2 怖い人たちの事務所
ガチャリ。
夢の中で玄関が開く音がした。そのあと畳の上を歩く足音が聞こえてくる。
「こいつ、寝ながら泣いてるっすよ」
「静かにしろ。寝てるならちょうどいい。起きて騒がれても面倒だ」
「それもそうっすね」
誰かの話し声まで聞こえてきた。変な夢だなぁと思ったところで「あれ?」と気がつく。
(いまの声、夢じゃない気がする)
本当に誰かが部屋に来ている。もしかして家賃の催促だろうか。でも家賃は一週間くらい前に払ったばかりで、残りは来月にって話になったはず。
(今月は荷物運びの仕事が少なくて、あんまり払えなかったんだよな。……でもこの足音、いつもの人と違うような……)
この部屋はお母さんが働いていたお店の持ち物で、お店にいるサングラスの人が家賃を取りに来る。それ以外で部屋に来る人はいない。それなのに誰かが部屋の中にいる。
(誰かわかんないけど、とにかく起きないと)
そう思っているのに体はまだ寝ているのか動かなかった。
「こいつ、起きそうじゃないっすか?」
「薬を嗅がせておけ」
「了解っす」
顔を何かで覆われた。それが鼻にぴったりくっついて苦しい。手で払おうとしたけど手も腕も動かない。そのうちまた眠たくなってきた俺は、そのままもう一度眠ってしまった。
コツコツコツ、コツコツ、コツ。
(……歩く音がたくさん聞こえる)
いつもなら遠くに聞こえるはずの足音が近くで聞こえる。毎日聞いている酔っ払いの怒鳴り声じゃない声も聞こえてきた。
(もしかして、もう朝……?)
それにしては変だなと思いながらゆっくり目を開けた。最初に見えたのは知らない真っ白な天井だった。首をゆっくり横に向けると真っ黒なものがすぐ目の前にある。
(……なんだこれ?)
そういえば背中が痛くない。俺の布団はぺしゃんこだから寝ると痛くなるのにフカフカしている。「どういうこと?」と思って反対側に体を向けると、知らない男の人がいて驚いた。
「目ぇ覚めたか」
ものすごいピンク色の頭の人がしゃべっている。こんなにギラギラしたピンク色の坊主頭は初めだ。お姉さんたちが働いているお店のネオンと同じくらいすごい色に目をパチパチさせていると、ピンク色の頭がくるっとドアのほうを向いて「兄貴に起きたって伝えてこい!」と叫んだ。
(兄貴って……まさかサングラスの人のことじゃ……)
お店でよく聞く言葉に俺は慌てて飛び起きた。寝ていたのが真っ黒なソファだとわかり「やっぱり」と拳を握り締める。
(このソファ、お店の奥にあるやつそっくりだ)
そこは事務所の人たちが使う場所で、事務所にも同じソファがあると聞いたことがある。つまり、ここはそういう人たちがいる事務所ということだ。お店に充満している香水やタバコの臭いは好きじゃないのに、その臭いがしないことが不安になってくる。
(……どうしよう)
奥歯をグッと噛み締めた。足音が近づいて来るのが聞こえて、おそるおそる顔を上げる。
最初に部屋に入ってきたのは茶髪にサングラスをした人だった。派手じゃないスーツだけど、お姉さんたちのお店にいる人たちに雰囲気がよく似ている。その後に入ってきたのは黒髪の人で、すぐ後ろには金髪の人がいた。
(……黒髪の人、綺麗だな)
お店でも見たことがなくらい綺麗な顔に驚いた。スーツを着ているから男の人だとは思うけど、男か女かどうでもいいくらい綺麗な顔をしている。思わずボーッと見ていたら「ボスは見せもんじゃねぇぞ!」とピンク頭の人に怒鳴られて慌てて俯いた。
(この綺麗な人がボス……)
そんな偉い人が向かい側に座ったことに驚いた。
(どうして俺なんかの前に座るんだろう)
偉い人は俺みたいなどうでもいい奴の前には座らない。それ以前に顔を見せたりするはずがなかった。そのくらいのことはあの街に住んでいればわかる。それなのにどうしてボスみたいな偉い人が俺なんかの前にいるんだろう。
俯きながら膝に乗せた手をギュッと握り締める。嫌な汗が背中をたらりと流れた。心臓がドクドクうるさくなって頭がグルグルし始める。
「こら、子ども相手にいきがるんじゃない」
俺に言ったのかと思って慌てて目を瞑った。
「ハイッ、すんません!」
ピンク頭の人の声にビクッと体が震える。
「それから声、でかいよ」
「ハイッ、すんません!」
「……はぁ」
黒髪の人がため息をついた。どうしよう、どうしよう、それだけが頭の中をグルグルと回る。
(俺、どうなるんだろう)
静かなのが怖くて、じっと自分の膝を見る。
「で、本当にこの子どもが売人なのか?」
「締め上げたヤツのスマホにこいつの写真が残っていたっす。写真が残ってたほかの二人も売人だったんで、間違いないっす」
「メッセージの履歴も連絡先もなかったんですけどね。現場押さえて後つけさせたんで、売ってたのは間違いないですよ」
ピンク頭の人と……もう一人の声は茶髪の人に違いない。二人がなんの話をしているかはわからないけど、俺にとってよくないことだということだけはわかった。
「子どもを使って荒稼ぎしているとは聞いていたけど、それにしては子どもすぎやしないか?」
「ほとんどは大学生のようですけどね。中にはそのままシャブ漬けにして別の仕事もさせてるって話ですが……」
また静かになった。しかも見られている気がする。俺は動かないようにするため、なるべく息をしないようにしながら必死に奥歯を噛み締めた。
「さすがにこんな子どもには、そこまでやってないんじゃないっすかね」
「三玄茶屋の奴らもそこまで落ちちゃあいないでしょう」
「実際にシャブ漬けにされてるのは大学生が中心だったな」
「そうですね。最近はそれ以外にも手を広げているとは聞いていますが」
「もしやと思って連れて来させたけど、この子は大丈夫そうだな。……ふむ」
向かい側に座っているボスが俺を見ている……ような気がした。生え際からダラダラと汗が流れ落ちる。
「きみ、名前は?」
ボスの声に体がビクッと震えた。
(ど、どうしよう。俺が答えてもいいのかな)
でも勝手に答えたら殴られるかもしれない。どうしたらいいのかわからなくて、そっと顔を上げた。綺麗なボスが綺麗な指で顎を撫でながら俺を見ている。
「名前、教えてくれるかな」
どうして偉い人が俺なんかの名前を知りたがるんだろう。
(それに、きっと俺が答えたら殴るんだ)
あの人もそうだった。あの人はボスじゃなかったけど、名前を聞かれたから答えたら「勝手にしゃべるな」と言って殴ってきた。
(どうしよう、どうしよう)
背中がぐっしょりと濡れている。座っているお尻も汗で濡れているような気がしてきた。
「おい、ボスが聞いてんだぞ! さっさと答えろ!」
怒鳴り声に「ひっ」と声が出てしまった。慌てて奥歯を噛み締めながら目を閉じる。
「だから、子ども相手にいきがるんじゃないって言っただろう」
「ハイッ、すんません!」
俺が怒鳴られたのかと思った。それなのに答えたのはピンク頭の人で、どういうことだろうとそっとそっちのほうを見る。すると茶髪の人が「だからうるさいって」とピンク頭を叩いていた。でも、茶髪の人の顔は笑っている。
(……ここ、事務所だよね?)
それなのに俺が知っている怖い人たちと何かが違う気がする。
「で、名前は?」
慌ててボスを見た。答えないと今度こそ殴られるかもしれない。
「あ、あの、俺、そ、蒼って言い、ます」
やっぱりどもってしまった。しかも声も掠れてしまっている。「しゃべるな」と殴られたことを思い出して慌てて口を閉じた。今度こそ殴られる、そう思って下を向く。
「すっかり緊張してしまったじゃないか。そうだ、コーヒーを……って、子どもにコーヒーは駄目か。たしかオレンジジュースがあったはずだから持ってきてあげて」
「ハイッ!」
ボスの声に返事をしたのはピンク頭の人だ。「子どもに」とか「持ってきてあげて」とかいう言葉に、まさかと思いながら少しだけ視線を上げる。部屋を出て行くピンク頭の人が見えた。視線を動かすと綺麗なボスが俺を見ていることに気がついて、慌てて俯く。
「そんなにガチガチにならなくても別に取って食ったりしないよ。それにぷるぷる震えちゃって、まるで兎みたいだ。……うーん、たしかに小動物っぽいな。そうだ、ちょっと可愛がるくらい……」
「ボス」
「やだな、子ども相手に何もしないって。静流は真面目だな」
ボスと呼んだのは知らない声だ。きっとボスの後ろに立っている金髪の人に違いない。
「冗談はさておき、ソウくん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな」
そぅっと顔を上げて、こくりと頷く。そうしないと殴られると思ったからだ。
「ソウくんは……こういう箱を運ぶ仕事をしていた?」
綺麗なボスの綺麗な手の上に、俺がいつも運んでいる荷物と同じような箱があった。同じ箱かはわからないけど模様が似ている。大きさもそっくりだ。俺はもう一度こくりと頷いた。
「この箱の中身が何かは知ってる?」
仕事を始めたとき、中身が何かは知らなくていいと言われた。だから首を横に振る。
「じゃあ、この箱を……、あぁ、オレンジジュース来たね。まずはそれ、飲んで」
ピンク頭の人が俺の前にコップを置いた。たっぷりの氷が入ったコップの中身は濃いオレンジ色の液体で、とてもおいしそうに見える。昼から何も食べていなかった俺は、思わずごくりと唾を飲み込んでいた。
オレンジジュースなんて久しぶりに見た。最後に飲んだのはいつだったっけ……そんなことを思い出しているうちに口の中に唾が溜まっていく。
(……本当に飲んでもいいのかな)
窺うようにボスを見た。飲んでもいいか聞いたほうがいいのはわかっている。でも、どもってしまう俺の言葉はボスをきっとイライラさせる。どうしようと思いながらオレンジジュースをじっと見つめた。
「飲んでいいよ」
視線を上げるとボスが綺麗な顔で笑っていた。
(……ボスの命令は絶対だ。だからこのオレンジジュースを飲まないといけない)
唾をゴクリと飲み込んでから、汗びっしょりになった両手でコップを掴んだ。目を閉じて、慌てないようにゆっくりと一口飲む。
(う、うま……!)
あまりのおいしさに、気がついたらゴクゴクと一気に飲み干してしまっていた。
(一気飲み……どうしよう……)
そっとテーブルにコップを置いてから下を向く。
「これはまた、えらくおいしそうに飲んだな。おかわり、持ってきてあげて」
てっきり怒られると覚悟していたのに、まさかおかわりをくれるなんて驚きだ。本当にいいんだろうかと視線をうろうろさせていると、「それでね」とボスの声がして慌てて小さく頷く。
「ソウくんはこの箱を運ぶように言ってきた人のこと、知ってるかな」
ちろっと視線を上げてボスを見る。顔は笑っているけど目が笑っていない。こういうのは怒っているときの顔だ。俺は必死に話を聞いたときのことを思い返した。
荷物運びのことを教えてくれた人とは一度しか会っていないから名前はわからない。薄暗いお店の中だったから顔もほとんど見えなかった。声なら覚えているけど、声だけじゃ誰かなんてわからない。
俺は奥歯を噛み締めながら首を横に振った。「そうか」とため息をつくボスの声に、怒られると思って「ひっ」と首をすくめる。
「どうせそのうち見つかるだろうから、そのとき面割りさせればいいか」
「いいんですか?」
「だってソウくん、何も知らないみたいだからね。それに子どもにこれ以上怖い思いをさせるわけにもいかないだろう?」
子どもという言葉にビクッとした。
(あの人も最初は俺のこと、子どもだって勘違いしてた)
しゃべるなと言われたから、年齢を聞かれたときも黙ったままでいた。言われた数字にこくりと頷いたけど、後で十五歳だとばれて「嘘ついてんじゃねぇぞ」と殴られた。それから十六歳になるまで「嘘つきが」と言っては殴り、「ガキのくせに」と言っては蹴った。
(子どもじゃないって言わないと、またあのときみたいに殴られるかもしれない)
俺は小さい声で「お、俺、子ども、じゃない、です」と言った。するとまた部屋がシンと静かになった。黙っていたほうがよかったんだろうか。それとも先に言わなかったから怒ったのだろうか。
「子どもじゃないって……ソウくん、いくつ?」
ボスの声が低くなった。やっぱり怒らせたんだ。怖くて何も答えられずにいたら、「いくつなんだ?」とますます怖い声が聞こえてくる。俺は下を向いたまま「十七歳です」と答えた。
「え、マジで?」
茶髪の人の声がした。
「え?」
これは金髪の人の声だ。
「まさかの答えだな」
ボスの声は怒っているというより困っているように聞こえる。
「あれ? どうかしたんすか?」
戻って来たピンク頭の人が、俺の前にオレンジジュースを置きながら不思議そうな声を出した。でも、誰も返事をしない。
テーブルに置かれたオレンジジュースはやっぱりおいしそうで、本当はいますぐにでも飲みたかった。でも、いまそんなことをしたら殴られる。飲んでもいい雰囲気じゃないことは俺でもわかった。
「そうか、十七か」
「十七でも事務所に置いておくわけにはいきませんね」
「たしかにここには置いておけないな」
「かといって、このまま帰したところでまた売人を続けるでしょうし」
「あの辺りが静かになるまでは大人しくしておいてほしいところだ。どこからどう見ても子どもにしか見えないけど、年齢がわかればシャブ漬けにされてもおかしくないだろうからな」
「小遣い稼ぎの売人は軽く脅すだけで足を洗うでしょうけど、おそらくこのタイプは続けるでしょうね。その先は言わずもがなでしょう」
ボスと茶髪の人の話が終わり、また静かになる。
「そうだ、この子は藤也に預けよう」
「藤也さんにですか?」
茶髪の人が驚いたような声を出した。
「うん。だってあいつ、こういう子好きだろう? いまにも行き倒れそうな小動物が大好物だからな」
「ボス」
今度は金髪の人が少し強い声でボスを呼んだ。
「いいんだよ、あいつは好きで保護活動してるんだから。それに、この子はこのままにしておかないほうがいい。おそらく何かある」
ボスの声がまた低くなった。「勘ですか?」というのは茶髪の人の声だ。
「そうだ。そして俺の勘は外れたことがない。ということで静流、藤也に電話して」
俯いたままじっと聞いていた俺にもなんとなく状況はわかった。俺はたぶん誰かに預けられるんだろう。そっと顔を上げると金髪の人が誰かに電話をしているのが見えた。
(……また捕まったんだ)
前に捕まったときは意味がわからなかった。でも今回は違う。あの箱を運んでいたから捕まった。よくない仕事なんだろうとは思っていたけど、本当によくない仕事だったんだ。
これからどうなるんだろう。わからないけど部屋に帰れないことだけはわかる。これから誰かに預けられて、そこで何かさせられるに違いない。
(こういうとき捕まった人が連れて行かれるのは……)
大抵は風俗店だ。知り合いのお姉さんの中にはサングラスの人たちに捕まって働かされている人もいる。俺が知っている風俗店はお姉さんたちしかいなかったけど、男が働く風俗店もあると聞いた。きっとそういうお店に連れて行かれるに違いない。もちろんそういう店で何をさせられるかも知っている。そこで延々と働かされて、最後は臓器売買で売られるのが相場だとサングラスの人たちが話していた。
(部屋に帰れなくてもいいから、お母さんの写真だけは持って行きたかったな)
もうお母さんを思い出せるのはあの写真しかない。ほかの荷物はどうなってもいいけど、あの写真だけは持っていたかった。
(そうだ、まだ払い終わってない家賃はどうなるんだろう)
それに荷物運びの仕事もさぼってしまった。
(……それはいいか。だってあの仕事のせいで捕まったわけだし)
それに仕事をすっぽかしたとしても、事務所に捕まっている俺が運ぶ仕事の人たちに殴られることはない。
「ソウくん、オレンジジュース飲んでいいからね」
「……はい」
ボスは偉い人で怖い人のはずなのに優しい人だ。よくない仕事をしていた俺にこんなおいしいオレンジジュースを二杯もくれた。怖い人の中にもこういう人がいるんだなと思いながらコップを持つ。
(今度はゆっくり飲もう)
これが最後のオレンジジュースになるかもしれないと思った俺は、じっくり味わいながら飲んだ。そうして半分くらい飲んだところで俺を引き取るという男の人がやって来た。俺は半分残っているオレンジジュースを何度も見ながら、男の人に連れられて事務所を出た。




