23 初めての旅行
「……え? ここどこ?」
目が覚めて最初に口から出たのはそれだった。天井を見て、それから体を起こして周りを見る。
(……ほんとにここ、どこ?)
たしか寝る前は藤也さんの部屋にいたはずだ。最後に見たのは藤也さんの部屋のデジタル時計で、そのまま丸くなって眠ってしまった。それなのにここは藤也さんの部屋じゃない。
(そういえば藤也さんが帰ってきたような……)
藤也さんの声が聞こえた。何か言われたような気もする。俺も何か話をした。それともあれは全部夢だったんだろうか。ベッドの上でポカンとしていたらドアが開いた。
「おー、起きたか」
「藤也さん」
「朝飯あるぞ。食うだろ?」
「……食べる」
返事と一緒にぎゅるると鳴ったお腹の音に藤也さんが笑った。
「元気な証拠でなによりだ」
そう言ってドアの向こう側に行ってしまった。慌ててベッドから下りて、そっと隣の部屋を覗く。
(……本当にどこだ?)
隣も見たことがない部屋だった。高そうなソファとテーブル、それに奥には畳の部屋まである。窓の外には庭があった。藤也さんの部屋は最上階にあったから庭なんて見たことがない。畳の部屋も藤也さんの部屋にはないものだ。どういうことだろう。グルグル考えていると「いい部屋だろ?」と言いながらお皿を持った藤也さんが奥から出てきた。
「あの、ここって……」
「正月休みはここでのんびりするぞ。一棟貸し切りだからおまえも気を遣う必要はねぇよ」
「か、貸し切りって……」
「向こうに露天風呂があるから後で入るか」
「ろ、てん、ぶろ」
「前に行ってみたいって言ってただろ。庭を眺めながらの露天風呂は最高だぞ」
前に旅行番組の温泉旅館特集を見ていたとき、思わず「いいなぁ」と言ったのは覚えている。それを藤也さんは覚えていたということだ。
(ってことは、ここは温泉旅館……?)
藤也さんが出てきた奥を覗いたらマンションと似たようなキッチンがあった。別のドアを開けるとトイレと洗面所、別のドアの先には玄関が見える。
(……温泉旅館ってマンションの部屋みたいだ)
テレビで見た部屋とは全然違う。ということは値段もきっとすごいに違いない。そういうこともわかるようになってきた。知らなかったとはいえ、行ってみたいなんて言うんじゃなかったと後悔した。
「ここは会社が持ってる保養所の一つだ。元は温泉旅館だから旅館で間違いはねぇが、いまは旅館じゃない。だが、いいところだ。きっとおまえも気に入る」
「でも、」
「俺が気に入ってる場所をおまえに見せたかったんだよ。後悔も反省もするんじゃねぇぞ」
テーブルにパンやハムエッグの載ったお皿を置いた藤也さんがポンと俺の頭を撫でた。俺は少しだけ俯いて、「ありがとう」と言いながら抱きついた。
ここはマンションから車で二時間ちょっとのところにある会社の持ち物だと藤也さんが説明してくれた。温泉が出て、ほかの人を気にする必要がなくて、食事はその日の朝に三食分が届けられるんだそうだ。それを好きなタイミングで温めて食べるらしい。洗濯も頼むことができるらしいけど、洗面所に大きな洗濯機と乾燥機が置いてあった。
そんな場所に寝ている間に運ばれたってことだ。車に乗って二時間以上も移動して、それにベッドに運ばれても目が覚めなかった俺はどうなんだろう。「疲れてたんだよ」と藤也さんは笑っていたけど、忙しかった藤也さんのほうがもっと疲れていたはずだ。
朝ご飯を食べてオレンジジュースを飲みながら大いに反省した。そして、うかつなことは言わないようにと密かに決意する。
「今回は国内だが、そのうち海外にも連れてってやるよ」
「え?」
「そのためにも、まずはおまえのパスポート作らねぇとなぁ」
まさか温泉旅館の次は海外旅行なんだろうか。たしかに旅行番組を見ながら行きたいと言ったことがある。あのとき見ていたのは……エジプトとトルコだ。エジプトはピラミッドを、トルコは建物が見たくてそう言った。
「おまえが行きたがってたところもだが、イギリスはどうだ?」
「イギリス?」
「オーストラリアやアメリカ、カナダでもいい。英語圏なら生の英語を聞くことができるからな。耳がいいおまえならいい勉強になる」
「もしかして、俺のため……?」
「おまえはもっといろんなことを見聞きしたほうがいい。これまでできなかった分もな。そうしているうちにやりたいことも見つかる」
「でも俺、藤也さんの役に、」
「たっぷり経験してしっかり考えてから答えを出せばいい」
もしかして俺には藤也さんの手伝いができないと言いたいんだろうか。俯く俺に、藤也さんが「おまえがワクワクしてるのを俺が見たいんだよ」と言って笑った。
「俺も若い頃は何もできなかったからな。俺にとっても青春のやり直しみたいなもんだ」
「でも、」
「俺と一緒に青春、やりたくねぇか?」
「そ、れは……やりたいかも」
「じゃあ決まりだ」
オレンジジュースをちゅるっと飲む俺を藤也さんが見ている。いつもの藤也さんなのに何かが違う気がした。
「どうかした?」
気になってそう尋ねた。少し考えるような顔をした藤也さんが「蒼は俺と家族になりたいか?」と言った。
「え?」
「俺と家族になりたいか?」
ポカンとする俺を藤也さんがじっと見つめる。
「結婚できればそれに越したことはねぇが、この国では難しい。だが、結婚じゃなくても家族になる方法はある。蒼は俺と家族になりたいか?」
藤也さんと家族になることを想像した。想像したけどよくわからない。俺の家族はお母さんだけで、そのお母さんも十五歳のときにいなくなった。それからはずっと一人だった。
「すぐに答えは出さなくていい。じっくり考えて答えを出せばいい。ただ、おまえが望むなら家族になることができる、それは覚えておけ」
「……家族になるって、どういうこと?」
「そうだなぁ。毎日一緒に飯を食って、テレビを見て、話をして、笑ったりキスしたりして寝る。そうやってずっと一緒に過ごすってことだ」
「それって、いまと変わらないんじゃ……」
「いまも家族みたいなもんだが、本当の家族になれば俺の一切を与えてやることができる。法律上、俺のすべてをおまえのものにしてやれる」
「……よく、わからないけど、」
「ま、それもまだ当分先のことだ。俺に何かあったときの保険ってやつだな」
何かあったとき……それってどういう意味だろう。なんだか嫌な感じがした。初めての温泉旅館でフワフワしていた気持ちが急に重苦しくなる。
「泣きそうな顔すんじゃねぇよ。いますぐどうこうって話じゃない」
「でも、」
隣に座った藤也さんが、心配するなと言うようにポンポンと頭を撫でてくれた。
「ゆっくりでいいから、ちゃんと考えておけ。いつでも家族になれる準備はしてある」
「……わかった」
頷いたけど、藤也さんの目はまだ俺をじっと見ている。まだ何か話したいことがあるんだろうか。コップをテーブルに置いて見つめ返した。
「おまえ、母親のこと知りたいか?」
「え……?」
想像していなかった言葉に驚いた。再びポカンとする俺を見ながら藤也さんが話し始める。
「もしおまえが知りたいなら教えてやる。母親のこと、母親の家族のこと。それから父親のこともだ」
それって、お母さんがいまどこにいるか知っているということだろうか。それにお母さんの家族のこと、一度も会ったことがないお父さんのこと……お母さんがうれしそうに話していた、怖い顔でイケメンで、そして優しかったという俺の父親のことも知っているということだろうか。
「知りたいなら教えてやる」
藤也さんの顔をじっと見た。じっと見つめながら考えた。俺は……知りたいんだろうか。
(お母さんのことは……知りたい気もするし知りたくない気もする)
狭い部屋でずっとお母さんを待っていたときのことを思い出した。あの頃はお母さんが帰って来ないと一人ぼっちだと思って毎日が怖かった。だからずっと待っていた。それが俺のできる精一杯のことだった。でも、俺はもうあの部屋にはいない。家賃を精算して解約したから戻ることもできない。あの部屋に帰ることは二度とない。
(それに待ってたとしてもお母さんは帰って来なかった気がする)
本当はお母さんがいなくなった日からそんな気がしていた。でも、そう思うのが怖くて気づかない振りをし続けた。きっと帰ってくると思ってあの部屋にいた。そうすることでしか生きていけなかったからだ。
でもいまは藤也さんがいる。藤也さんがずっとそばにいてくれる。だから一人ぼっちじゃないし寂しくない。一人じゃないから、もう怖くない。
「お母さんのことは、もう大丈夫」
もし知りたくなったらそのときに聞けばいい。
「お父さんは……わからない」
「そうか」
ポンと頭を撫でてくれる藤也さんを見ていたら、なんとなく藤也さんみたいな人がお父さんだったんじゃないだろうかと思えてきた。そんなふうに思ってしまった自分を笑ってしまった。
「どうした、急に笑い出して」
「お母さんが、お父さんはイケメンで優しい人だって言ってたの思い出して。だから藤也さんみたいな人だったのかなと思ったんだ」
俺の言葉に藤也さんが顔をしかめた。
「藤也さん?」
「あいつならそう言いそうだな」
「……もしかして藤也さん、お母さんのこと知ってる?」
「知ってるというか……」
少し考えてから「まぁ、いいか」と言って話し始めた。
「二十年くらい前だったか。おまえが住んでたあの辺りは、当時藤生んとこのオヤジが仕切っていた場所だった。その頃の俺はいまと違って……、まぁ、若気の至りってやつだな。あの頃はあちこちの店で遊んでた」
「お店って」
「風俗店だな。そのときおまえの母親の初めての客になった」
「え……?」
藤也さんの言葉にポカンとした。少し視線を逸らしている藤也さんをじっと見る。
「それって……」
藤也さんの不思議な色の目がチラッと俺を見た。
「驚いたか?」
「お、どろいた」
「だろうな」
また藤也さんが目を逸らした。見たことがない藤也さんの表情に釘付けになりながら「びっくりした」ともう一度口にする。
「そっか、藤也さん、お母さんと会ったことがあったんだ」
「あぁ」
「すごいね」
「すごい?」
「だってそうでしょ? あそこにはいろんなお店があって、お姉さんたちもたくさんいる。それなのに藤也さんとお母さんが会ってたなんてすごいよ」
「……そうきたか」
なぜか藤也さんが困ったような顔で笑った。
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇよ」
「じゃあさ、お母さんの顔、覚えてる? ねぇ、かわいかった?」
「は?」
「俺、病気になってからのお母さんの顔しかあんまり思い出せないんだ。お店のお姉さんたちはすごくかわいかったって言ってたけど、どのくらいかわいかったのかなぁと思って。写真のお母さんはたしかにかわいいけど、でも写真だからなぁ」
藤也さんが変な顔をした。「あれ?」と思っていると、ポンポンと頭を撫でながら「可愛かったぞ」と教えてくれた。
「ついでに言えば、おまえは母親より可愛い」
「え……と、それはどうなんだろう」
「なんだ、可愛いって言われたくねぇのか?」
「だって俺、男だよ?」
「男でも可愛いもんは可愛い。俺の蒼は世界で一番可愛い」
顔が一気に熱くなった。見られているのが恥ずかしくなって、顔を隠すように藤也さんがいるのとは反対のほうを向く。
「さて、朝飯も食ったし露天風呂にでも入るとするか」
そうだ、ここには露天風呂がある。テレビで見たあのお風呂に入れるのかと思うとワクワクした。そんな俺を見た藤也さんがニヤッと笑った。
「どうかした?」
「露天風呂ってのは半分外だ」
「うん」
「風呂で外、考えるだけで興奮するよなぁ?」
温泉で興奮するってことだろうか。
「隣の棟は離れてるから、ある程度声を出しても周りには聞こえねぇから安心しろ」
「……!」
藤也さんが何を言いたいのかわかった俺は、首まで真っ赤になるのがわかった。




