた体を両手で擦っていると、玄関が開く音がして慌てて立ち上がる。
玄関に行くと、ちょうど藤也さんが靴を脱いでいるところだった。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま。いい子にしてたか?」
そう言った藤也さんが朝と同じように頭をポンと撫でてくれた。子ども扱いされるのは嫌なのに、藤也さんにされるとどうしてかうれしくて顔がにやけそうになる。
「ほら」
「……?」
藤也さんが紙袋を二つ差し出した。
「これは……?」
「おまえの部屋に残ってた荷物だ」
「俺の部屋……」
「ついでに部屋の解約も済ませてきたからな」
ということは、もうあの部屋には帰れないということだ。帰れるとは思っていなかったけど、本当に帰れないんだと思うとやっぱり寂しい。
(……ってことはそっか、もうお母さんを待つことはできないんだ)
古いドアに小さな玄関、台所というには狭すぎる板の間に六畳の部屋が頭に浮かんだ。なんてことないおんぼろアパートだったけど、二度と帰れないんだと思うと胸がギュッとなる。
「どうした?」
俺は慌てて頭を振った。ここで変な顔をしたらダメだ。わざわざ荷物を取りに行ってくれた藤也さんを嫌な気分にさせてしまう。優しい藤也さんにはそんな気持ちになってほしくない。
「あ、ありがとう、ございます」
紙袋を受け取った俺は、自分の部屋に持って行ってから中身を見た。一つ目の紙袋には本が何冊かと、中学に入ったときに買ったまま一度も使っていないノートが三冊入っていた。もう一つの紙袋には玄関に置きっぱなしにしていたクタクタのカバンが入っている。
(よかった)
紙袋からカバンを取り出した俺は中をゴソゴソと漁った。
「……あった」
「なんか大事なもんでも入ってたか」
いつの間にか藤也さんが後ろに立っていた。「これ、あ、ありがとうございます」と言ってから、見つけたパスケースを見せる。
「お、お母さんの写真、こ、これしかないから」
お母さんが使っていた花柄のパスケースにはお母さんの写真が入っている。若い頃のお母さんと、右下には三歳か四歳くらいの俺も写っていた。それを俺はいつもカバンに入れて持ち歩いていた。こんなクタクタなカバンなんて捨てられてもおかしくないのに、持って来てもらえて本当によかった。
写真を見ている俺の隣に藤也さんがしゃがみ込んだ。びっくりしたけど、写真を見ていることに気がついてパスケースを動かさないようにと腕に力を入れる。そうしながら横目でチラッと藤也さんを見た。
(……あれ? 藤也さんの目って黒色じゃないんだ)
初めて気がついた。いつもは黒色に見えるけど、いまは灰色のような、でも青色も混じっているような不思議な色に見える。
(……綺麗だな)
怖い顔だと思っていたけど、よく見たらすごくかっこいい。こういう人を“イケメン”というに違いない。お店のお姉さんたちが話していたことをぼんやりと思い出した。
(イケメンで優しくて何でもできるなんて、藤也さんはすごいな)
こんなすごい人に初めて会った。しかも俺なんかにまで優しくしてくれる。
(俺、藤也さんの役に立ちたい)
迷惑をかけているぶんだけでも何かしたい。お母さんの写真を熱心に見ている横顔をチラチラ見る。見れば見るほどかっこよく見えてドキドキしてきた。
慌ててお母さんの写真を見た。いつもお母さんが言っていた「イケメンで優しい人だったんだから」って言葉を思い出して、またチラッと隣を見る。
(もしかして藤也さんみたいな人だったのかも)
それならお母さんが嬉しそうな顔をしていたのもよくわかる。
(それにしても写真、見過ぎじゃないかな)
もしかしてお母さんのことを知っているんだろうか。藤也さんは事務所の人じゃないらしいけど事務所の人を知っている。もしかしたらお店で働いていたときのお母さんを知っているのかもしれない。
「あ、あの、もしかして、」
「おまえ、母親に似てるな」
お母さんのことを聞く前にそう言われてびっくりした。
「そ、そう、ですか?」
お母さんを知っているお姉さんたち以外からそんなふうに言われたのは初めてだ。思わずパスケースを持っていない手で顔をペタペタと撫でる。
(そっか、俺、似てるんだ)
ニヤニヤしながら、もう一度笑っているお母さんの写真を見た。