21 初めてのモヤモヤ
マンションに帰ってきた。ブーツを脱ぎながら「そういえば静流さんにお礼、ちゃんと言ったっけ」ということに気がつく。今度会ったときにちゃんとお礼を言おう。それより車の中で変なことを言わなかったか気になった。
(……なに……話たっけ)
そもそも話したかどうかもよく覚えていない。ぼんやりしたままコスプレ衣装が入った袋をクローゼットに仕舞った。コートを脱いで楽な部屋着に着替える。帰宅したら部屋着に着替えるようになったのは藤也さんがそうしているからだ。真似をしたら藤也さんみたいになれるんじゃないかと思ってずっと続けている。
(あれって藤也さんだったよな)
ショッピングモールで見たロングコートの人を思い浮かべた。何度思い返してもあれは藤也さんだ。でも一人じゃなかった。隣には髪の長い女がいた。顔はわからなかったけど、たぶん綺麗な人なんだと思う。それに自分に自信がある、そういう感じの服だった。
(……あの人、誰だろう)
仕事の人だろうか。それにしては服が派手だった。まるでお店にいるお姉さんたちが普段しているような格好に見えた。
「あんなの、藤也さんの隣には似合わない」
つぶやいてからベッドにうつ伏せに寝転がった。さっきからずっとモヤモヤして気分が悪い。イライラもしていた。難しい問題が解けそうで解けないときに似ている気がする。
(あんな人、藤也さんには似合わない)
それとも藤也さんは本当はああいう人が好みなんだろうか。髪が長くて派手な服が似合って、それにきっと胸も大きい。チラッとしか見えなかったけどコートの胸のあたりがおかしなくらい膨らんでいた。
(男は胸が好きだって誰かが言ってたっけ)
お店でも胸が大きいお姉さんは人気者だった。自分の胸を見る。当然ぺったんこだ。そもそも俺は男で胸はないし、股間には藤也さんと同じものがついている。それでも藤也さんは俺がいいと言ってくれた。
(俺でいい、だったかも)
ダメだ、不安で頭がおかしくなりそうだ。これまでにもたくさん不安になったことはあるけど、それとは全然違う。不安でイライラして怖くてモヤモヤして、頭も心もグチャグチャになった。ベッドの上でギュッと丸くなったけど、落ち着くことも安心することもできずに時間ばかりが過ぎていく。
時計を見ると夜の十時を過ぎていた。帰ってきたのは夕方五時前だった。いつの間にそんなに時間が経ってしまったんだろう。
(……夜ご飯食べてない)
今日は夜遅くなるから先に食べておけと言われた。それなのに食べていないことに気がついた。
(どうしよう、そんなことすらできないなんて)
俺はやっぱりろくでもない人間なんだ。どんなにがんばっても変わらないし、きっと藤也さんの役に立てるような大人にもなれない。そんなことを思ってグルグルしていると玄関が開く音がした。ハッとして部屋を出た。でも玄関まで行くことができない。何もできない俺を藤也さんは許してくれるだろうか。
「蒼?」
「……っ」
廊下で立ち尽くす俺を見た藤也さんが眉をひそめた。
「どうした、蒼」
「藤也、さん、」
リビングに向かう藤也さんについていかない俺を振り返る。
(藤也さんに心配をかけたらダメだ)
グッと力を入れて足を動かした。部屋に入ると藤也さんがロングコートを脱いでいる。その姿を見てショッピングモールのことが蘇った。
「どうかしたのか?」
部屋に入っても立ち尽くしている俺に藤也さんが再び眉をひそめた。困惑しているような、何かを探っているようにも見える。
「蒼?」
ソファにコートと上着を置いてから俺に近づいてきた。それでも何も言わない俺をじっと見下ろす。不思議な色の目が一瞬ガラス玉のように見えた。その目が段々怒っているように見えて、一度そう思ったらもうダメだった。
「蒼」
「……っ」
頬を触られてビクッと震えた。触ったのは藤也さんなのに震えが止まらない。怒っているに違いないと思ったらますます震えてしまう。
(震えちゃダメだ。早く、早く止めないと)
そう思っているのに腕も足もガクガクした。ダメだと思えば思うほど震えて、そうなってしまうのが嫌で唇を噛んだ。
「噛むなと言っただろう」
「っ」
そうだ、唇を噛んだらダメだ。だから噛まないようにしていたのにまた噛んでしまった。
(俺は何もできない。ダメだと言われたこともすぐにやってしまう)
こんなんじゃきっと捨てられる……体がブルッと震えた。歯までカタカタし始める。慌てて俯きながら奥歯を噛み締めたら「おい」と言われてギュッと目を瞑った。
(どうしよう、怒られる、嫌われる、どうしよう、怖い、怖い)
怖くて手も足も冷たくなってきた。こんなふうになったのは久しぶりだ。震えているのを止めたくて必死に力を入れているのに、逆にどんどん体から力が抜けていく。
藤也さんが歩く足音が聞こえた。俺を通り過ぎて廊下に出る。ドアを閉める音がした。
(どうしよう)
呆れられたのかもしれない。それとも嫌われたんだろうか。俺がダメだと言われたことをやったから見捨てられたのかもしれない。ドアの向こうでかすかに藤也さんの話し声が聞こえる。誰かと電話で話している声だ。
(もしかして俺を誰かに預けようとしてるんじゃ……)
捨てられる、そう思ったらギュッと瞑った目から涙がポタポタ落ちた。腕の震えも止まらない。捨てられるんだ、そう思うだけで噛んだ唇から「ひぐ」と変な声が漏れた。
「蒼」
すぐ近くから藤也さんの声が聞こえた。返事をしないとダメなのに声が出ない。頷きたいのに俯いた頭を上げることもできなかった。
「今日は静流が買い物に連れて行ってくれたんだろ?」
頷こうとして失敗した。返事をしようとしたけどやっぱり声が出ない。
「虫除けになるならと思って許したんだが、行き先はショッピングモールだったんだな」
言われてショッピングモールでのことが頭に浮かんだ。静流さんに連れて行ってもらって、そこで藤也さんが好きだというコスプレ衣装を買った。藤也さんと一緒に飲んだフラペチーノを静流さんにプレゼントしてもらった。それから帰ろうとして……浮かんだ映像に両手をグッと握り締める。
「時間的に俺がいたのと同じタイミングだったみたいだな」
「……っ」
やっぱりあれは藤也さんだったんだ。ポンと頭を撫でられてビクッと震えた。
「静流が妙な気の回し方しやがったせいで完全に勘違いしてんじゃねぇか」
藤也さんがため息をついている。やっぱり怒っているんだと思って目からボタボタと涙が落ちた。
「おまえのそれは勘違いだ」
そう言いながらポンポンと頭を撫でられた。撫でる手は怒っていない。それはわかったけど顔を上げることができない。
「かん、ちが、い」
「あぁ、勘違いだ」
ゆっくり目を開けた。ポトッと最後の涙が床に落ちる。それを見てからそっと顔を上げた。
「おまえが思ってるのは勘違いだ。あとは嫉妬だな。違うか?」
「嫉妬……」
「そういうのを感じるようになったのはいい傾向だ。ま、いっぺんにってのはよくねぇんだろうが」
「ちょっと待ってろ」と言って藤也さんが離れていく。それを目で追っているとティッシュを何枚も持って戻って来た。それでグチャグチャになっていた俺の顔を拭ってくれた。
「もう平気か?」
覗き込まれてコクンと頷いた。
「ほら、来い」
腕を引かれてぽすんと胸にぶつかった。そのままぎゅうっと抱きしめられた。
(……香水の匂いがする)
すぅっと吸い込んでからそっと背中に腕を回した。ギュッと抱きしめると藤也さんの温かい体を感じてホッとする。
「大丈夫だ。おまえは何も心配しなくていい」
「……うん」
「おまえは本当に可愛いな」
いまの俺は絶対にかわいくない。それは自分でもわかっている。まるで子どもみたいなことをしたのに藤也さんはかわいいと言ってくれた。嫌われたんじゃないとわかってまた涙が出そうになる。
「よ……っと」
俺を抱き上げた藤也さんが、そのままソファに座った。膝に乗せた俺の顔を手で拭ってくれる。
「で、おまえが嫉妬したのはあの女か?」
藤也さんの隣にいた人を思い出して眉間に皺が寄る。そんな俺に「可愛いな」と言って眉間を指でスリスリと撫でてくれた。そうしながら「あれは取引先の会長の孫だ」と笑う。
「ご機嫌取りを兼ねて買い物に付き合っただけでなんでもねぇよ」
「取引先……ってことは、仕事相手ってこと?」
「似たようなもんだ。まだ正式な取引に至っていねぇってのに、孫を押しつけてくるような面倒くせぇ相手でな。黒い噂もあるから藤生んとこでもマークしてたんだろう。だから静流が気づいた。おまえに害がないように気を遣ったんだろうが、結果はこれだ」
「……俺、迷惑かけ……」
「迷惑なことなんてしてねぇだろ。静流がおまえを面倒ごとに巻き込まねぇようにって気ぃ遣っただけだ。それでおまえが勘違いした、それだけのことだ」
「わかったか?」と言われてコクンと頷いた。
「で、おまえ、あの女と俺がイイコトしてんじゃねぇかって疑ったのか?」
「う、たがっては、ないけど……」
「じゃあ自分は俺にふさわしくねぇと考えたか」
考えていたことを見透かされて視線を逸らした。「ったく可愛いなぁ」なんて言いながら藤也さんの指が目尻を撫でる。
「言っとくが、あそこでおまえに抱きつかれても迷惑なんて思わねぇよ。むしろ俺のほうから抱きしめてキスしてやったくらいだ」
「そ、れは、さすがにダメだと思う」
「あの女は騒いだだろうが俺にとっちゃ痛くも痒くもねぇ。それにあちこち真っ黒だって証拠も揃ったところだ。使えそうな人材の引き抜きも終わったし必要な情報も手に入れた。あとは勝手に潰れていくのを待つだけでこの件は終わりだ」
「終わり……」
「もう二度とあの女の機嫌取りをしなくていいってことだ。あんな面倒くせぇ女、二度と会いたいなんて思うもんかよ」
目尻を撫でている藤也さんの手を取った。そうしてギュッと握り締めながら「もう会わないってこと?」と聞くと、俺の手を握り返した藤也さんが俺の指先にチュッとキスをする。
「本当におまえは可愛いな」
「か、わいいかは、わからないけど」
「可愛いさ。俺だけ見てんのも、俺にだけ懐いてんのも間違いなく可愛いだろうが。あー、藤生や静流に可愛がられてんのは不愉快だが、おまえにとっちゃプラスになるだろうから、ま、許容範囲ってことにしとくか」
そう言って今度は頬にキスをしてくれた。藤也さんは怒っていない。それにあの女には二度と会わないと言ってくれた。それだけでホッとした。あんなにモヤモヤしていたものが綺麗に消えていく。いつもどおりに戻れたのがうれしくてギュッと抱きついた。
「こうやって抱きついてくるところもいい。捨てられんのが怖くて必死に縋ってくるのなんてたまんねぇだろ。そういうところも可愛い」
「俺、捨てられたくない」
「わかってる。絶対に捨てないから安心しろ。こんな可愛い奴を捨てる馬鹿はいねぇよ。あとは……そうだな。俺好みのエロい体ってのも可愛い」
「……っ」
耳をがぶっと食べられて驚いた。「ひゃっ」と声を上げると「そういう声も可愛い」と言ってまた耳にかじりつく。
「勘違いも嫉妬も悪くねぇ」
「んっ」
今度はうなじを撫でられて顎が上がった。
「一番は、おまえには俺しかいねぇって信じてるところだな」
「ふぁっ」
お尻をギュッと掴まれて声が漏れる。
「これからもこうして抱きしめてやるから安心しろ」
「……藤也さんっ」
うれしくて必死に抱きついた。
「しかし俺のことを信じ切ってないってのはよくねぇなぁ」
「え……?」
「嫉妬は可愛いが、どうせなら突っかかってくる嫉妬にしろ。『俺がいるのに女なんか連れて歩くな』くらい言えるようになれ」
「え、えと、そういうのはちょっと……」
「いや、それより『浮気できないように全部搾り取ってやる』のほうがいいか」
「あの、」
「ってことで、お仕置きだな」
おそるおそる見た藤也さんの顔は、すごく楽しそうに笑っていた。
この日、俺は夜中まで泣かされることになった。初めてのときも声がガラガラになったけど、翌日も同じかそれ以上にガラガラになった。もちろん一人でトイレに行くこともできなくて、また恥ずかしい思いをすることになった。